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2024年12月24日説教「もろびとこぞりて」松本敏之牧師

イザヤ書60章1~3節、詩編98編4~9節 ルカ福音書2章1~14節

(1)みんなで集まって、主を賛美しよう

クリスマス、おめでとうございます。

私たち、鹿児島加治屋町教会では、今年のアドベントとクリスマス、「もろびとこぞりて」というテーマを掲げて歩んできました。「もろびとこぞりて」というのは、有名な賛美歌の題名ですが、この言葉は、古語、昔の日本語です。「大勢の人が一人残らずみんな集まって」という意味です。鹿児島加治屋町教会では、今年度の年間主題として、「礼拝に集い、主を賛美しよう」という言葉を掲げています。

コロナ禍において、対面で礼拝に集うのを控えたり、大きな声で賛美歌を歌うことを自粛したりしてきました。キャンドル・サービスも2年間位は動画配信のみといたしました。今、ようやく、そうしたコロナ禍の長いトンネルを、一応抜け出して、みんなで集まって礼拝をし、心から賛美歌を歌いましょう、ということであります。「もろびとこぞりて」というテーマも、そうした中から生まれました。賛美歌のほうはこういう言葉です。

「もろびとこぞりて いざむかえよ  ひさしく待ちにし 主は来ませり  主は来ませり 主は、主は来ませり」

(2)今年の出来事

さて皆さんは、この1年、どんな思いで過ごして来られたでしょうか。この1年もさまざまな出来事がありました。今年の大きなニュースを振り返ってみますと、もっとも大きなことのひとつは、1月1日に起こった能登半島大地震でしょう。ある面では、熊本大分地震を上回る大きな被害が出ました。そして9月には同じ地域で大雨による水害が起こり、多重災害となりました。今もなお、元の生活に戻れず、大勢の方々が苦しんでいることを忘れないようにしたいと思います。

日本の政治でも、さまざまな動きがありましたが、アメリカでは大統領選が行われ、共和党候補のドナルド・トランプ氏が民主党候補のハリス・カマラ氏を破って当選いたしました。来年1月から、4年ぶりにアメリカの大統領に復帰することが決まりました。私などは、トランプ氏のかつての政策や現在の言動からして大きな憂いと不安を持っていますが、皆さんはいかがでしょうか。「ロシアとウクライナの戦争も一日で終わらせてみせる」と豪語していますが、どういう終わらせ方をするのかが問題となるでしょう。ウクライナを犠牲にして、ということではないかと懸念いたします。彼の発想の根本には、自分や自分の属する共同体、自国の利益を最優先して考えるということがあります。その中心にあるモットーが「アメリカ・ファースト」という言葉でしょう。

(3)自分中心ではなく

そうした自分中心主義、自国中心主義は、アメリカだけではなく、世界中に広がってきているように思います。世界中で行われている戦争の根本にもそういう考え方があります。ロシアのウクライナ侵攻にしても、イスラエルのガザ侵攻にしても、そうでありましょう。そうした歩みをする多くの国が、キリスト教やユダヤ教など、聖書の信仰に立っているはずの国々であるというのは、皮肉なことです。しかし皮肉なことで済ますことはできません。そこでは力をもつ人々、武力をもった国が、力によって自分たちの言い分を通し、武力によって相手を支配しようとすることがまかり通っています。そこで犠牲になるのは、いつも力をもたない人々、弱い人々です。とりわけ子どもたちです。私たちは聖書の神さまを信じるならば、その神様はどういうふうに世界を導こうとしておられるかを、真剣に耳を傾けなければならないでしょう。

イエス・キリストは、戒めの中で最も大事な戒めは、第一に「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛すること」、そして第二に「隣人を自分のように愛すること」だと言われました。これは、お隣の場所で生まれた西郷隆盛の座右の銘であった「敬天愛人」という精神、つまり「天を敬い、人を愛する」という精神に通じるものです。私たちの敬愛幼稚園も、この西郷さんの「敬天愛人」と、先ほどのイエス・キリストの教えに、通じることがあるところから、「敬愛幼稚園」と名付けられました。

(4)神を愛することと隣人を愛すること

ところで、この神を愛することと隣人を愛することは、二つ別々の戒めのように見え、イエス・キリストもそのように語っておられますが、実は深いところで、つながっています。私は、一つの戒めの二つの形態のように思います。「隣人」というのは、単に「隣にいる人」のことではなく、聖書では「隣にいて助けを求めている人」のことです(ルカ10・29~37参照)。聖書の神様は、そういう人を決して放っておかれません。

聖書の神様が、どういうお方であるかを示す、大事な聖句があります。それは旧約聖書の申命記10章17~18節に記されていますが、こういう言葉です。

「あなたがたの神、主は神の中の神、主の中の主、偉大で勇ましい畏るべき神、偏り見ることも、賄賂を取ることもなく、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛してパンと衣服を与えられる方である。」

この前半にも深い意味があるのですが、今日は後半の言葉に心を留めたいと思います。聖書に記されている神様は、「孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる」(申命記10・18)方だというのです。「孤児、寡婦、寄留者」(みなしご、やもめ、外国人)というのは、当時の社会で弱い立場の人の代表でありました。ですから、その神様が大事にされる人たち(社会で弱い立場の人たち)を大事にすることこそが、神様を愛することなのだと私は思うのです。この力をもたない人々、端っこに追いやられた人々、権力の犠牲になっている人々、その人たちを大事にすることによって、神様への愛を示すのです。ですから、後半の戒め、弱い「隣人」を愛することを抜きにしては、神様を信じる、神様を愛するという信仰もありえないのだと思います。そういう意味で、この二つの戒めはくっついているのだと思うのです。

(5)映画「旅するローマ教皇」

私は映画が好きで、毎年、多くの映画を観ています。ただ映画館に行く時間もないので、WOWOWなどで放映されたものを録画して、封切からすると1年遅れくらいで観ています。今年観た映画のうち、最も心に残った映画の一つに「旅するローマ教皇」(2022年、イタリア)という映画がありました。鹿児島加治屋町教会の機関紙「からしだね」の最新号にも、その映画についてのコラムを載せていますので、よかったらお読みください。

この映画は、南米出身初のローマ教皇フランシスコが、就任の2013年から2022年までの9年間に、37回53か国を旅し、多くの人たちと出会い、語り合った、その貴重な記録です。

フランシスコという名前は、12世紀から13世紀にかけて生きたアッシジのフランチェスコから取られています。アッシジのフランチェスコは清貧に生きた修道士として知られ、「私を平和の道具としてください」という「フランチェスコの平和の祈り」も、彼自身の作ではありませんが、その精神は、アッシジのフランチェスコに由来するものと言ってよいでしょう。

現代の教皇フランシスコも、そうした精神を受け継いでいます。教皇フランシスコは、1936年にブエノスアイレス生まれ、本名はホルヘ・マリオ・ベルゴリオと言います。1960年代から80年代まで、南米では軍政の嵐が吹き荒れる中、「貧しい人の優先」を掲げて軍政と対峙する「解放の神学」が生まれてきます。ベルゴリオ神父(後のフランシスコ教皇)は、表立った解放の神学者ではなかったが、その重要性を認識していた。そのセンスは彼が教皇になってから如何なく発揮されていきました。

この映画に表れている教皇フランシスコの姿勢に貫かれているのは、弱い人々、抑圧されている人々には希望とあきらめない勇気を語ることであり、力をもつ人々には、悔い改めと連帯を語ることであります。

(a)イタリア、ランペドゥーサ

冒頭の場面は、ランペドゥーサというイタリアの海岸沖です。そこに恐らくアフリカ大陸から漂流して流れ着こうとしている船とのやり取りが聞こえてきます。「何人だ」「250人だ」「位置はどこだ」。しかし、そこで音声は途絶えてしまいました。そしてひっくり返った船から海へ飛び込む大勢の人が映し出されます。

教皇はその数週間後、ランペドゥーサの広場に、やってきました。そして教皇は語ります。

「『難民、海で亡くなる。希望を積むはずだった船は死の乗り物となった。』これが新聞の見出しです。私は数週間前に、この悲報に接しました。不幸にも何度も繰り返されてきたことですが、この悲報のことを思うたびに、心に刺さった棘のように、胸が痛みました。この地に赴き、祈らなければ、と感じました。誰がこの知らせに涙を流したでしょう?誰がこの兄弟たちの死に泣いたでしょう?船に乗っていたこの人々のために、子どもを抱いた若い母親のために、家族を養うすべを求めてやってきた人々のために。 私たちの社会が失ったのは泣くという体験です。苦を共にする体験です。無関心のグローバル化が泣くという力を奪ったのです。」

(b)ブラジル、リオデジャネイロ

ブラジルのリオデジャネイロでは、ファベーラと呼ばれる巨大なスラム街を訪問しました。そしてこう語りました。

「こんにちは。今日は皆さんに、特にこのバルジニャ地区の方々に申し上げたい。皆さんは1人ではない。教会は皆さんに寄り添います。教皇も皆さんと一緒です。私たちの社会を支配しがちなエゴイズムと個人主義の文化が住みやすい世界を築くのではない。連帯と絆の文化こそが築くのです。連帯の文化とは、人間を競争相手やただの数ではなく、兄弟として見る文化です。私たちは皆兄弟なのです。」

(c)キューバ

キューバではこう語りました。

「日々の現実の中で大切なのは、夢を見る力です。夢を見る力のない若者は自分の殻に閉じこもり、孤立していきます。人はかなわない夢を見る。それでも夢を、願いを、新しい地平線を探そう。大きな何かをめざそう。キューバでは知りませんが、アルゼンチンでは『引き返すな』と言います。引き返すな。切りひらけ。切りひらいて、夢を見る。夢を見ましょう、この世界を、あなたが変える未来を。夢を見ましょう。皆さんがベストを尽くせば、この世界は別の姿になるかもしれない。」

(d)アメリカ

アメリカ合衆国では、大胆にこう語りました。

「対話を重ね、平和に貢献すること、それは真の意味で勇気のいることです。世界中の紛争を減らし続け、最終的にそれらを終結させる決意をすることです。 私たちは自問すべきです。なぜ人を殺す兵器が売られているかを、人や社会を苦しめる人々にそれらを売られている理由を。悲しいことですが、その理由はお金のためです。そのお金は血に染まっています、罪のない者の血に。この恥知らずで罪深い沈黙を前に、私たちが果たすべき務めは、この問題に立ち向かい、武器の売買を止めることです。」

(6)「もろびとこぞりて」平和の道へ

これらの教皇の言葉や行動は、トランプ氏をはじめとする、自分中心、自国中心的な方向とは真逆で、愛と連帯による力を信じようという願いに満ちています。それは、神様が弱い人たちを大事にされた姿勢に通じるものです。そうした中にこそ世界をよい方向へと変革する道が示されているのだと思います。

私たちは「もろびとこぞりて」、主をほめたたえるだけではなく、「もろびとこぞりて」、神様の示される隣人を愛する道へと進んで行きたいと思います。

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