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2024年1月28日説教「ヨブの信仰」松本敏之牧師

ヨブ記1章6~22節
マタイによる福音書27章45~46節

(1)聖書日課、預言書に入る

鹿児島加治屋町教会独自の聖書日課、皆さんは読み続けておられるでしょうか。1月10日でヨブ記を終えて、詩編をはさんで、1月23日からイザヤ書に入りました。旧約聖書の区分から言いますと、ヨブ記の前にあるエステル記までがいわゆる歴史書です。歴史書を読み終えたことになります。それに続くヨブ記、詩編、箴言、コヘレトの言葉、雅歌は、文学書と言われます。そしてその後のイザヤ書以下は預言書と呼ばれます。いよいよ最後の部分、預言書に入ったわけですが、これからちょうど1年後、来年1月で最後のマラキ書までたどり着くことになります。

途中でドロップアウトした方も、気を取り直して、先週の1月23日から始まったイザヤ書から加わっていただければと思います。私の説教でも、2月、3月とイザヤ書を取りあげる予定です。ただその前にヨブ記について語っておきたいと思いました。ヨブ記は11月下旬から読み始め、1月上旬まで続きましたが、ちょうどアドベント、クリスマスの時期でしたので、礼拝説教でも取り上げることができませんでした。

(2)特集「ヨブ記を読もう」

ヨブ記は文学書の中でも、他の詩編や箴言などと違って、全体として物語になっています。文学作品として、聖書の中でもひときわ異彩を放っている書物です。奥深く、興味深いものですが、難解でもあります。しかし、ヨブ記は私たちを惹きつけてやまない何かを持っている。それは不思議で解釈に苦しむものを含み持ちながら、この世の不条理というものをそのまま隠さず記し、その中に真実があると感じるからだと思います。

ヨブ記の中では、特に1章21節の「私は裸で母の胎を出た。また裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられますように」という言葉は有名です。この言葉は、先週の日曜日1月21日に召天され、1月24日に葬送式が行われた沖野あつ子さんも愛唱聖句として原簿に書き記しておられました。

「信徒の友」では、2022年3月号で、「ヨブ記を読もう」という特集が組まれました。私たちの教会の保さらさんも、その特集の中で、児玉さらさんのお名前で、カウンセラーとして、「3人の友人は何に失敗したのか」という文章を寄稿しておられます。その特集では、ヨブ記研究の第一人者である並木浩一さんに対するインタビュー記事がありますが、今日は主に、その並木先生の文章を手がかりに語ってみたいと思います。

(3)ヨブ記1~2章の物語

それでは最初に、全体のストーリーをざっと紹介します。

1章は、先ほど読んでいただいたとおりですが、ウヅという地に、ヨブという完全で正しく、神を畏れ、悪を遠ざけて生きている人がいました。ヨブは大金持ちで多くの子どもがいました。

ある日、神の前に神の使いたちが集まるのですが、そこにサタンもやって来ました。神は、サタンに対して、「地上にヨブほど完全で、正しく、神を畏れ、悪を遠ざけている者はいない」と言われます。するとサタンは「ヨブがあなたを敬っているのは、あなたが全財産を守り、ヨブのすることをすべて祝福しているからです。御手を伸ばして彼の財産を打って御覧なさい。あなたを呪うに違いありません」と応じます。神様はサタンに、「それではヨブのものをお前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には手を出すな。」と言われました。サタンは、主のもとから出て行きます。

ある日、ヨブのもとに、使者たちが大慌てでやって来て、敵国の人たちが来てヨブの財産を略奪してしまったと報告しました。さらに別の使者が、災害のために子どもたちが全員死んでしまったことを報告しました。

そこでヨブは上着を引き裂いて、頭をそり、地に身を投げ出し、ひれ伏して、先ほど紹介した言葉を語りました。

「私は裸で母の胎を出た。
また裸でそこに帰ろう。
主は与え、主は奪う。
主の御名はほめたたえられますように。」ヨブ記1:21

上着を引き裂いたりするのは、ヨブの苦悩を表しています。しかしそれほどの苦難を受けても、ヨブは神さまを呪うことはしませんでした。
またある日、サタンが神様の前にやって来ます。神様はサタンにこう言いました。

「お前は私を唆し、理由なく彼を滅ぼそうとしたが、彼はなお完全であり続けている。」ヨブ記2:3

サタンは答えます。「あなたの手を伸ばして、彼の骨と肉を打ってみてごらんなさい。神は必ずや面と向かって、あなたを呪うに違いありません。」神様はサタンに「では彼をあなたの手に委ねる。ただ彼の命は守れ」(2:8)と言いました。サタンは神様の前から出て行き、ヨブに手を下し、頭のてっぺんから足の裏まで悪性の腫れ物にかからせました。ヨブは灰の中に座り、かゆくて体中をかきむしりました。妻はそれを見て、こう言います。「あなたはまだ完全であり続けるのですか。神を呪って死んでしまいなさい。」しかしヨブは妻にこう答えます。

「あなたは愚かなことを言う。私たちは神から幸いを受けるのだから、災いをも受けようではないか。」ヨブ記2:10

こんな状態になっても、ヨブは神を呪うことはしませんでした。

(4)3人の友人との論戦

ただし3章以下は、トーンが一変します。それまでどんなことがあっても、神様のことを悪く言うようなことをしなかったヨブが、神さまに食って掛かるような言葉を述べ始めるのです。それまでの信仰が随分後退してしまったように見える。いや信仰を失くしてしまったようにさえ見えます。神様のことは呪いませんでしたが、自分の運命を呪うのです。3章1節にこういう言葉があります。

「この日、ヨブは口を開いて、自分の生まれた日を呪った。」ヨブ記3:1

そして、それまでは散文形式であったのが、ここから先は、ほぼ終わりの42章6節まで詩文形式となります。ヨブは、こう言います。

「私の生まれた日は消え失せよ。
……
その日は闇となれ。」ヨブ記3:3~4

「なぜ、私は胎の中で死ななかったのか。
腹から出て、息絶えなかったのか。
どうして両膝が私を受け止めたのか。
なぜ、私に吸わせる乳房があったのか。
それさえなければ、今頃、私は憩い
眠って休息を得ていたであろうに。」ヨブ記3:11~12

そのように、重い病にかかって苦しむ嘆くヨブのもとに、エリファズ、ビルダド、ツォアルという3人の友人が訪ねてきます。

最初は慰めるつもりで来たのですが、ヨブがひどい有様になって、なお神様に食って掛かるような言葉を発しているので、ヨブを上から目線で諭すような言葉を発するのです。

たとえば、最初のエリファズ。

「あなたは多くの人を諭し
その萎えた手を強くした。
あなたの言葉はつまずく者を起こし
弱った膝に力を与えた。
しかし今、あなたにそれが降りかかると
  あなたは耐えられない。
それがあなたの身を打つと、あなたはおびえる。
神を畏れることが
  あなたの頼みではなかったか。
その歩みが完全であることが
  あなたの望みではなかったか。」
ヨブ記4:3~6

頭の痛い言葉です。私なども、まさにそうかもしれません。そして信仰をもって生きていても、いざ自分に災難が降りかかると、自分が語った言葉通りに生きられないことを思い知るかもしれません。またそのような状態になっている人に向かって、励ますつもりで、エリファズのような言葉を責の言葉を投げかけてしまうかもしれません。

しかしヨブは、こうしたエリファズの言葉に猛然と反論するのです。

「ヨブは答えた。
どうか、私の憤りが正しく量られ
私の災いも一緒に秤にかけられるように。
今、それは海の砂よりも重い。
そのために、私の言葉は激しいのだ。
全能者の矢が私に突き刺さり
私の霊はその毒を飲んだ。」ヨブ記6:1~4

そのような激しい言葉が延々と続きます。そしてこの論戦、3人と友人たちと3回に渡って、やり取りがなされ、だんだんすれ違いがはっきりとしてきます。ヨブは、この時、友人たちに向かって反論しているのですが、実は神様に向かって語っているように思えます。神様、どうか私に答えてください。何かおっしゃってください。

友人たちとの3回にわたるやり取りは、28章まで続くのですが、とうとう決着はつきませんでした。29~31章は、再び、ヨブの独白です。31章の終わりのほうに、こういう言葉があります。

「ああ、私の言葉を聞いてくれる者が
   いればよいのだが。
 ここに私の署名がある。
 全能者よ、私に答えて欲しい。」ヨブ記31:35

結局、この長い論戦は平行線に終わったということ、ヨブの言葉に相槌を打って聞いてくれる友人は誰もいなかったということがわかります。そして神様ご自身の登場を願い、それだけを待ち望むのです。

(5)エリフの議論は後代の付加

詩文形式の後半32~37章には、エリフという第4の論戦相手が登場します。彼は、ヨブの3人の友人たちの言葉が尽きて、何も言うことが無くなってしまったのに憤慨して、「私は、年は若いので、出るのを控えていたけれども、もう黙ってはいられない。私にも語らせてくれ」と言って、ヨブに長い議論を挑むのです。6章に渡ってそれが記されます。しかしヨブは、これに対しては何も答えていません。並木浩一先生によれば、この部分はヨブ記の著者によるものではなく、後代の付加であろうと言われます。ヨブ記の熱心な読者が「自分も一言、言わせてほしい」と挿入したのだろうと言うのです。

(6)神の登場

そして、38~41章では、ついに神ご自身が登場して、ヨブに長々と語ります。並木先生の言われる通り、32~37章のエリフの弁論が後代の付加だとすれば、神様は、31章の「全能者よ、私に答えて欲しい」という要望に応じて、登場してくださったということになるでしょう。

神様は、ヨブにこう言われるのです。

「知識もないまま言葉を重ね
主の計画を暗くするこの者は誰か。
あなたは勇者らしく腰に帯を締めよ。
あなたに尋ねる、私に答えてみよ。」ヨブ記38:2~3

そこから畳みかけるように、天地創造の話をされるのです。

「私が地の基を据えたとき
  あなたはどこにいたのか。
それを知っているなら、告げよ。
あなたは知っているのか
誰がその広さを決め
誰がその上に測り縄を張ったのか。」ヨブ記38:4~5

そこから延々と、神様は畳みかけるように、一体何を知っているというのかと、ヨブに問い詰めるように言うのです。ヨブは、一言も反論できません。

ヨブは一言も言葉を発することができません。ここでの言葉は、一見、神さまの一方的な独白のように思えます。ヨブの問いかけとかみ合っていないように見えます。しかし並木先生は、注意深く見ると、そうではないと言われます。

3章で、ヨブは天地創造の取り消しを願っていましたが、神様は長い沈黙を破って、「夜明けの星々がこぞって歌い、喜び叫んだときに(あなたはどこにいたのか)」(38:7)と、つくられた世界の美しさを伝えておられます。さらに、こう告げられます。

「あなたは生まれてこの方、朝に命じ
 曙にその場所を示したことがあるか。
 地の果てをつかんで
 そこから悪しき者どもを
 振り落としたことがあるか。」ヨブ記38:12~13

ここでは、神さまは、朝焼けの美しさを、邪悪な者たちが挑む夜の闇を取り払うことに重ねておられる。並木先生はそう解釈しておられます。ヨブの訴えは、「なぜこの世の邪悪な者に対して黙っておられるのか」というようなこともあったわけですが、神様はそのこともちゃんと知っており、正義と公正を実現される、ということでしょう。神様との対話が成り立っているのです。

(7)ヨブの短い応答

ヨブは、40章4~5節でも、短く答えていますが、その後最後にこう言うのです。

「私は知りました。
 あなたはどのようなこともおできになり
 あなたの企てを妨げることはできません。
 『知識もないまま主の計画を隠すこの者は誰か。』
 そのとおりです。
 私は悟っていないことを申し述べました。
 私の知らない驚くべきことを。
 『聞け、私が語る。
 私が尋ねる、あなたは答えよ。』
 私は耳であなたのことを聞いていました。
 しかし今、私の目はあなたを見ました。
それゆえ、私は自分を退け
塵と灰の上で悔い改めます。」ヨブ記42:2~6

ヨブは、ただ「まいりました」というのではなく、神が自分の問いかけに答えてくださったということが、とてもうれしかったことと思います。聖書の中で、神様が一人の人間に、これほど長く語り掛けてくださった言葉は、この箇所を置いて他にありません。

(8)散文形式の短い結びの言葉

ヨブ記は、最後に結びの言葉があります。42章7節以下です。ここで再び散文形式に戻ります。ここで3人の友人たちが再び現れます。この神様の言葉は、3人の友人たちのヨブに対する応答、態度が間違っていたということを示しているでしょう。

最初の友人エリファズに向かってこう言われるのです。

「私の怒りがあなたとあなたの二人の友人に向かって燃え上がる。あなたがたは、私の僕ヨブのように確かなことを私に語らなかったからだ。」ヨブ記42:7

このことは、私たちがどんなに正しいことを語っていても、それによって罪を犯すことがあるということを示しているでしょう。3人の友人たちの言葉は、それなりに筋が通り、それなりに正しい言葉でした。それでもその正しい言葉によって罪を犯すことがある、その正しい言葉によって誰かを傷つけ、苦しめ、貶めることがある、ということを示していると思います。

しかし神様は彼らを罰して滅ぼすこともなさいません。「今こそ、悔い改めてヨブのところへ行って執り成しをしてもらいなさい」というようなことを語られます。

そしてヨブに対しては、もう一度かつてのように、財産や家族を回復し、幸せを取り戻させてくださいました。

それで物語としては、これでハッピーエンドというふうになるわけでは、私たちの現実はそれほどハッピーエンドで終わるものばかりではないでしょう。この世の不条理とどのように向き合うのか、そこでどう悩み、どう解決していくのかが問われます。

ヨブ記の構造は、全体は散文形式の部分によって、詩文形式の部分がサンドイッチのような形になっています。最初に詳しく紹介した、1章2章の物語の結論の部分が最後の42章7節以下の神さまの応答と言えます。

その間の形式も確認しておきましょう。その間には、3章のヨブの独白(嘆き)がありました。そして29~31章にも、ヨブのさらに激しい独白がありました。そのヨブの独白にサンドイッチされる形で、3人の友人との対話があるのです。そして32章から37章のエリフの弁論を後代の付加として取りのければ、そのヨブの独白、嘆きへの応答として神様の応答があったのです。

(9)義人の苦難

ヨブ記のテーマは、一般的には「義人の苦難」であると言われることが多いです。「正しい人、何も悪いことをしていない人がどうして苦難を受けるのか」ということです。私たちの世界には、確かに不条理としか思えないようなさまざまな出来事があります。世界的なこととしては、最近ではガザの人々が受けている苦難があります。また日本の国内でも能登半島の地震がありました。それらは社会的に有名になったこと、また大事件でありますが、私たちの日常にもそういう不条理はあります。どうして自分がこういう病気を負って生きなければならないのか。どうしてうちの子がそれを背負って生きていかなければならないのか。ヨブの神様への訴えは、そのままそのように不条理をかかえた人たちの嘆きに重なることでしょう。それだから真実味があるのです。

今日は、イエス・キリストの十字架上の言葉、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」を読みました。これは、不条理を嘆き苦しむ人間の叫びを、イエス・キリストも共に叫んでくださっているのだと私は思います。その意味で、ヨブの叫びも、またそれに通じます。

(10)神の前での人間の自由

先ほど、ヨブ記のテーマは、「義人の苦難」と言われることを紹介しましたが、並木先生は、それを踏まえつつであると思いますが、ヨブ記のテーマは、「神の前での人間の自由だ」と言われます。あまりそういうふうに言った人はいません。

最初の散文の部分のヨブと、その後の詩文のところのヨブでは随分違うように思えます。最初のほうは従順に神に従うヨブがいて、うしろは神の抗議するヨブがいる。しかしそれは、それぞれの形で、ヨブが自由に神に向き合っているのです。ヨブは信仰的であることを強いられているわけではありません。自分から進んで、

「私は裸で母の胎を出た。
また裸でそこに帰ろう。
主は与え、主は奪う。
主の御名はほめたたえられますように。」ヨブ記1:21

と賛美しました。あとの部分では、自由な形で神に抗議するのです。

そしてその両方を神様は受け止めてくださっているのです。

私たちはなぜ自分がこういう目にあうのかという問いを持ち、それを神様にぶつけます。ヨブ記でも、確かにそういうことが大事な視点です。私たちは、神様に向かって、そういうふうに自由に、神様に問いかけて、投げかけて、答えを求めてよいのです。しかし、そのままで、すぐに神様が答えてくださるとは限りません。それらをすべて神様は受け止めてくださっている。ヨブがまだ、神様は答えてくださらないと思っていた時にも、実は神様の耳に、ヨブの嘆きは届き、神様は神様のご計画の中で、それに答えてくださったのだと思います。

私たちに対しても、自由を持っている私たちがそれを踏まえつつではあると思いますが、並木先生は、ヨブ記全体に通底するテーマは、「神の前における人間の自由」だと言われます。

それらすべてを神は受け止めてくださっている。ヨブがまだ「神様は答えてくださらない」と思っていた時にも、実は神の耳には届いていた。そして神様は神様のご計画の中で、それに答えてくださったのだと思います。私たちも、自由を持っている者として、神様に自由に応答しながら、神様の時を待つ。そのような姿勢を持ち続けたいと思います。

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