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2023年12月3日説教「平和を告げる者の足は美しい」松本敏之牧師

イザヤ書52章1~10節
ルカによる福音書3章1~6節

(1)ヘルンフートの星

講壇のキャンドルに一つ火が灯りました。本日からクリスマスを待ち望む季節アドベントが始まりました。鹿児島加治屋町教会では、アドベントに入ると、このキャンドルの他に、礼拝堂正面の上のほうに、イガイガの星が空中に浮かんでいるように飾られます。これは、ベツレヘムの星を象徴するものですが、この形の星は固有名詞的にヘルンフートの星と呼ばれます。ヘルンフート兄弟団、あるいはモラヴィア兄弟団という教派の教会から始まりました。

ヘルンフート兄弟団というのは、毎年、ローズンゲン(日々の聖句)と呼ばれる短い聖書日課を発行していることでも知られています。

ドイツの町や教会では、アドベントに入ると、このヘルンフートの星がよく見かけられるようになるとのことです。

(2)今年度のクリスマス・テーマ

さて鹿児島加治屋町教会では、今年のクリスマスのテーマを、「平和を祈るクリスマス~きよしこの夜」といたしました。

「平和を祈る」というのは、今年度の年間聖句でもあります。アドベント、クリスマスの季節においても、この年間聖句を大切にしたいと思って、このテーマを掲げました。このクリスマス・テーマを決めたのは9月でした。その時、私たちの心にあったのは、主にウクライナの平和でした。ウクライナにロシアが軍事侵攻をしたのは、2022年2月24日でしたが、それは今も続いています。いよいよ長期戦の様相を帯びてきました。

ただこのテーマを決めた時、その数週間後に、イスラエルとパレスチナのガザの間で、戦争状態に陥っていくとは思いもよりませんでした。

発端は、10月7日、パレスチナのガザ地区を実効支配するハマスのイスラエルへの攻撃でしたが、その後のイスラエルのパレスチナのガザ地区への攻撃は、明らかに度を超えた報復と思えるものであり、ガザの民間人の死者はイスラエルの犠牲者をはるかに超えて、すでに1万人以上となっています。ハマスのイスラエルの民間人への攻撃を正当化することはできませんが、そこにまで至ったのは、イスラエルのこれまでからの度重なるガザ空爆や、「天井のない監獄」と呼ばれるガザ地区への封鎖があったからであることを考えておく必要があるでしょう。

私は、11月に出版した「出エジプト記説教集」の最初の説教でも触れたことですが、かつて抑圧され、虐待され、しかし神様の導きによって救い出されたイスラエルの民の子孫であると自任する人々が、いかに簡単に抑圧者の側に立ってしまうのかということに驚かざるを得ませんし、また残念でなりません。

先週まで1週間の戦闘中止期間があり、停戦へ向かうのかと淡い期待をもっていましたが、その期待もむなしく、3日ほど前からイスラエルのガザ攻撃が再開してしまいました。今年のクリスマス、ガザの人々のことを思いつつ、「平和への祈り」をますます強くしていきたいと思います。

鹿児島加治屋町教会では、クリスマス・テーマを、しばしば賛美歌の歌詞から取ってきましたが、今年はそうではありませんでした。ただ今年もテーマソングを決めたいと思い、「きよしこの夜」をテーマソングのように、副題として掲げました。最も有名なクリスマスの賛美歌でしょう。この歌を今年は、歌い込んでいきたいと思います。またこの賛美歌については、12月24日の礼拝説教で触れたいと思っています。

(3)第二イザヤ

今日は、旧約と新約、二つの聖書箇所を読んでいただきましたが、旧約のイザヤ書のほうが本日の日本基督教団の聖書日課です。少し専門的なことをできるだけ簡単に申し上げますと、イザヤ書という書物は、実は三つの時代に、それぞれ違う執筆者によって書かれたものが一つにまとめられたものです。イスラエル王国は、ダビデ王やソロモン王の統一王国時代の後、北王国イスラエルと南王国ユダに分裂しました。

イザヤ書1~39章は、北王国イスラエルがアッシリアによって滅ぼされる少し前の時代に書かれました。紀元前8世紀です。預言者イザヤの言葉を基本にしたものですが、その後の預言と区別するために、便宜上、第一イザヤと呼ばれます。

次の40~55章は、それから150年~200年後、紀元前6世紀に書かれました。(北イスラエルはすでに滅びていますが、)南王国ユダの首都エルサレムがバビロニア帝国の軍隊の侵攻を受け、滅亡した後の時代です。便宜上、第二イザヤと呼ばれます。今日の聖書箇所は、この第二イザヤにあたります。

ちなみに三つ目の56~66章は、それからさらに50年くらい後、バビロン捕囚後の時代に書かれたもので、第三イザヤと呼ばれます。

さて第二イザヤの背景をもう少し詳しく述べておきましょう。紀元前587年、南王国ユダは、バビロニア帝国によって滅ぼされ、国の指導者たち、主だった人たちはバビロニアの首都バビロンの郊外に連れて行かれました。そして、その状態は、紀元前538年、ペルシアの王キュロスによって解放されるまで、約50年間続きました。いわゆるバビロン捕囚です。預言者、第二イザヤは、そのバビロン捕囚末期に活動し始め、解放の時が近いことを告げ知らせ、捕囚の民がエルサレムを中心とする祖国に帰還することを強く促しました。従って、第二イザヤには、慰めや励ましに満ちた救いの言葉がたくさん出てきます。今日、読んでいただいた箇所もそうです。

(4)「足が美しい」とは

「なんと美しいことか
山々の上で良い知らせを伝える者の足は。
平和を告げ、幸いな良い知らせを伝え
救いを告げ
シオンに『あなたの神は王となった』と言う者の足は。」イザヤ書52:7

おそらくペルシアがすでにバビロニアに対して勝利し、自分たちももうすぐ「バビロン捕囚」の状態から、解放されるということを知っているのでしょう。その知らせを「今か今か」と待ち望んでいる状態です。

「足が美しい」というのは、もちろん文字通りの意味ではありません。その姿が美しいということです。しかもそれは見た目が美しいのではなく、その伝える内容が喜びに満ちたものであるがゆえに、美しいのです。

この言葉は、バビロン捕囚からの解放、という歴史的事件に関係しているわけですが、それは第二イザヤの意図を超えて、イエス・キリストの到来をも預言したものとも言えるでしょう。その意味で、まさにアドベントにふさわしい言葉です。

第二イザヤは、「良い知らせを伝える」という言葉を「平和を告げる」「救いを告げる」という別の言葉で言い換えています。これも奥が深いと思います。それゆえに、「平和を告げる者の足は美しい」「救いを告げる者の足は美しい」と言うこともできるでしょう。

「良い知らせ」というのは、新約聖書の「福音」(Good News)に通じます。新約聖書では、イエス・キリストの活動と言葉をまとめた書物のことを「福音書」「良き知らせの書物」「Good News」「Gospel」と呼んでいます。イエス・キリストこそは、「平和を告げ」「平和をもたらし」、「救いを告げ」「救いをもたらす」ために来られた方に他なりません。

(5)洗礼者ヨハネの道備え

またイエス・キリストご自身も、平和と救いを告げましたが、そのイエス・キリストの到来を告げる使者となり、その道備えをした人がいました。洗礼者ヨハネです。洗礼者ヨハネは、イエス・キリストがマリアから生まれる前、6か月前に、マリアの親せきエリサベトから生まれました。二人は直接出会う前に、母親同士が出会っています。マリアがエリサベトを訪問し、マリアのあいさつをエリサベトが受けた時、後の洗礼者ヨハネとなる赤ちゃんは、エリサベトの胎内で躍ったと、ルカ福音書は記しています(ルカ1:42)。

実は、この洗礼者ヨハネも、第二イザヤの預言と関係があるのです。洗礼者ヨハネが大人になってからのことを、ルカ福音書は3章の最初に記しています。先ほど読んでいただいた箇所です。

「アンナスとカイアファが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに臨んだ。ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。」ルカ3:2~3

そう記して、第二イザヤ40章の言葉を引用して、こう告げるのです。

「荒れ野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を備えよ
その道をまっすぐにせよ。
山はすべて埋められ
山と丘はみな低くされる。
曲がった道はまっすぐに
でこぼこの道は平らになり
人は皆、神の救いを見る。』」ルカ3:4~6

福音書記者は、(ルカだけではなく、マタイもマルコも、そうですが)、この「荒れ野で叫ぶ者の声」というのは、洗礼者ヨハネに他ならないと、いたしました。そして「主の道を備えよ」というのは、「イエス・キリストが来られる準備をせよ。道備えをせよ」と説いたというのです。

内容的には、どういうことかと言えば、「その道をまっすぐにすること」です。でこぼこの道を平らにする。つまり高い山や丘は低くされ、グニャグニャに曲がった道をまっすぐにすることです。

(6)正義と公正の実現に向けて

これは何を語っているのでしょうか。道路工事のような言葉です。もしかすると、実際にバビロンからエルサレムへ帰還する道を整えることも視野に入れているかもしれませんが、それよりも象徴的に、公平と正義に満ちた社会を実現していくことを語っているのだと思います。「山と丘は低くされ」というのは圧倒的な貧富の差が少しでも緩和されていくことではないでしょうか。山と丘を低くすると同時に、谷も埋められていかなければならないでしょう。貧困のゆえに、救いが見えなくなっている状態をなくさなければならない。グニャグニャ道というのは正義や公正が踏みにじられている状態ではないでしょうか。正義と公正に満ちた社会が実現して、まっすぐな道を通していかなければならない。

もともとのイザヤ書40章では、その後、「こうして主の栄光が現れ、すべて肉なる者は共に見る」と続きます。ただ、ルカ福音書は、それを「(こうして)人は皆、神の救いを見る」と意訳しました。意義深い言い換えです。

社会の正義や公正がない状態では、神の栄光を見ることはできませんし、救いを見ることもできないのです。

(7)ボンヘッファー「究極以前のもの」

第二次世界大戦中のドイツに、ナチスに抵抗し、最後はヒトラー暗殺計画まで企てる地下政治組織に加わったために処刑されたボンヘッファーという神学者がいました。彼は信仰の問題を社会で苦しむ人の問題と切り離すことはできないと真剣に考えた人です。

彼は、「信仰の問題」「救いに関わるような事柄」を「究極のもの」「究極の事柄」と呼び、この世界の社会正義や貧困にかかわるような働きを「究極以前のもの」という言葉で呼びました。(『現代キリスト教倫理』107~134頁)。

「究極のもの」とは、神様と私たちに関すること、「究極以前のもの」とは、この世界に関することだと言ってもよいでしょう。ボンヘッファーは、「究極以前のもの」として、人権の問題や差別や抑圧をなくすことを考えていました。「究極のもの」と「究極以前のもの」は、一応別の事柄ですが、深くつながっています。

ボンヘッファーは、こう言いました。「神の究極の言葉の宣教と共に、究極以前のもののためにも配慮することが、どうしても必要になってくる。」なぜなら、この世界には、「キリストの恵みの到来を妨げる人間の不自由、貧困、無知の深淵が存在する」からです。福音宣教のために、それらを取り除いていかなければなりません。彼は、そのことを「道備え」と呼びました。

「道を備えるという課題は、キリスト・イエスが来りたもうことを知っている者すべてに無限に責任を負わせる。飢えた者にはパンを、家なき者には住まいを、権利を奪われた者には権利を、孤独な者には交わりを、奴隷たちには自由を提供することが必要である。」

つまり「神などいない」としか思える状況にあって、「神が共におられる」ことを伝えようとすれば、「神が共におられる」ということがわかる状況を作り出していかなければならないということです。とても興味深いことです。

私たちも、この荒れ野で叫ぶ声、「道備えをせよ」という声に耳を傾け、イエス・キリストの到来を待ち望む働きに参与していきたいと思います。戦争はもっての他です。神の救い、神の栄光を見られなくすることです。それを何とか食い止め、平和を実現する働きや祈りに加わっていきたいと思います。

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