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2024年11月17日説教「愛の預言者ホセア」松本敏之牧師

ホセア書11章1~9節
ヨハネによる福音書1章14節

(1)十二小預言書、ホセア書

鹿児島加治屋町教会独自の聖書日課も、いよいよ最後の部分に入ってきました。三大預言書と呼ばれるイザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書を終え、その後ろの少し異色のダニエル書の次は、旧約聖書の最後に位置する十二小預言書と呼ばれる部分です。その中にはオバデヤ書のように1章だけのものもあります。十二小預言書の章の数を全部足すと、全部で67章となります。たとえばイザヤ書の場合は、イザヤ書だけで66章ありますので、三大預言書に比べると随分小さいことが分かります。

さて、今回は十二小預言書の最初にあるホセア書を取り上げることにしました。全部を取り上げることは難しいですが、来週は続けて、アモス書を取り上げます。それぞれの預言者の強調したことをタイトルに掲げて、「愛の預言者ホセア」、「義の預言者アモス」といたしました。

ホセアが活動したのは、紀元前8世紀の後半(恐らく紀元前720年代)です。南北に二つに分裂していたうちの北イスラエル王国の末期(滅亡前夜)です。イスラエルを導いた、まことの神ヤハウェを礼拝せず、自分たちの繫栄を安易に約束するバアルという偶像を拝み、祭司も一緒になって罪を犯していました。性的に不道徳な行為が祭儀の重要な部分として行われたりもしていました(4:4~14)。

このように腐敗したイスラエルに対して、ホセアの預言はどのようなものであったでしょうか。来週お話しするアモスの場合は、真正面から神の正義と公道を説き、その罪の審判を警告したのですが、ホセアの場合は少し違っていました。アモスとは対照的に、不信(不信仰)のイスラエルに対する神の不変の愛を説く預言となって現れました。正面から「お前は間違っている」というのではなく、神様の愛を説くことによって、逆に人々の間違いに気づかせようとしたのです。

(2)ホセアの悲劇的な家庭問題

ホセアが「神の愛」を説くきっかけとなったのは、ホセアが体験した悲劇的な家庭問題でした。彼はゴメルという女性と結婚していましたが、彼女は姦淫を犯して夫ホセア以外の男性による子どもを二人も生んでしまいます。そして彼女はホセアを離れて、娼婦となり、奴隷に売られてしまいます。ところがホセアは、「行って淫行の女をめとり、淫行の子らを引き取れ」という命令を受けるのです(ホセア1:2)。ホセアは、一瞬、何という不名誉で恥ずかしいことだろうと思ったことでしょう。しかし神様は続けて、ホセアにこう語りました。

「この地は甚だしく淫行にまみれ、主に背いているからである。」ホセア1:3

そこにホセアは神様の深い御心を聞き取るのです。つまり、彼は愛する妻に裏切られる経験によって、ヤハウェに背いているイスラエルの現実に気づくのです。妻が夫を捨てて他の男のところへ走ったように、イスラエルはヤハウェから離れてバアルの神に走ってしまった。イスラエルという国はゴメルと同じ姦淫を働いている。ホセアは、それでもヤハウェの神さまはイスラエルを愛そうとしていることを知るのです。「その女を連れ戻せ」という命令を通して、ホセアの個人的な不幸な体験が、神様のより高く、より深い御心、つまり神様の絶対的な愛、人間の裏切り、不信仰にもかかわらず、愛し続ける姿を示すために用いられるのです。

(3)神の民を最初から導いてこられた神

そのような神様の愛を最もよく示しているのが第11章です。先ほど読んでいただいたところです。それはこういう言葉です。

「まだ幼かったイスラエルを私は愛した。
 私はエジプトから私の子を呼び出した。
 しかし、私が彼らを呼んだのに
  彼らは私から去って行き
 バアルにいけにえを献げ、
  偶像に香をたいた。
 エフライムの腕を支え
 歩くことを教えたのは私だ。」ホセア11:1~3

このエフライムという言葉が出てきますが、広い意味でイスラエルのことだと理解していただいてもよいでしょう。神様の選ばれた民を、その歴史の初めから、それがまだよちよち歩きの頃から、ずっと手を取って支え、成長を見守ってきたというのです。続けてこう言われます。

「しかし、私に癒されたことに
 彼らは気付かなかった。
 私は人を結ぶ綱、愛の絆で彼らを導き
 彼らの顎から軛を外す者のようになり
 身をかがめて食べ物を与えた。」ホセア11:3b~4

神様ははるかに人間を超えたお方です。神様と人間は、全く大きさが違うの。ですからその神様が人間に何かを食べさせようとすると、神様は人間にあわせて身をかがめなければならない。ご自分のほうから体のサイズを人間に合わせてくださったというのです。この言葉は、クリスマスを予感させるものですが、そのことは最後にもう一度申し上げましょう。

(4)いても立ってもいられない神

7節ではこう述べられます。

「わが民はかたくなに私に背いている。
 彼らがいと高き者に向かって叫んでも
 決して届かない。」ホセア11:7

神様がそのように一心に愛を注いでいるのに、イスラエルの民のほうはその愛を知らない。御心を知ることができず、今自ら滅びようとしている。そしてここで神様は、そのように自滅しかかっている人々に対して、「もう好きなようにするがいい。滅びるならお前たち、自分の責任だ。自業自得だ」と言いながら、突き放そうとしかけておられるようであります。それがこの7節です。ところがどうでしょうか。そこで突然、何かを思い出したように引き返してくるのです。

「ああエフライムよ
 どうしてあなたを引き渡すことができようか。
 イスラエルよ
 どうしてあなたを明け渡すことができようか。
 どうしてアドマのようにあなたを引き渡し
 ツェボイムのように扱うことができようか。」ホセア11:8a

アドマ、ツェボイムというのは、かつて神様に背いて滅んだとされる伝説の町の名前です。それらと同じようにすることがどうしてできようか。そういう神さまの嘆きのような言葉です。とても自分の愛する者が滅んでいくのを見ていることはできない。それを無視して立ち去ることができない。これが神様の愛の姿です。何か神様がおろおろしているように見えます。いても立ってもいられない。これは神様らしからぬ姿ではないでしょうか。神様というのは、何があっても動揺しない。人間を超越していて静観しておられるのが常識的な神様の姿ではないでしょうか。ところが、ここに描かれている神様は違うのです。そして次のように言います。

「私の心は激しく揺さぶられ
憐れみで胸が熱くなる。」ホセア11:8b

前の新共同訳では「憐れみで胸が焼かれる」と訳されていました。いかがでしょうか。これが神様の愛です。「恵みと真理に満ちた」(ヨハネ1:14)お方の愛とは、神様らしくなく、いても立ってもいられない姿であらわれるのです。例えばギリシャ神話(ギリシア世界)のゼウスは、決しておろおろしません。人間にいちいち同情しません。それは神様にふさわしくないことです。何があろうと平静心を失わずに、全体を見渡している。しかしこの聖書の神様は違うのです。「私の心は激しく揺さぶられ、憐れみで胸が熱くなる」「憐れみに胸を焼かれる」。

(5)私は神であって、人ではない

ホセア書の言葉は、この言葉をクライマックスとして、何かすうっと興奮が落ち着いていく感じがします。この8節と次の9節の間には、何かギャップがあるように見えます。

「私は、もはや怒りを燃やさず、再びエフライムを滅ぼすことはない。
 私は神であって、人ではない。
 あなたのただ中にあって聖なる者。
 怒りをもって臨むことはない。」ホセア11:9

神様は、「私は神であって、人ではない」と宣言されました。しかしその宣言の意味することは、私たちの考えることと少し違っています。普通は「神であって、人ではない」、ということは、人間を超越していて、何があっても動じない。人間が滅んでいこうとも動じない。びくともしない。そういうことを思い浮かべるのではないでしょうか。しかしここではそうではありません。「私は神であって、人ではない」と言いながら、人間のことが心配で心配でたまらない。おろおろしています。そして人間に近づいてくるのです。

(6)愛のゆえに

ところがそれでも確かに、この神は人間を超越していることがあります。それは愛の面で超越しているのです。普通、人間であれば、悪いことをされたら、あるいは裏切られたら、相手を憎んだり、怒りをもって報復したりするでしょう。しかし「それをしない」ということが、「神であって、人ではない」ということの意味なのです。そして不思議なことが起こりました。愛がけた違いに大きいがゆえに、「私は神であって、人ではない」と言われた神が、その愛のゆえに、こともあろうに逆に、やがて人間になってしまったのです。「言は肉となって、私たちのうちに宿られた」とは、そういう大きな、そして不思議な出来事を語っているのではないでしょう。

人間が神になることはできませんが、全能の神であれば、私たちの想像を超えたことですが、人間になることだってできる。神は怒りと裁きをご自分でお引き受けになるために、独り子なる神、イエス・キリストをこの世界に送られることを決意なさった。私は、この8節と9節の行間に、神様のそういう決断があったのではないかと思うのです。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」ヨハネ3:16

神は遠いところから人間を見守るだけではいられなくなってしまった。それだと人間は滅びるばかりだ。だからもっともっと近くに、見える形で来られた。それがイエス・キリスト、と言えるのはないでしょうか。そのお方は、神様の愛のしるしでありました。だから恵みと真理に満ちていたのです(ヨハネ1:14)。

(7)神が人となる、クリスマスの出来事

ホセア書11章4節にこういう言葉がありました。

「私は人を結ぶ綱、愛の絆で彼らを導き
 彼らの顎から軛を外す者のようになり
 身をかがめて食べ物を与えた。」ホセア11:3b~4

神さまと人ではいわばサイズが違う。サイズの違うものが同じ目線になるためには、大きいほうが身をかがめて小さいほうに合わせなければならない。この時、神様がなさったのはそういうことでした。私は、その延長線上にクリスマスがあったのだと思うのです。神様が人間と同じ目線になるために、同じところに立つために、とうとう人間になってしまった。それがクリスマスという出来事だと思います。それが「言は肉となって、私たちの間に宿った」ということの意味です。そこには、私たちの秤、物差しでは測りきれないほど大きな神様の愛があるのです。

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