2023年6月4日説教「喜びの根拠は何か」松本敏之牧師
ルカによる福音書10章17~24節
(1)三位一体主日
先週、私たちはペンテコステ礼拝を守りました。ペンテコステの次の日曜日は、三位一体主日と呼ばれます。ペンテコステの後、改めて父なる神と子なるキリストと聖霊がひとつであることを心に留めようということでしょう。これは、キリスト教の教義が主日の名前になっている珍しいケースです。 今日の聖書のテキストは、先週に続いて、日本キリスト教団の聖書日課から取りました。このテキストも、後半のところで、三位一体ということに心を留めるテキストになっていると思います。
三位一体については皆、頭を悩ませます。父なる神、子なる神、聖霊なる神がいる。しかし、神は三人おられるわけではなく、神は唯一である。私たちは唯一の神を三位において、三位を一体においてあがめ礼拝するというのです。ちなみに先ほどの讃美歌354番も、三位一体の神に祈るということを歌でよく表しています。
三つで一つ、一つで三つ 論理的にはこれは私たちの理解を超えています。これを私たちはどのように理解してゆけばよいのでしょうか。
あるカトリック神父は「公教要理」(洗礼準備会)の中で必ず「三位一体について説明しなさい」という試験をするそうです。そして洗礼志願者が「分かりません」と答えると「正解です」ということでした。人間には分からない神の神秘を私たちが頭で分かり切ろうとすること自体、誤った態度であるということなのでしょうか。
また、ある牧師は、「三位一体とかけて、うな重と解く」と言ったそうです。その心は、と言えば、「うな重では、うなぎとご飯とタレとが三位一体だから」だそうです(ルーテルむさしの教会のサイトで、大柴譲治元牧師の説教)。では、「山椒」はどうなるのでしょうか。みんな説明に苦労するということを示しているように思います。三位一体については、後半でまたお話したいと思います。
(2)72人の宣教報告
さて今日、私たちに与えられたテキストは、ルカによる福音書10章17節以下であります。「72人、帰ってくる」と題された箇所と「喜びに溢れる」と題された箇所の二つの段落です。その前の部分10章の初めは、「72人を任命して、ご自分が行こうとするすべての町や村に二人ずつ遣わされた」という話です。そこでは、彼らが受けることになる困難、迫害、拒否が予期されているような言葉がたくさん書かれています。
今日の私たちのテキストは、それと対照的になっていて、彼らが帰って来て、イエス・キリストに宣教報告をするという話です。その前の厳しい言葉とは違って、ここでは彼らの宣教活動が大成功したという報告であります。
「72人は喜んで帰って来て、言った。『主よ、お名前を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従しました。』」ルカ10:17
「イエス様、あなたの名前の威力は絶大です」ということでしょう。その言葉を受けて、イエス・キリストもこう答えられます。
「私は、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、私はあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。」ルカ10:18
宣教報告をした後、彼らはまた宣教の現場へと出て行くわけですから、こういうイエス・キリストの言葉は大きな励ましとなったことでしょう。実は、ここには後の時代の宣教報告が二重写しになっていると言われます。後の時代というのは、ルカ福音書が書かれた時代であります。派遣された72人というのは世界の諸民族を象徴して、後の世界伝道を示唆しているというわけです。ルカは、その時代の状況を踏まえて書いているのです。どんどんクリスチャンが増えていく。それをどう受けとめればよいのか。もちろん祝福ととらえてよいのですが、そこで傲慢になってはいけないということが、ここに示唆されているのではないかと思います。
蛇やさそりは、聖書では、人間に危害を加える悪魔的な小動物としてサタンを象徴しています。サタンは天に住んでいると考えられていましたので、それが天から落ちて来たというのは、イエスの名が確かに勝ったということを表しているのでしょう。
この72人は、イエス・キリストの名前にそれ程の威力があるのを知って、自分たちの目の前にいる方が誰であるかということに目を開かれるであろうということでしょう。彼らは成功を祝い、それを感謝して報告するのです。しかし、イエス・キリストは、それを手放しで受け入れられた訳ではありませんでした。
(3)失敗した時にこそ
イエス・キリストは、「私たちが本当に喜ぶべきことは、単に成功することではない」ということに目を向けようとされました。そうでなければ、成功したら感謝をし、失敗したら、神様を、またイエス様をうらむということになりかねません。むしろ失敗した時にこそ、自分の信仰が試される。信仰の質があらわになる、ということができるのではないかと思います。
イエス・キリストは、こう続けられるのです。
「しかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」ルカ10:20
何を喜ぶのか。成功を喜ぶのではなくて、むしろその向こうにあるものに目を向けよ、ということです。
「しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。」という言葉は、考えてみると、表面的なことではなくて、深い意味を持っているように思われます。
世界の歴史を振り返ってみると、さまざまな武力による戦争がありました。そして勝った側と負けた側がいる。そして勝った側は神様に感謝をささげる。そしてあたかも自分たちが正しかったということの証明であるかのように思ってしまったり、実際にそう宣伝したりすることがあります。武力による戦いの他にも、言葉上の論争もあります。教会の歴史を見てみても、さまざまな神学議論がありました。私たちの教団、日本キリスト教団においてもあります。そしてそこにはこの世の力関係の中で、どっちのグループが勝ったか、一見、勝敗がついたように見えることもあります。自分たちが正しかったと宣伝されることもあります。しかしその時にこそ、注意しなければなりません。「悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではならない。」その時の成功は、自分たちの考えが神の御心に適ったものであったことの証明にはならないということをわきまえておくべきでしょう。
私たちは、イエスの名が悪霊よりも強いということを喜ぶと同時に(それは確かにそうですが)、悪霊の力は私たちの力にまさっているということを忘れないようにしたいと思うのです。ですから悪霊にしてみれば、私たちに負けたふりをすることなどお手のものではないでしょうか。負けたふりをして、「しめしめ」と言いながら、私たちを神さまの御心から離してしまうこともあるでしょう。だからこそ、私たちはその結果、成功か失敗かということに一喜一憂するのではなく、その奥にある真理に目を向けなければならないと思うのです。だからこそ、私たちに眼前のことではなく、その向こうにあるものに目を向けさせ、何を喜ぶべきかを教えられるのです。
「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」
(4)祈りの5つの要素
続けてこう記されています。
「その時、イエスは聖霊によって喜びに溢れて言われた。『天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。』」ルカ11:21
イエス・キリストは、成功を喜ぶのではなく、むしろ聖霊によって喜ばれました。この主イエスの言葉は、イエス・キリストが普段どういう祈りをしておられたかを知る貴重な言葉です。
私は、東京にいた頃、恵泉女学園という学校の中学1年生の聖書科の授業を担当していました。1年生は「キリスト教入門」ということで、1学期にやることの中には、「聖書について」、「礼拝について」、「祈りについて」というものがありました。
そこでキリスト教の祈りにはどういう特徴(内容)があるかということを話すのですが、大体五つの要素があるということを生徒に教えます。
①感謝、②賛美、③悔い改め、④願い、⑤とりなしの五つの要素です。
こういう話は、教会では案外しませんが、皆さんもメモをとっておいて、覚えておかれるといいですね。初めて役員になった時は、礼拝の祈祷では、何を祈ればよいのだろうと思う方もあるかもしれません。この5つの要素を頭に入れておくと、準備しやすいと思います。もう一度、言いますと、①感謝(神様、ありがとうございます)、賛美(神様をほめたたえます。神様はすばらしい)、悔い改め(神様、ごめんなさい。反省して、立ち返ること)、願い(私の願いをかなえてください)、とりなし(神様、よろしくお願いします)です。私たちが、普通に祈りと言えば、願いごとと、それがかなえられた時に感謝するということのふたつになることが多いのではないでしょうか。(もちろん、とりなしの祈りをすることもありますが、それも世界のためのとりなしというようなことまでは含まれず、家族のためのとりなしが多いでしょうから、願いごとの中に含まれるようなとりなしが多いと思います。)
単純に、自分の心に願っていることを神様に申し上げて、聞かれたら感謝をささげるという図式です。ですから受験シーズンになりますと、とたんに「学問の神様」と呼ばれるような神社に多くの人が集まります。我が家の場合も、息子が受験の時に、クリスチャンではない親戚から、「湯島天神のお札もらってきてあげようか。牧師さんだと行きにくいでしょう」と言われたことがありました。湯島天神は学問の神さまと言われます。「それじゃあ、お願いします」と言うことになると笑えますよね。「いや、お気持ちだけで結構です」とお断りしました。
私たちの通常の祈りというのは、そのようにこちら側の祈願、そしてそれがかなえられたら感謝をするということです。成功した時には、感謝するけれども、失敗した時にはしない、ということになってしまいます。しかしそうした祈りの図式は、結局は自分中心です。「私の願いが実現しますように」ということです。しかしキリスト教の祈りは、その要素も否定はしないのですが、むしろそれを超えたところに目を向けていくことにこそ、特徴があるのではないでしょうか。「私の願いではなく、神様、あなたの思いが実現しますように」ということへと転換していくことです。
(5)主イエスは、普段どんな祈りをしておられたのか
聖書の中には、イエス・キリストのさまざまな祈りが記されています。皆さんもそれぞれによくご存知であろうと思います。ゲツセマネはその最も有名なもののひとつでしょう。
「父よ、御心なら、この杯を私から取りのけてください。しかし。私の願いではなく、御心のままに行ってください。」ルカ22:42
しかしこれはいわば極限状況における祈りです。
十字架上での祈りの言葉も残されています。
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです。」ルカ23:34
これはとりなしの祈りです。究極のとりなし。しかしこれも極限状況における祈りです。また弟子たちには、主の祈りを教えられました。これも、イエス・キリストが弟子たちに「こう祈りなさい」と教えられた祈りですから、必ずしもイエス・キリストがそう祈っておられたとは限りません。そう考えてみると、イエス・キリストはいつも祈っておられたこと、一人の祈りを大切にしておられたことが福音書には書かれていますが、その祈りの言葉がどういうものであったかは意外にわからないのです。そうした中、ルカ福音書11章のこの言葉は、イエス・キリストが、普通の時に、毎日、どんなお祈りをなさっていたかを知る大きな手がかりであると思います。それは、こういう言葉です。
「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。」ルカ10:21
先ほど、祈りの中で、「賛美」という内容があるということを申し上げました。これは、私たちが一般的に、祈りということを考える時に、なかなか出て来ないことではないでしょうか。「あなたをほめたたえます」。私は、主イエスの普段の祈り、日常の祈りを想像すると、これこそが祈りの中心であったのではないかと察するのです。
イエス・キリストにとって、祈りとは何よりもまず「父なる神をほめたたえること」、つまり賛美であったということがうかがい知れるのです。これは、祈りの基本が何であるかということを私たちに教えてくれます。私たちが自然に呼吸をしているように、無意識のうちに神様を賛美する。それによって、神様と一つになるのです。祈りとは、何よりもまず、神様に栄光を帰し、自分の生活を整えることです。賛美とは、私たちと神さまがそのような形でつながっていることを確認する言葉ではないでしょうか。
「あなたをほめたたえます」と言った瞬間に、いわば電話がつながるように、神様と私たちが一つになる。そして自分にではなく、神様に栄光を帰す。神様を中心にして自分の生活を整えていく。その根底にあるのが祈り、その中心が賛美です。
(6)父と子は一体である
さて、22節以下を見てみましょう。
「すべてのことは、父から私に任せられています。父のほかに、子が誰であるかを知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかに、父が誰であるかを知る者はいません。」ルカ11:22
少しわかりにくい言葉であるかもしれません。こういう言葉は、ヨハネ福音書にはたくさん出てくるのですが、共観福音書と呼ばれるマタイ、マルコ、ルカでは、とても珍しい、ここにだけ出てくる言葉です。これは、イエス・キリストが、自分は一体誰であるか、どういう存在であるかということを、ご自分のほうから示された言葉であると言ってもよいでしょう。
それは、第一に「すべてのことは、父から私に任せられている」ということです。言いかえれば、イエス・キリストは、父なる神(天の神)と一体である方である、天の神が持つすべてをもってこの地上に来られた方、地上において神をあらわした方であるということです。
二つ目は、「父のほかに、子が誰であるかを知る者はない」ということです。イエス・キリストがどういう方であるのかは、ご自分と一体である天の神だけがご存知であるということです。イエス・キリストがどういうお方であるか、最後のところでは私たちにはわからない。隠されている。父なる神様だけがすべてを知っておられる。
ただし、その逆は少し違います。つまり父(なる神様)が誰であるかについては、「子」だけが知っておられるというふうにつながるのが自然ですが、そうではなく、「子」だけではなく、「子が示そうと思う者」も知ることができる、と含みを持たせた言い方がなされています。これはイエス・キリストを通して、私たちも天の神さまがどういう方であるかということを知ることができるということでしょう。最後のことは、少し広がりのある(含みのある)表現だとして横におけば、父なる神と子なるキリストは一心同体であるということでしょう。そして21節には、「イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた」とありますので、その二者(天の父と子なるキリスト)を結んでいたものは聖霊だと言ってもよいでしょう。
(7)三位一体の神
そういう一体のことを古代の神学者(最初はアウグスティヌス)は、三位一体と呼んだのです。
三位一体というのはわかりにくい教義かもしれませんので、必ずしもそれが理解できなければキリスト教はわかったことにはならないと思うこともないでしょう。キリスト教の教義を整理して考えれば、そこに行きつく、という位でよいでしょう。
「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ」と言われる。
この時、彼らの目の前にイエス・キリストがおられるわけです。そのイエス・キリストを見ることによって、神様を知ることができる。それは何と幸いなことか、私たちに告げているのでしょう。そのようにして、天の神様と子なるキリストは、聖霊によって結ばれている。そして私たちは聖霊によって、そのお方を知ることはできる、という風に、言う事ができようかと思います。
三位一体という言葉は聖書には出てきません。これを最初に使ったのは、古代の思想家アウグスティヌスであると言われます。三位一体というのはわかりにくい教義です。ですからそれがわからなければ、キリスト教が分かったことにはならない、と思う必要はないと思います。むしろ、キリスト教の神様について、分かろうとすれば、それはそう理解するほかはない。あるいはそこに行きつく、という位に考えればよいのではないでしょうか。
私たちは、このイエス・キリストを通して神様と出会う。そして実際に、今の時代にイエス・キリストと出会うとすれば、それは聖霊によってであるということでしょう。そういうふうにして、神様を知る道が備えられているのです。