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2024年10月27日説教「神のものは神に」松本敏之牧師

歴代誌上29章10~14節
ルカ福音書20章20~26節

(1)練りに練られた作戦

9月から少しずつ、ルカ福音書の講解説教を再開しました。前回は9月29日に、20章9~19節の「『ぶどうと園と農夫』のたとえ」と題された箇所を読みましたが、今日はその続きの箇所です。このたとえ話は、「ぶどう園の主人が旅に出るに際して、農場を農夫たちに任せて行ったのに、彼らは好き放題のことをし、僕を送っても袋叩きにしてしまった。最後に、息子を送ったら、それを殺してしまった」という話でした。その終わりの19節には、こう記されています。

「その時、律法学者や祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気付いたので、イエスを捕えようとしたが、民衆を恐れた。」ルカ20:19

今日の話は、それを受けてこう始まっています。

「そこで、機会を狙っていた彼らは、正しい人を装う回し者を遣わし、イエスの言葉尻を捕らえ、総督当局にイエスを渡そうとした。」ルカ19:20

「機会を狙っていた彼ら」とは、19節の「律法学者たちや祭司長たち」、つまり当時の宗教世界の権威者たちでありました。彼らの思いは、もうイエス・キリストを絶対に許せないというところにまで達しています。徹底的に批判された宗教的指導者たちは、もはや堪忍袋の緒が切れる寸前です。いや彼らはもうイエス・キリストを殺す決意をしているのです。あとはいかにしてそれを実行に移すか。いかに合法的に、巧みに、しかも自分たちの手を汚さないで殺すか、ということでした。しかし民衆を恐れて手を出せませんでした。イエス・キリストが民衆の支持を得ていたからです。

そこで「回し者」を使うという作戦に出ます。この話、いわゆる「納税問答」は、マルコ福音書にもマタイ福音書にも出てくる有名な話です。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」という言葉は、聖書の中の最も有名な言葉のひとつでしょう。

しかしそれぞれ、誰がそれを質問したのかは、福音書によって微妙に異なっています。マタイ福音書では、宗教的指導者のうちファリサイ派の人々が、弟子たちを遣わすのです。彼ら自身はもう顔を知られているでしょう。それでいかにも下から「弟子として先生に尋ねる」という形をとりました。

そして弟子たちを単独で送るのではなく、ヘロデ派の人々と一緒に遣わすということでした。ファリサイ派とヘロデ派は全く相容れず、互いに対立しているグループでした。ヘロデ党の人々というのは、ヘロデ王家の支配を支持する党派で、ローマ帝国に追随し、地上の繁栄を楽しもうとする人々です。当然、ローマへの税金も支払うべきであると考えています。一方、ファリサイ派は、律法を守ることを他の何よりも大切にする禁欲的な人々です。ローマに税金を支払うことについては、ユダヤ人の代表として、少なくとも表面上は疑問を投げかけていました。それが今、一緒になって主イエスのもとに赴こうとしている。なぜか。それはこの両者にとって、お互いを憎みあう以上に、主イエスの存在が我慢ならなかったからです。このイエス・キリストを陥れるために、いわば一旦休戦協定を結んで、目の前の敵に対して共同戦線を張ろうということでしょう。主イエスがこう答えれば、こっちが許さない、ああ答えれば、あっちが許さない、という隙間のない攻めを計画したのでした。

マルコ福音書では、「人々は、……ファリサイ派やヘロデ党の人を数人イエスのところに遣わした」(マルコ12:13)とあります。この人々というのが誰かをさかのぼって見てみると、民衆、群衆ではなく、やはり宗教者たちのようです。「祭司長、律法学者、長老たち」(11:27)です。彼らが、ファリサイ派とヘロデ党の人をいっしょに行かせたのは、やはり先ほど説明したとおり、どう答えてもどちらかが黙っていない、という罠が仕掛けられていたからです。

(2)回し者

ルカは面白いですね。「回し者」が行くのです。「回し者」という日本語は、ちょっと古いのではないでしょうか。あまり使いません。英語の聖書を見てみると、「スパイ」と訳されていたり、「エイジェント」と訳されたりしていました。カタカナでそう書くほうが日本人にとってもわかりやすいかもしれません。「エイジェント」を逆に日本語に訳すと、一般には「代理人」となるでしょう。「シークレット・エイジェント」となれば、まさしく「スパイ」です。トム・クルーズが主演の「ミッション・インポッシブル」というシリーズの映画がありますが、あれは、まさにスパイ、シークレット・エイジェントの世界です。「ミッション・インポッシブル」の映画のもとになったのは、もともとアメリカで放映されていた「スパイ大作戦」というテレビドラマだったそうですが、そこからもわかりますように、その任務は「スパイ」なのです。失敗すると、その存在そのものがなかったかのようにふるまわれる。

いずれにしろ、ルカ福音書では、イエスのもとへ遣わされたのはスパイでした。しかも「正しい人を装う」スパイです。彼ら、つまり律法学者たちや祭司長たちの作戦は、言葉尻をとらえて罠にかけるということです。正面から切り込んでも、イエス・キリストが手強いことを、彼らはもう心得ています。

回し者(スパイ)たちは非常に言葉巧みにイエスに近づき、主イエスに向かって「先生」と呼びかけます。もちろん心の中では「先生」であるとは思っていません。

「私たちは、あなたが語り、教えておられることが正しく、また、分け隔てをせず、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています。」ルカ20:21

この言葉そのものは、まことに適切に、イエス・キリストがどういうお方であるかということを見事に言い当てています。ところが、その言葉が正しく立派であればあるほど、偽りの心で、それが語られる時は、空しいのです。ここで語られている言葉が客観的に正しいということが、逆にそれを語っている人の不真実や欺瞞を告発しているといえるでしょう。

「ところで、私たちが皇帝に税金を納めるのは、許さている(律法に適っている=新共同訳)でしょうか、いないでしょうか。」ルカ20:22

勝ち誇ったような自信が、彼らを一見へりくだらせています。悪意に満ちた薄笑いさえ感じます。この税金を納めるということは、ローマの支配を認めるということでした。もしも主イエスが、「許されていない」と答えれば、イエス・キリストを総督の支配と権力にゆだねることができる。その背後にはローマの力があります。また「許されている」と答えれば、ユダヤの民衆が黙っていません。どちらに答えても、イエス・キリストを陥れる罠が仕掛けられていたのです。

(3)イエス・キリストの天来の知恵

主イエスは、彼らのたくらみを見抜いて、こう言われました。マタイでは、「悪意に気づいて言われた」となっており、マルコでは「偽善を見抜いて言われた」なっています。ルカでは、たくらみを見抜いて、というのです。スパイですから。主イエスは逆に問い返されます。

「デナリオン銀貨を見せなさい。そこには、誰の肖像と銘があるか。」ルカ20:24

彼らはデナリオン銀貨を持ってきて、見せて、「皇帝のものです」と答えました。すると、主イエスはすかさず、こう言われます。

「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」25節

一般的に言われる訳で言えば、「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」という言葉です。彼らはこの答えを聞いて、言い返す言葉もなく立ち去っていきました。本当に、人知を超えた知恵が備わった見事な答えです。

さて、この問答は、イエス・キリストの「神がかり的な知恵」を示すものです。イエスさま対して「神がかり的」と言うのは」失礼かもしれません。「天来の知恵」を示すものであります。しかしそれだけにとどまりません。とても大事なことを教えてくれます。この「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」という言葉が、その後、聖書の中で最も有名な言葉に定着したのも、大事なことを語っているからです。

わたしたちはこの世の中で社会生活を営んでいくためには、この世の権威、あるいはこの世のルールに従わなければなりません。それは確かにそのとおりです。私たちは、「皇帝」(カエサル)という言葉で象徴されるこの世の権威と、神の権威の両方の支配(ルール)のもとに生きていると言えるでしょう。私たちの多くは、日本国民です。日本の法律のもとで生きています。そのルールを守って生きなければならない。日本国民でない人も、日本国内で生きていく限り、その法律を守って生きなければなりません。時々、「治外法権」ということがあります。たとえば日本国内のブラジルの大使館内では、そこはブラジル国内の法のもとにあります。ですから、亡命などをする時は、どこかの国の大使館内に逃げ込むのです。それを超えたところでは、国際法というのがあって、世界共通で守らなければならないルールというものが存在します。詳しいこと、微妙なことはいろいろありますが、大雑把に言えば、そういうことです。例えば、それを国連が定めて、それを「守ります」という誓約をした国がそれを守りますが、それを守らない国が出てきます。戦時などには往々にしてそういうことが起こります。今、世界で起きている戦争は、ロシアとウクライナ(その背後にはEUがあります)の間で起きている戦争、そしてイスラエルがガザで仕掛けている攻撃などはまさにそうでありましょう。先日、イスラエルがイランに対して空爆を仕掛けました。今、それが中東全体に拡大しないようにということを世界中が見守っているところです。またミャンマーで起きている人権侵害などは、いくら国内法で合法であっても、国際法では許されないことを国家がしている。そういう時には、国連などを通じて国際的な介入が行われることにもなっていきます。

そうしたことは、基本的な考え方として、「カエサルのものはカエサルに」というのは、その国ではその国のルールに従え、ということが基本にあるでしょう。

(4)宗教改革記念日

今日は、10月の最後の日曜日ですが、10月31日が、宗教改革記念日です。1517年のこの日にマルティン・ルターがヴィッテンベルク城教会の扉に『95ヶ条の論題』を公示したとされる日です。ルターがこの文書をヴィッテンベルク城教会の門扉に貼りだしたのが宗教改革の発端になったとされており、そこには、当時の(カトリック)教会の贖宥状(免罪符)販売を批判する内容などが記されていました。

ルターの宗教改革の基本方針は、「聖書のみ」「信仰のみ(恵みのみ)」「全信徒祭司制(万人祭司)」の三つの言葉で言い表されます。

ちなみに宗教改革の精神というものは、三つの「のみ」ということで表現できようかと思います。それは、「信仰のみ」「聖書のみ」「キリストのみ」(全信徒祭司制)ということです。今日は、このことに触れる暇はありません。

(5)教会と国家の問題

そうした有名な宗教改革の精神のほかに、ルターは、「二王国説」を唱えました。教会は神の右の手で、国家は神の左の手であるというのです。もう少し詳しく言うと、[神の右の手-福音・教会・信仰]/[神の左の手-律法・国家・科学 等々]このような図式で考えました。これは後の「政教分離」という考え方の基礎となりました。「教会と国家」という大きな課題を扱うものでもあり、聖書の中で言えば、すでにパウロが「教会と国家」の問題をローマの信徒への手紙13章1~8節で論じています。「支配者への従順」という題が付けられています。パウロはこう言うのです。

「人は皆、上に立つ権力に従うべきです。神によらない権力はなく、今ある権力はすべて神によって立てられたからです。従って、権力に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くことになります。」ローマ13:1~2

ちょっとどきっとします。あまり人気のある箇所ではありません。ルターの二王国説も、こうしたところから来ています。ルターの宗教改革に端を発して、ドイツでは、1524年に農民戦争というのが起こります。当時の領主(支配者)に対して、トマス・ミュンツァーと言った人々が反乱を起こすのです。ルターは、当初、これを支持していましたが、途中からこの二王国論から、領主たちの側に立ち、ミュンツァーたちを鎮圧することに加担していくことなります。

また20世紀になって、ナチスが台頭してきた時にも、ドイツの教会(ドイツ国家教会=ルター派)は、ナチスの暴虐に対しても沈黙をいたします。ナチス批判をしなかったのです。

しかしそうした中から、ルーテル教会の信仰を受け継いでいるボンヘッファーのような人たちも、ナチスへの抵抗運動を繰り広げていくことなります。

ただしパウロといえども、どんな地上の権力に対して、無条件に、無批判に従えと言っているわけではありません。ローマの信徒への手紙ではこの続きでこう言っています。

「権力は、あなたに善を行わせるために、神に仕えるものなのです。」ローマ13:4

ここから、パウロは「権力は神に仕えるものである」ということ、そしてそれは私たちに善を行わせるためにあるのだ」ということを大前提にして語っているのだとわかるのではないでしょうか。ですから、私たちは、地上の権力が、地上の支配者が神の戒めに反するようなことを言ったり、行ったりするならば、大胆に、「ノー」と言ってよいし、言わなければならないと思います。

(6)地上の権威と神の権威は対等ではない

この地上の権威と神の権威は、それぞれ別の領域で、対等に並んでいるのかと言えば、そうではありません。皇帝といえども、それを皇帝が認めようと認めまいと、神によって造られた被造物です。ですから皇帝も、もう一つ深い次元で言えば、神のものであるはずです。だとすれば、「皇帝のものは皇帝に返せ」という命令は、「神のものは神に返せ」という命令によって限界づけられていることがわかります。決して対等ではない。ですからもしもこの世の権威が、神の意志に反するようなことをしていれば、私たちはそれに従わず、神の意志がどこにあるかをただしていかなければならないということも起こってくるでしょう。

今日は衆議院選挙の日ですが、選挙に選ばれた指導者に無批判に従っていくのではない、ということにも通じると思います。

(7)人間には神の像が刻まれている

私たちも、イエス・キリストのこの見事な答えに驚くばかりですが、主イエスは相手の攻撃に対してカウンターパンチを出すような言葉においても、その次元を超える深いメッセージを語っておられることに、私はさらに驚かされるのです。それは「神のものは神に返せ」という言葉です。この言葉によって、私たち一人一人の生き方が問われています。デナリオン銀貨には、皇帝の像と銘が刻み込まれていました。このことで思い起こすのは、創世記第1章の人間の創造物語です。

「神は人を自分のかたちに創造された」創世記1:27

人が神の形に似せて造られたということは、私たち人間の姿は、何らかの形で神の肖像を映し出し、そこには神の銘が刻み込まれているということであると思います。私たちは全身全霊をもって自分自身を神に返す、つまり神のものとして生きることが求められているのではないでしょうか。

使徒パウロは、こう述べています。

「私は、この身にイエスの焼き印を帯びているのです。」ガラテヤ6:17

焼き印とは、奴隷、家畜に対して、主人が自分の持ち物としてつけるしるしです。パウロは自分の体には、イエス・キリストの像と銘が刻み込まれていると言おうとしたのでしょう。クリススチャンになるということは、喜んでこのしるしを身に帯びて生きるということです。「神のものは神に返せ」。主イエスは、この言葉を通して、私たちひとりひとりも、自分自身を神様にお返しして生きよ、と言われたのだろうと思うのです。

今日は歴代誌上29章10~14節を、あわせて読んでいただきました。これは、ダビデがエルサレム神殿の建築を始めるにあたってささげた祈りです。こういう言葉があります。

「主よ、偉大さ、輝き、威厳はあなたのもの。まことに天と地にあるすべてのものはあなたのもの。」歴代誌上29:11

元来すべては、神のものなのです。その意味では、この世界の神さまのものです。私たちは自分自身を神様にお返しするような生き方をしなければならないと同時に、この世界を神様にお返しするような生き方をしなければならないのではないでしょうか。

私たちは、この世界をあたかも自分たちのものであるかのようにふるまっていないでしょうか。神様にお返しするような生き方、地球への接し方をしなければならないのではないかということも、この言葉から思わされます。

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