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2024年12月29日説教「シメオンの賛歌」松本敏之牧師

ルカによる福音書2章22~38節

(1)ヌンク・ディミティス

12月8日より、「マリアの賛歌」「ザカリアの賛歌」「天使たちの賛歌」と、ルカ福音書に記されたクリスマスの賛歌を読んできました。今日はその最後として、「シメオンの賛歌」と呼ばれる歌をご一緒に読んでまいりましょう。シメオンの賛歌そのものは、それほど長いものではありませんので、もう一度その部分だけお読みいたします。

「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます。 私はこの目であなたの救いを見たからです。 これは万民のために備えられた救いで、 異邦人を照らす啓示の光、 あなたの民イスラエルの栄光です。」ルカ2:29~32

マリアの賛歌がラテン語でマグニフィカートと呼ばれ、ザカリアの賛歌がベネディクトゥスと呼ばれ、天使たちの賛歌がグローリア・イン・エクセルシス・デオと呼ばれるのにそろえて言うならば、このシメオンの賛歌は、ヌンク・ディミティス(Nunc Dimittis)と呼ばれて、やはりひとつの賛美歌となっております。「今こそ去らせてください」という意味です。今日も礼拝の終わりに、ヌンク・ディミティスの賛美歌を歌うことになっています(180番)。ただしこれはマグニフィカート、ベネディクトゥス、グローリアに比べると、それほど知られてはいません。そのひとつの理由は、これがアドベントやクリスマス当日ではなく、クリスマスの後の話の中にあるからだろうと思います。教会暦を厳格にまもる教会においては、大晦日にこの聖書の箇所を読んで、このヌンク・ディミティスを歌うそうです。確かに「今こそ去らせてください」という言葉は、一年を終わる時にふさわしいものでしょう。私たちもこのシメオンの賛歌の心を私たちの心とすることによって、この年の瀬の礼拝をまもりましょう。そして私たちは、その年に限らず、まさに終わりに向かって生きている存在ですので、そのことを改めて覚える機会にしたいと思います。

(2)主に献げられた貧しい方

イエス・キリストは両親に抱かれてエルサレムの神殿に連れて来られましたが、それは「主に献げるため」(ルカ2:22)でありました。これは旧約聖書以来の習慣で、最初に生まれた男の子(初子)は、主に献げられるということになっていました。ここにも「母の胎を開く初子の男子は皆、主のために聖別される」と引用されてい(ルカ2:23、民数記8:17他)。

しかしルカはこのことを記しながら、ユダヤ教の伝統をはるかに超えたことを考えていたのだと思います。それは、この幼子イエス・キリストは全人類の長男(初子)として、主に献げられたということです。

またここで「山鳩一つがいか、若い家鳩の二羽を、いけにえとして献げるためであった」(ルカ2:24)と記されています。実は、これは貧しい人の献げ物でした。この時代、豊かな人々は、最初の男の子を神殿に連れて行った時には、小羊を献げ物として献げました。ところがそれに手の届かない貧しい人は、この「山鳩一つがいか、若い家鳩二羽」でもかまわない、とされていたのです。

このことはイエス・キリストが飼い葉桶で眠っておられたことに通じます。イエス・キリストは、「人」となられただけではなく、「貧しい人」となられたのでした。王様の宮殿でお生まれになったのではなく、馬小屋でお生まれになった。お金持ちの家庭にお生まれになったのではなく、小羊を献げることのできないような貧しい家庭にお生まれになったのです。

そのイエス・キリストが私たちの長男として、主なる神に献げられようとしているのです。イエス・キリストは、私たちの代表として、主なる神と私たちの間に立ち、私たちをその主なる神と結びつけるために生きられ、そして死なれたのでした。

(3)老シメオン

さてその幼子イエスに一人の人物が出会いました。シメオンであります。このシメオンが一体何歳位であったのかは記されていませんが、昔から老人として理解されてきました。老シメオンとよく言われます。シメオンの物語に続いて出てくるもう一人の人物、アンナという女性は、はっきり84歳であったと記されています。現代の日本では84歳というのは、「老人一年生」程度かも知れませんが、この当時としては、かなり長生きの方であったのでしょう。しかしわざわざ84歳とはっきり記しているのは面白いですね。そのアンナと並んで登場するシメオンも恐らく老人であったのであろうというわけです。  またシメオンは、「主が遣わすメシアを見るまでは死ぬことはない」とのお告げを聖霊から受けていたというのです(ルカ2:26)。あるいはシメオン自身も、「今こそあなたはお言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます」(ルカ2:29)と言っています。「神様、私はもう死んでもいいのです。私の人生の目的を達しましたから、もう死なせてください」と言っている。こんなことは言うのは老人に違いないということなのでしょう。

クリスマスというのは、子どもがサンタクロースからプレゼントをもらったり、日本では若者が恋人と過ごしたり、どちらかというと、若者や子どもたちのお祭りだと考えられがちですが、主イエスの誕生を心から待ち望み、それが実現した時に誰よりも先に感謝して、真実な歌を歌うことができたのは、シメオンとアンナという二人の老人でありました。クリスマスの本当の意味をはっきりとわきまえていたのは、この二人の老人であったのです。

シメオンもアンナもしわの刻まれた顔であったかも知れませんが、輝きに満ちた美しい顔であったに違いないと思います。クリスマスというのは、ただ子どもたちの、楽しいだけのお祭り、あるいは若い人たちが恋人とデートをする日というわけではありません。まさに人生の終わりを見据えながら、私たちが死すべき存在、滅びに向かって生きている存在であるという、ごまかすことのできない現実の中でも、それでもなお喜んで歌うことができる。その本当の喜びの歌を与えてくれるもの、それがクリスマスなのです。

(4)シメオンの祈り

シメオンとは一体どういう人であったのでしょうか。彼がどんな仕事をしていたのかというようなことは何も書いてありません。ただ「この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた」(ルカ2:25)と記されています。そしてすでに申し上げましたが、「主が遣わすメシアを見るまでは死ぬことはない」とのお告げを聖霊から受けていた」(ルカ2:26)ということです。ここで興味深いことは、この後の27節も含めて、3回も続けて「聖霊」について語られていることです。「聖霊が彼にとどまっていた」(25節)。「お告げを聖霊から受けていた」(26節)。「この人が霊に導かれて神殿の境内に入った」(27節)。それは言い換えれば、神が彼と共にあったということです。

彼は、自分が慰められることよりも、神の民と呼ばれるイスラエルが慰められなければならない、そうでなければ自分は死ぬわけにはいかないという祈りをもっていたのです。ただし彼はイスラエルだけのために祈っていたのではないでしょう。

賛歌の中で「これは万民のために備えられた救い」(30節)と言い、さらに「異邦人を照らす啓示の光」(31節)とも言っています。イスラエルの救いだけではなく、万民の救い、異邦人の救いも視野に入れている。それを抜きにして、イスラエルの慰めもありえないということを悟っていたのかも知れません。

イスラエルの民だけではなく、世界中の人々、現代の世界で言えば、日本人も中国人も朝鮮人も、アメリカ人もイラク人もイラン人も、みんなが、これはわれわれの救いだと見ることができるような救いを整えてくださったと、歌うのです。

(5)この目で救いを見た

彼はここで「私はこの目であなたの救いを見た」(30節)と言います。これは不思議な言葉です。彼は実際には、まだ幼子イエス・キリストを見ただけです。その幼子がやがて成長し、救いの御業をなすようになるわけですが、それはまだまだ先のことです。それにもかかわらず、彼はすでに「救いを見た」というのです。

これはシメオンの信仰の幻と言ってもいいでしょう。彼にとって「救い主を見る」ということは「救いを見る」ということと同じことでありました。この幼子を見ながら、そこに神様がかかわっておられるならば、将来に何が起こるかということを、いわば透視することができたのです。彼の目の前にあるイスラエルの現実は、恐らくまだ、それまでと同じく悲惨な状態が続いていたに違いありません。しかし神様はこのイスラエルをお見捨てになっていない。その証拠として救い主をお遣わしになった。それが彼にとっては「救いを見た」ということでありました。

ヨエル書にこういう言葉があります。

「その後、私はすべての肉なる者にわが霊を注ぐ。 あなたがたの息子や娘は預言し 老人は夢を見、若者は幻を見る。」ヨエル3:1

この「夢を見る」「幻を見る」というのは、ひとつの言い換えと見てもいいでしょう。夢の中にも、将来のヴィジョン(幻)をはっきりと見るのです。

こういうのを、終末論的視点と言います。将来、歴史の終わりのところから、今の私たちの現実を振り返り見る視点です。私たちは普通、今という視点でしかものを見ることができないものですが、聖霊が注がれ、神様の約束を知っていることによって、もうひとつの視点が与えられる。ヘブライ人への手紙11章1節に「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(新共同訳)と記されています。まさにシメオンもこの時、信仰の目でもって「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認」して、「救いを見た」のでしょう。

(6)啓示の光

シメオンはさらに、「(これは)異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの栄光です」と言っています。「啓示の光」というのは、ただの光ではありません。神様から出ている光です。神様が私たちに向かって、ご自分の方から顕された光です。これは先程申し上げた終末論的視点というのと関係があります。この光によって、私たちは自分の目の前にある現実を、違った仕方で見ることができるようになる。今までとは何も変わっていないように思える現実を、神様の約束を知っている者として、将来の視点から振り返り見ることが許されるのです。それが啓示の光です。神が共におられる。シメオンが救いを見たというのも、まさにこの「啓示の光」によって見たのだということができるでしょう。

(7)信仰は、いつも新しい驚き

「父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いた」(ルカ:33)とあります。この「驚いた」というのは、18節に出てきた「聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った」という箇所の「不思議に思った」というのと同じ言葉です。

父と母というのは、マリアとヨセフです。マリアもヨセフもそれぞれに天使ガブリエルの言葉を聞いて、自分たちの腕に抱かれている幼子が、一体誰であるか、どういう存在であるかを、それなりに知っていたはずです。それにもかかわらず、シメオンの歌を聞いて、驚いたのです。知っているはずのことに驚く。私は信仰とはそういうものであろうと思うのです。いつも驚きをもたらす。神がこの世界にかかわられる時、一体何が起きるかということを、聖書を通して、あるいは説教を通して知っているはずなのに、それでも驚かされるのです。

神のおっしゃったこと、聖書に書いてあることは本当であった、と驚くのです。神が生きて働いておられる現実に触れる時、私たちは自分が揺り動かされる経験をいたします。いつも新しい。既成事実になっていまわない。何らかの原則になってしまわないのです。

今年はどんな年であったでしょうか。さまざまな事件がありました。能登半島の大地震で一年が始まりました。その他にも幾つかの大きな災害がありました。世界に目を向ければ、ミャンマーでの軍事クーデターからまもなく4年になろうとしています。ロシアのウクライナ侵攻も、イスラエルのガザ侵攻も、まだまだ終わりそうにありません。その上、中東全体が一触即発状態になってしまいました。大変な宿題を負ったまま新しい年を迎えようとしています。皆さんお一人お一人の現実も、それぞれに厳しいことがあったかも知れません。さまざまな課題、悩みを抱えたまま新しい年へ進みゆこうとしておられる方も多いでしょう。大切なご家族を天に送られた方もあるでしょう。しかしそうした厳しい現実の中で、将来から、歴史の終わりから、私たちの人生の終わりから今の現実を振り返り見る視点を与えられているのです。そしてそれをすでに得た者として、喜びの歌を歌うことができる。そうした思いを新たにし、それによって心をしっかりと定め、その上で心安んじて、主のご用のために働くものとなりたいと思います。

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