1. HOME
  2. ブログ
  3. 2023年5月28日説教「聖霊を与えてくださる」松本敏之牧師

2023年5月28日説教「聖霊を与えてくださる」松本敏之牧師

ルカによる福音書11章5~13節

(1)聖霊降臨日、シンボルカラーは赤

本日は、聖霊降臨日、ペンテコステです。ルカによる福音書と使徒言行録によれば、イエス・キリストは復活した体で、40日間、地上でお過ごしになり、天に上げられました。そしてその10日後、つまり復活日から数えると50日目に、突然、天から激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえて、聖霊が降ったというのです。教会はそこから始まっていきました。

ペンテコステの教会暦の色は赤です。また聖霊降臨の出来事を記した使徒言行録2章3節に、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」とあることから、ペンテコステの日には、何か赤いものを身につけようということが、幾つかの教会でなされています。鹿児島加治屋町教会でもそれをやっています。私も今日は、真っ赤なネクタイをしてきました。私は、赤やピンクが好きなので、赤いネクタイもたくさん持っているのですが、今日のネクタイは赤一色であり、年に1回、ペンテコステの日にだけ使っています。実は、このガウンの下に真っ赤なスーツを着て、真っ赤な下着を身に着けてきました。というのは、真っ赤なウソです。

さて今日の聖書テキストは、日本キリスト教団の聖書日課から取りました。ただしルカによる福音書11章1節から13節でしたが、主の祈りの部分を除いて、5節からといたしました。このルカによる福音書11章がペンテコステの聖書テキストとして選ばれるのは興味深いと思いました。一見、聖霊とあまり関係なさそうに見えますが、最後の13節後半にこういう言葉があります。「まして天の父は、求める者に聖霊を与えてくださる。」

今日のテキストは、「執拗に頼めば、その願いは必ず聞かれる」という趣旨の箇所です。その箇所で「聖霊」が登場するのは、はっとさせられました。私たちはさまざまな願いをもっていますが、そしてそれを祈り求めますが、果たしてどれほどの熱心さで聖霊を求めているだろうかと反省させられる思いがいたしました。

まずルカ福音書のテキストに即して読んでみましょう。

(2)真夜中の頼みごと

イエス・キリストは、いわゆる「主の祈り」に続けて、今日のたとえ話を語られました。それは、祈りの心得、あるいは祈り方について語られたものと言ってよいと思います。とても興味深いものです。

「『友よ、パンを三つ貸してください。友達が旅をして私のところに着いたのだが、何も出すものがないのです。』すると、その人は家の中から答えるに違いない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子どもたちも一緒に寝ている。起きて何かあげることなどできない。』しかし、言っておく。友達だからということで起きて与えてはくれないが、執拗に頼めば、起きて来て必要なものを与えてくれるだろう。」5~8節

「放っておくとうるさくて仕方がないから、あるいは近所迷惑になるから、あげる物を早くあげてしまった方が早く解決する。面倒なことは早く終わらせたい」という否定的な理由ではあるのですが、とにかく聞いてくれるというのです。

もちろん、私たちの神様もそのようにいやいや聞かれるという意味ではありません。地上の普通の人間でもそうであれば、天の神様であれば、聞いてくださらないはずがない、ということなのです。

とにかく自分の願いを、嫌われる程しつこく訴える。私たちは、果たしてそれほどまでに真剣に祈っているか、求めているか、ということが問われているのでしょう。

(3)戸をたたく人とは

このたとえを読んで、私が興味深く思ったことは、ここで執拗に頼みに来た人は、自分自身が、おなかがぺこぺこであったのではなかったということです。おなかがぺこぺこであったのは訪ねて来た友人でした。その友人の空腹に、彼自身も巻き込まれたのです。旅の友人が訪ねて来た時に、この人自身が「もう夜中だから勘弁してくれ」と断ってもよかったのに、その旅の友人を受け入れてやりました。それどころか、別の友人のところへ、真夜中にパンを恵んでもらいにいくのです。少し頼んでみて最初に断られた時に、「私もやるだけのことはやった。すまない。友だちは開けてくれなかった」と言い訳をすることもできたでしょう。しかし引き下がらないのです。困窮している友人を放っておけない。そこには、彼の友人への熱い思い、そして執り成しの祈りがありました。

その意味では、真夜中にパンを求めて執拗に扉をたたく人そのものがイエス・キリストを指し示しているようです。イエス・キリストは、私たちのために、このようにしつこく食い下がって、天の神様に執り成してくださるのではないでしょうか。

(4)旅の友人とは

さらに立場を変えて、深読みするならば、ここで夜中に一人目の友人を訪ねて来た旅人自身がイエス・キリストであったということもできるかもしれません。

マタイ福音書25章には、こういう話があります。

「あなたがたは、私が飢えていたときに食べさせ、喉が渇いていたときに飲ませ、よそ者であったときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに世話をし、牢にいたときに訪ねてくれた。」マタイ25:35~36

すると、そこにいた人々は、こう問い返しました。

「主よ、いつ私たちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、喉が渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、見知らぬ方であられるのを見てお宿をお貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。」マタイ25:37~39

それに対し、王(イエス・キリスト)は、こう答えられるのです。

「よく言っておく。この最も小さな者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのである。」マタイ25:40

そうだとすれば、そこで問われているのは、真剣に助けを求めている人々に対する私たち自身の態度です。私たち自身が心を開いているかどうかであると言えるでしょう。

(5)キング牧師の説教「真夜中に戸をたたく」

さて公民権運動で有名なマーティン・ルーサー・キング牧師が、この箇所で「真夜中に戸をたたく」という心に残る説教をしています。その説教題が説教集の題名にもなっています(『真夜中に戸をたたく』日本キリスト教団出版局、100頁以下)。キング牧師も、このたとえをそのままの形ではなく、少し立場を変えて読んでいます。

キング牧師は、今の状況は真夜中だと言い、「その暗闇はあまりにも深くて、われわれの行くべき方向もなかなか分からない」ということから説教を始めて、次のように語ります。

「この譬え話と同じように、今日のわれわれの世界においても、真夜中の深い暗闇は、戸をたたく音によって打ち破られる。教会の戸を何百万という人々がたたいている。」

一体何を求めて戸をたたくのか。それは第一に、「生き抜くための少しばかりのパン」です。これは文字通りのパンのことです。飢えて死なないために、それを必死に求めている人がいるのです。しかしそれだけではありません。人々が求めているものは「希望のパン」でもあり、「愛のパン」でもあると言います。この時代、「だれもが愛し愛されることを願っている」のです。キング牧師らしいのは、そこで終わらないことです。そこから畳みかけるように、それは「社会正義のパン」である、「自由のパン」である、「平和のパン」である、と言います。キング牧師は、「経済的正義(のパン)」として、次々と人々が求めているものを浮き彫りにしていきます。多くの人々がそれらを求めて教会の門をたたいているのに、教会は門を閉ざしていないだろうか、と熱く語るのです。

そして教会は、彼らに「新鮮な希望のパン」を提供し、「新鮮な赦しのパン」を提供し、「信仰のパン」を提供することが求められていると続け、最後に「真夜中は長くは続かない」と希望を語ります。最後の部分を引用しましょう。

「夜明けは来るのだ。失望と悲しみと絶望は、真夜中に生まれる。だが朝が来る。『嘆きは一夜は続くとも』と詩編作者は述べている。『朝には喜びが訪れる』と。この信仰が失意の集会を一時休止し、新しい光を悲観主義の暗い部屋に注ぐのである。」

これはキング牧師が1957年11月17日、今から65年前に語った説教ですが、全く古びていないということを思います。私たちの時代においても、やはり同じように、「生き抜くための少しばかりのパン」が求められ、「希望のパン」「愛のパン」が求められています。「社会正義のパン」「経済正義のパン」「自由のパン」「平和のパン」が求められています。

まずこのようないろんな叫びを、そしてそれを求めて扉をたたく音を、国が聞いているか、教会が聞いているかということを問わざるを得ません。教会がまずそうしたパンを求める叫び、愛、自由、正義を求める叫びを聞いて、そこで門を開き、受け入れて共に歩んでいくことが求められているのではないでしょうか。

(6)願いを率直に

たとえに続いて、こう言われます。

「そこで、私は言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。叩きなさい。そうすれば、開かれる。誰でも求める者は受け、探す者は見つけ、叩く者には開かれる。あなたがたの中に、魚を欲しがる子どもに、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。」ルカ11:9~12

ここでは、親であれば、必要な物を与えてくれるということと、子どもに毒になるような物を与えはしない、ということが同時に語られています。

私たちがなすべきは、それがいつ、どういう形で答えられるかはわからないけれども、神さまにすべてを委ねながら、私たちの側でできることをしていく、そして自分がふさわしいと思っていることを素直に、本気で、執拗に祈り求めていくということでしょう。

(7)聖霊を祈り求める

そして最後の言葉です。

「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子どもには良い物を与えることを知っている。まして天の父は、求める者に聖霊を与えてくださる。」ルカ11:13

実は、これとほぼ同じ言葉がマタイ福音書7章7節以下にも出てきます。ルカ11章9節の「求めなさい。そうすれば与えられる。」以下、ほぼ同じです。蛇とさそりのたとえも同じです。最後だけが違うのです。マタイでは、「まして、天におられるあなたがたの父は、求める者には良い物をくださるに違いない」となっていました。ルカではこの「良い物」が「聖霊」になっています。恐らくもともとは一つの伝承であったのでしょう。マタイかルカのどちらかが書き変えたのだとすれば、恐らくルカでしょう。ルカにとって、「良い物」とはすなわち「聖霊」ということであったのかもしれません。

ルカ福音書と同じ著者(ルカ)が書いた使徒言行録では、ご承知のように「聖霊」が特別に意識的に使われています。イエス・キリストが天に上られる直前に、こう語っておられました。

「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。」使徒1:8

弟子たちは、熱心に聖霊を求めて、祈りました。そのような中で聖霊降臨が起きたということを、私たちは忘れてはならないでしょう。

聖霊が降るというのは、教会の始まりの時にそうであったというだけではありません。聖霊は今も働いています。聖霊の支えなしには、教会が教会として立つこともできません。また私たちがクリスチャンとして生きることもできません。言いかえるならば、そのようにして教会が存在し、私たちがこのように教会に集い、信仰をもって歩んでいることこそが、聖霊が働いているしるしです。聖霊とは何であるかわからないという方が、時々あります。イエス様はわかるけれども聖霊はぴんと来ない。イエス様がわかるなら、それで十分です。つまり「2000年前にパレスチナの一地方で生きられたイエス様が、2000年後の日本に生きている私と関係があって、その方を救い主と信じることができる。」そこに聖霊が働いていなければ、どうしてそんなことがありうるでしょうか。今生きて、私を見守ってきてくださるイエス様、それが実は聖霊です、と言ってもよいでしょう。私たちの意気消沈しがちな信仰を、もう一度、生き生きとしたものにしてくださるよう、聖霊を求めていきましょう。そしてその信仰が自分だけにとどまるのではなく、社会に対して広がりを持ち、イエス様のみ旨が実現するために働くことができるように、聖霊を求めていきましょう。教会が教会として生き生きとキリストの体であることを表すことができるように、聖霊を求めていきましょう。

関連記事