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2024年5月5日説教「勇気を出しなさい」松本敏之牧師

ヨシュア記1章1~9節
ヨハネによる福音書16章25~33節

(1)遺言中の遺言

今日、私たちに与えられたヨハネ福音書16章25~33節は、本日の日本基督教団の聖書日課です。この部分は、13章より4章にわたって長く続いたイエス・キリストの別れの説教のしめくくり部分です。その一番最後に、こう語られています。

「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている。」16:33

何と力強い、そして慰めに満ちた言葉でしょうか。すべての注釈を抜きにして、私たちの心に、直接、響いてくる言葉です。これこそが聖書の究極のメッセージであると言ってもいいのではないでしょうか。

この言葉、実は、私の高校時代からの愛唱聖句です。昔からこの言葉にどれほど励まされてきたか、わかりません。受験生でしたので、勝つとか負けるとかいう言葉に敏感であったかもしれません。しかも高校時代は、結構、劣等生でしたので、「私はすでに世に勝っている」などと言われると、全然、成績は良くないのですが、まあいいかな」と思ったりして、そういうことも関係あったかもしれません。

東京に行ってから、学生時代に所属していた教会の青年会報か何かに、自己紹介で、好きな聖句として、この言葉を選んだことがありました。ちなみに以前の口語訳聖書では、「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」という訳でした。しかも私は二浪していましたから、それなりに悩みもありました。「若き松本の悩み」という感じでしょうか。まあ「若きウェルテルの悩み」ほどではありませんが。

青年には青年なりの悩みがあります。壮年には壮年の、熟年には熟年の悩みがあります。いや子どもにだって、子どもなりの悩みがあるものです。そこで押しつぶされそうになる。ここで「苦難」と訳された言葉は、圧迫、重圧というニュアンスのある言葉です。それはどんなに文明が発達しようとも変わらないものです。

機械は発達し、多くのものを作れるようになりましたが、それだけ忙しくなりました。乗り物が発達し、どこへでも行けるようになりましたが、それだけ活動半径が広がり、仕事も多くなりました。コンピューターが発達し、世界は大きく広がりましたが、それだけ問題も世界規模で広がってしまいました。今、AIの技術がどんどん進化していますが、これからの世界がどうなるか、私にはなかなか想像もできません。医学は発達し、さまざまな病気が克服されてきましたが、それと同時に、新しい病気も生まれてきました。2020年以来、世界中に広がった新型コロナウイルス感染症はそのひとつでありましょう。現代人には、現代人ならではのストレスがあります。メンタルクリニックが、これまで以上に重要な時代になってきました。

そうした中、先ほどの16章33節の言葉こそは、私たちが、どんな困難な課題、苦しみ、悩みに遭遇しようとも、自分を見失わないで生き抜く、そしてそれを乗り越えていく人生の秘訣が含まれているのではないでしょうか。13章から続いているイエス・キリストの遺言とも言える長い別れの説教の締めくくりの言葉でありますが、まさに遺言中の遺言、結論です。この言葉を告げるために、イエス・キリストは、この世に来られたと言っても過言ではないでしょう。

(2)神は全能である。神は善い方である。

私たちは、自分の将来がどうなるのかわかりません。そのことは私たちを不安にさせます。しかし神様は知っておられる。イエス様は知っておられる。私たちは自分の将来を知りませんが、イエス様を知っているということは、私の将来を知っている方を知っているということです。ですから自分の将来を知らなくても、自分の将来を知っている方を知っていることで、安心することができる。慰められる。

ちなみに、私たちの神様はどういう方か、ということで、しばしば私は二つの特質があると言っています。それは「神は全能である」ということと「神は善い方である」ということです。「神は全能の方である」ということだけでは、まだ安心できません。いくら全能であっても、意地の悪い方であれば、かえって恐ろしいです。だからそれと合わせて、「神は善いお方である。私たちに善いことをしてくださるお方だ」ということが大事になってきます。また逆に「神は善いお方だ」というだけでも不十分です。「たとえ善い方でも、神様にもできないことはあるよね」ということであれば、私たちの不安は取り除かれません。「神は全能である」ということと「神は善い方である」ということがぴたっとくっついたところで、私たちは安心を得ることができるのではないでしょうか。

神様は、この世界をよいものとしてお造りになった。そして造った時によかったというだけではなくて、造ったからには責任をもって、世界をずっと見ていてくださる。それだから、私は、この世界がどうなるかわからなくても、私の将来がわからなくても、この善い方を信頼して歩むということができるのです。

神の特質について、もう少し別の言い方をすることもあります。神には三つの特質がある。それは「全知、全能、遍在」ということです。「全知」というのは何でも知っているということです。「全能」というのは何でもできるということです。「遍在」というのは、日本語ではあまり馴染まないのですが、「どこにでもいることができる」ということです。日本語では「遍在」だけ仲間外れに見えますが、ラテン語だったら、全知はオムニシエンテ、全能はオムニポテンテ、遍在はオムニプレゼンテとなります。ヨーロッパの言葉では似ています。「へんざい」というのは、ワープロで打つと、最初に「偏在」と出てきます。「偏って在る」。これだと困ります。そうではなく「遍く(あまねく)在る」ということです。ドラえもんの「どこでもドア」のようなものです。

(3)もはやたとえによらない

さて私たちに与えられた16章25節以下の言葉を少し見てまいりましょう。

「私はこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。」16:25

ヨハネ福音書の中で、たとえと言いますと、「私は良い羊飼いである」(10:11)とか「私はまことのぶどうの木」(15:1)とかを思い起こします。そういうさまざまな言いかえをしながら、ご自分が誰であるかということを示されてきました。しかし今はもうたとえには頼らない。ここから先は、十字架への道です。まさにその行為を通して、父のみ心、つまり自分が何をするために来たかを示されることになるのです。

(4)イエス・キリストの御名によって

「その日には、あなたがたは私の名によって願うことになる」(16:26a)とあります。これは、その前の箇所の言葉を受けています。

「今までは、あなたがたは私の名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」16:24

この時、イエス・キリストは、まだ肉体をもった形で、弟子たちと共におられました。しかし去っていかれた後、「その日には、あなたがたは私の名によって願うことになる」と言われているのです。ですから私たちは、今まさに、「その日には」という時を生きているということになるでしょう。

私たちは、「イエス・キリストの御名によって祈ります」という祈りのフォーム、形式をもっています。教会へ初めてやって来て、どうやって祈っていいかわからない、という中で、私たちはそうした祈りの枠組み、呼びかけとこの締めくくりの言葉を学ぶのです。「イエス・キリストの御名によって祈ります」というと、みんな一斉に「アーメン」と言います。それはただ、祈りの終わりの合図、というだけではなく、そう祈ると、イエス・キリストが確実に父なる神様のもとに届けてくださるという風に、私たちは理解しているのです。

(5)父なる神と一体

「私があなたがたのために父に願ってあげよう、とは言わない。」16:26b

これは見放されるということではありません。「もう知らない」ということではありません。そうではなく、逆にもう一つ進んだ形、父なる神様と私たち自身が、もちろんその中にはイエス・キリストがおられて一体となっている姿、それは終わりの日を指し示している状況であると思います。

「父ご自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが私を愛し、私が神のもとから出て来たことを信じたからである。」16:27

イエス・キリストと父なる神様が一つであるように、その中に私たちも引き入れられるのです。

そしてイエス・キリストは、さらに「私は父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く」(16:28)と言われます。
弟子たちはこの別れの言葉を聞き、こう答えました。

「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。あなたがすべてのことをご存知で、誰にも尋ねられる必要がないことが、今、分かりました。これで、あなたが神のもとから来られたと、私たちは信じます。」16:29~30

弟子たちはイエス・キリストの言葉を聞いて、「信じます」とはっきり告白しています。私たちのためにイエス・キリストが来られて、その言葉と業によって、イエス・キリストを知り、父なる神様の意志を知る。聖書の神様を信じるというのは、漠然と、「この天地を創られた方がおられるのだろう」と信じるというのではなくて、あるいはそういうことよりも、むしろ聖書という言葉によって、イエス・キリストが誰であるかを知り、それを信じる。それが聖書の信仰です。

(6)ひとりにする日が来ても

しかしそれでも、私たちはどこまでも誤解している部分があります。この時、弟子たちも「今、分かりました」というのですが、イエス・キリストは、「今、信じると言うのか。見よ、あなたがたが散らされて、自分の家に帰ってしまい、私を独りきりにする時が来る。いや、既に来ている」(16:31~32)と言われました。

またまた弟子たちを不安にさせるような言葉です。しかし実際、そのようになっていきます。このすぐ後、イエス・キリストは逮捕されます。その時、弟子たちは、去って行ってしまいます。イエス・キリストはそのことさえも、すでにご承知であった。承知の上で、弟子たちを受け入れておられる、と言えるでしょう。

そして同じように私たちをも受け入れてくださっているのです。私たちも「今、分かりました。信じます」と言いながら、次の瞬間にはどうなるか分かりません。そういう不安定な者です。それを承知の上で、イエス・キリストは、そのもう一つ先まで見越して、励ましておられるのです。

イエス・キリストご自身、「みんな去ってしまって、独りきりになる」と言いながら、「それでも父なる神様が共におられる」と語られました。これはもう一つ、次の時代に弟子たち自身が経験することでもあります。みんなが去って、弟子たちが「独りきり」にされてしまう時が来る。それでもあなたがたは「独りきり」ではない、というのです。

これは後の時代のクリスチャンたちの迫害が想定されている。こう言ってしまうと、いいのか悪いのかわかりませんが、福音書というのは、イエス・キリストが生きた時代よりも、だいぶ後で書かれています。まずイエス・キリストが生きた時代があります。イエス様と弟子たちが直接話をしている。そういうふうに書いてある。しかしそれを書いている人は、それから60年位後の人です。イエス・キリストが生きたのは紀元0年から30年頃。福音書の舞台設定は、期限30年頃です。しかし福音書ができたのは紀元90年頃です。ヨハネ福音書が書かれた時代状況、つまり90年頃の時代状況が、前倒し的にここに反映されている。だから、素直に言えば、イエス様は60年後のことまで見通しておられたのだ、ということになりますが、2000年後に生きている私たちから見れば、ヨハネ福音書を書いた人が、かつてのイエス様の言葉を、自分たちが迫害されている状況に照らし合わせて書いている、と受け止めることができるのです。彼らは、迫害され、ひとりぼっちにされるような状況に置かれているのですが、イエス様はそれを承知の上で励ましてくださっているということです。

「あなたがたを独りきりにする時が来る。でも独りぼっちではない。父なる神が共にいてくださる。」という励ましです。

別れの説教の少し前の部分、14章18節に、有名な言葉が記されています。「私は、あなたがたをみなしごにはしておかない」という言葉です。そうしたみ言葉が二重写しに見えてきます。そして「勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている。」と締めくくられたのでした。

(7)イエス・キリストが共に歩まれる

私は牧師です。牧師という仕事は、祝福の多い仕事、教会の人と共に歩む幸いな仕事であると思っています。しかし同時に、ある面、孤独な仕事でもあります。さまざまな問題に直面する中で、ひとりで向き合わなければならないことも多いものです。誰にも言えないし、言ってはならないこともあります。当然のことです。しかしそうしたところでこそ、牧師たちはイエス・キリストによって支えられているのだと知り、励まされるのです。

「勇気を出しなさい」ということは、「くよくよするな。とにかくがんばれ」というようなことではありません。そのようなことであれば、私たちはかえって不安になったり、そうできない(勇気を出せなさい)自分とのギャップに悩まされたりするものです。東日本大震災の時に、「東北、がんばれ!」という言葉が語られましたが、その後、「それ言っちゃいけないよ」ということで、言われなくなったことを思い出します。「がんばれ、と言い過ぎるな」ということでしょう。

本当に勇気を出してよい、その根拠が聖書の中にあります。「私は、あなたがたをみなしごにはしておかない。」

「神は全能であり、同時に善いお方である」ということがその背景にあります。私たち自身は、苦難の中、悩みの中にある。さまざまな問題に取り囲まれている。いつ解決するかわからない。八方ふさがり。どこから突破口を見つければよいのかもわからないような状態の中に置かれている時に、イエス・キリストはすでにそれを克服しておられる。そしてそのイエス・キリストが共にいてくださることを知ることによって、私もそれを乗り越えることができる。それが信仰の最も大きな賜物ではないでしょうか。

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