2023年5月21日説教「誠 実」松本敏之牧師
出エジプト記20章14節
ローマの信徒への手紙13章8~10節
(1)性にかかわるさまざまな問題
出エジプト記の十戒を続けて読んでいます。今日は第七の言葉、「姦淫してはならない」という言葉を心に留めましょう。これはなかなかデリケートな問題ですが、まずこの言葉が語られた時代状況と今日の私たちの状況はかなり違うものであることを心に留めておきたいと思います。
岩波書店版の「出エジプト記」を訳された木幡藤子さんは、その聖書の注の部分でこう述べています。「『姦淫する』と訳した原語は、男性が、既婚女性や、嫁ぐ相手の決まっている女性と性的関係を持ち、他の男性の結婚を破壊することを意味する。」
当時は、女性は一人の人格的存在としては認められず、男性の所有物、財産のように考えられていました。そうした社会において、この戒めは、男性が別の男性によってその権利が侵害されることを禁じる戒めであったと言えるでしょう。つまり男性同士の社会倫理的な戒めであったのです。
笹森田鶴さんは、そういう状況を踏まえつつ、こう述べています。
「男性から見れば、『財産』としての存在であって、不平等な扱いを受けていた女性たちには、自分の体や心についての主体性はありませんでした。それでも婚姻関係の中にある女性は、弱い立場であってもこの掟によって守られていたと考えられます。けれども、さらにここで目を留めたいのはその外にいる人たちのことです。婚姻という制度から抜け落ちた人、あるいは『罪人』というレッテルを貼られた人は共同体から追いやられ、そもそも『交わり』から疎外されてしまっているのです。」『信仰生活ガイド 十戒』93頁
私は、今日の問題としてこの戒めについて考える時に、そうした結婚という規範に留まらない性のさまざまな問題、そこで差別を受け、苦しんでいる人たちのことも視野に入れていかなければならないと思います。
(2)私もあなたを罪に定めない
ヨハネ福音書8章の冒頭に、有名な「姦淫の女」の話が出てきます。姦淫をしたとされる女性が広場に連れ出されて、律法に従ってみんなでその人を石で打ち殺そうというのです。みんなが石をもってかまえながら、イエス・キリストに向かって、「さあ、この女をどうしましょうか」と尋ねます。もちろん、それもイエス・キリストを陥れようとする罠だったようです。
その時イエス・キリストは、「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(ヨハネ8:8)と言われました。そうすると、誰も石を投げることができなかったというのです。「罪を犯したことのない者」の「罪」にはもちろん、すべての罪が当てはまるのでしょうが、特に姦淫の問題について、みんな心の中では自分も紙一重だということを感じたのではないでしょうか。
しかしこの時、イエス・キリストが最後に語られた言葉も忘れてはならないでしょう。
「女よ、あの人たちはどこにいるのか。誰もあなたを罪に定めなかったのか。」彼女が「主よ、誰も」と言うと、最後にこう言われました。
「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはいけない。」ヨハネ8:11
この主イエスの赦しの言葉のもとでこそ、私たちはこの戒めも正面から見据えることができるのではないでしょうか。
(3)問題の根源
イエス・キリストは山上の説教で、十戒の中の幾つかの戒めを一つ一つ取り上げながら、その根源にまでさかのぼって解釈されました。前回の「殺してはならない」という戒めについては、次のように語られていました。
「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、私は言っておく。きょうだいに腹を立てる者は誰でも裁きを受ける。」マタイ5:21~22
私たちが誰かに腹を立てる時、「あの人なんかいない方がいい」と、心の中で思う時、すでに「殺してはならない」という戒めを犯したことになるということです。
それに続けて同じ形式でこう語られたのです。
「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、私は言っておく。情欲を抱いて女を見る者は誰でも、すでに心の中で姦淫を犯したのである。右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさい。体の一部がなくなっても、全身がゲヘナに投げ込まれないほうがましである」マタイ5:27~29
こういうふうに言われると、誰もこの戒めから逃げることはできないように思います。実際の行為にいたる前に、それを生み出す心まで問題にされたのです。
(4)愛の破壊
ただイエス・キリストは、「情欲を抱いて女を見る者は誰でも、すでに心の中で姦淫を犯したのである」という言葉で、自然な性欲を否定されたのではないと思います。この言葉だけを聞きますと、あまりにも現実離れしているように思えてしまいます。そしてその理想と現実の矛盾に苦しんでしまう。そう感じる人もあるかも知れません。
しかし私たち人間が性的な関心を持ったり、衝動を持ったりするというのは、みだらなことでも何でもなく、ごく自然な当たり前のことであると思います。むしろ神様が創られた創造の神秘、美しさに属することです。旧約聖書は、これを大らかに肯定しています。旧約聖書の中に雅歌というのがありますが、これを読みますと、恋愛小説か何かを読んでいるようです。イエス・キリストも、基本的に旧約聖書の教えを受け継ぎながら、その伝統の中におられると思います。
それでは、主イエスのこの厳しい言葉を、どういうふうに理解すればいいのでしょうか。一体、何が問題なのでしょうか。私は、自分の性欲を満たすために、私たちが入ってはならない領域にまで踏み込んでいくこと、これこそが罪ではないかと思うのです。姦淫とか不倫とか言うのも、愛の一種だと言われることがありますが、実は愛とは正反対のことであり、愛の破壊です。
姦淫とは、侵入を意味します。一組のカップルが幸せな結婚生活を送っているところに、他人が踏み込んでいって壊そうとする。愛の絆に生きようとしている人々のところに、土足で踏み込んでいく。それは押し込み泥棒に似ていますが、そういうことが一番の罪なのではないでしょうか。
また実際の行為にまで至らなくても、目や心において、すでにそういう「侵入」が始まっているのだと、イエス・キリストは、どきっとする言葉で告げられたのだと思います。
私はそうした愛と性の問題を広く考えてみますと、責任を伴わない性行為であるとか、お金でもって性を買う「買春」(売春と区別)とかいうことも、すべてこれに関係してくるのではないかと思います。なぜそれが問題なのか。それが人の幸福を奪うからです。自分の欲望のために、他人の人権、他の人の幸福を犠牲にするからです。特に、性のことに関して、そういうことははっきりとあらわれてきます。昔からそうした身勝手な性の欲望の犠牲になって泣いて来た人が、数限りなくありました。
(5)ダビデの罪
すぐに思い浮かぶのは、ダビデの罪です。ダビデは、ある日の午後、宮殿の屋上から、一人の美しい女性が水浴びしているのを見て、一目ぼれします。そしてそれが誰かを部下に調べさせました。その女性は、バト・シェバという名前で、自分の指揮下にあるヘト人ウリヤの妻でした。ダビデは、バト・シェバの妊娠をウリヤによるものと見せかけるために、ウリヤを前線から送り帰させ、「家に帰って足を洗うがよい」と言って休ませようとします。しかし彼は「仲間が戦っているのに、そんなことはできません」と断ります。自分の思惑通りに行かないダビデは、どうしたかと言えば、今度は逆に、ウリヤを最も戦闘の激しい最前線に送り込み、敵の手でウリヤを殺させてしまうのです。そしてダビデは、バト・シェバを自分のものにしてしまいました(サムエル記下11章参照)。
神様は、このダビデの罪を見逃さず、預言者ナタンを送って、その罪を告発しました(同12章参照)。ちなみに、このナタンの告発を聞き、ダビデが悔い改めて歌ったとされるのが詩編51編とされています。またこのダビデとバト・シェバから次の王、ソロモンが生まれてくることになります。
(6)軍隊慰安婦、セックス産業
第二次世界大戦中、日本軍は占領地の女性たちを狩り出して、強制的に兵士たちのセックスの相手をさせました。従軍慰安婦と言われますが、そうした事実がいろんなところから明らかにされてきました。「従軍慰安婦」という言い方は、自ら従ったような印象を与えかねないので、「軍隊慰安婦」という言いかえがなされるようにもなってきています。
今日でも日本人の男性と他のアジアの女性の歪んだ性関係は、セックス産業の中でずっと続いており、さまざまな社会問題を生み出しています。日本国内には、セックス産業に従事させるために、他のアジア諸国から大勢の女性が日本へ送り込まれてきます。その多くは正式な入国ではありません。夢のような話を聞かされ、だまされて日本にやってきた女性もたくさんいます。入国するや否や、ボス、仲介人に、パスポートを取り上げられて、監禁状態にされるということも、しばしば聞きます。
キリスト教関係では、日本キリスト教婦人矯風会が母体となって、HELP(House in Emergency of Love and Peace)という組織が、そういう女性たちを救う「駆け込み寺」のような働きをしています。
また反対に、日本人が会社や町内会で男性だけのツアーを組んで、アジア諸国へ出かけて行き、現地の女性と「遊ぶ」、いわゆる「買春観光」があります。そこでは、その国において、さらにさらに貧しい田舎から少女が売られてきて、セックスの相手をさせられます。多くは10代の少女だそうです。
私は、こうしたことはそれに参加する人のモラルの問題であると同時に、そうしたところに夫を送り出してしまう家庭の問題でもあり、それを許している社会全体の問題でもあると思います。それを突き詰めていけば、お金持ちと貧しい人の差がどんどん広がっている現代の社会構造の問題にまで行き着くのではないでしょうか。
私は、主イエスの言葉は、「姦淫してはならない」ということを突き詰めて、そこに潜んでいる心の奥底の問題、そしてゆるしている社会構造や精神の問題まで、告発しているのではないかと思います。
そういうふうに考えていくならば、姦淫の罪とは、最初の旧約聖書の文脈を超えて、「性の問題において人の幸せを奪うもの」というふうにとらえ直すことができるのではないかと思います。
それは結婚という枠組のなかでも起こるものです。ドメスティック・ヴァイオレンスと呼ばれる夫による妻への暴力が、大きな社会問題として取り上げられるようになってきました。以前は、女性の泣き寝入りが多くあったことでしょう。いや今でも社会問題にはいたらない、隠れたドメスティック・ヴァイオレンスはあちこちで日常的に起こっていることではないかと察します。それも姦淫といえるのではないでしょうか。そのようなことが起きた時には、離婚が最善の道である場合もあるでしょう。
(7)LGBTQの人たち
これは男女のカップルにとどまらないとも言えます。同性のカップルもあります。二人で誠実に生きようとするカップルを、社会や制度が妨げることもある。日本の社会はまだ同性婚を認めていません。そのことは、二人で誠実に生きようとしているものを、社会が認めず、幸せに生きる権利を阻害しているものであると私は思います。
米国のエマニュエル駐日大使は、4月10日、東京都内で開かれた内外情勢調査会で講演をし、出席者から性的少数者に対する政府や自民党の取り組みについて問われたそうです。それに対して、「日本の憲法は差別に関しては明確に提起している。差別に反対する国家だ」と指摘した上で、こう述べました。「同性婚か異性婚かではなく、『結婚』しかないと思う。日本のためにもそれを受け入れるべきだ。」そして記者団からの質問に対して、「LGBTQのために発言、行動するというのは、バイデン大統領の政策で明確なことだ」とし、「それを擁護するということは、私が大使として進むべき道の中に入っている」と述べたそうです(「朝日新聞」2023年4月11日)。
事実、エマニュエル大使は、4月25日、何千人もの日本人と共に「東京レインボープライド2023」に参加し、婚姻の平等、普遍的人権、そして日本や世界中のLGBTQの人々に対する国際的な支持を表明いたしました。
(8)離婚が最善の道である場合もある
さてドメスティック・ヴァイオレンスのようなことでなくても、私たちの結婚生活には破綻が起きることもあります。離婚は決して好ましいことではありませんが、二人がそれぞれ新しい出発をするために、離婚が最善の道であるということ、それしか道がないということが確かにあります。そうした時私たちは、それを決して裁くようなことをしてはなりません。本人たちが一番傷ついているのです。考えに考えて出した重い決断を応援し、愛をもって祝福して新しく送り出すような姿勢が求められるでしょう。
パウロは、こう言いました。
「互いに愛し合うことのほかは、誰に対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。『姦淫するな、殺すな、盗むな、貪るな』、そのほかどんな戒めがあっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするのです。」ローマ13:8~10
この要約の仕方は、ご承知のように、イエス・キリストもなさったものです。律法の中で、どの戒めが最も重要でしょうか」という質問に対して、イエス・キリストは、こう答えられました。
「『心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くしてあなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の戒めである。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つの戒めに、律法全体と預言者とがかかっているのだ。」マタイ22:36~40
これは十戒の前半と後半をそれぞれに要約したものと言ってよいでしょう。十戒の後半は、人と人の関係についての戒めです。その要約が「隣人を自分のように愛しなさい」であるならば、それは、この「姦淫してはならない」という戒めにおいてこそ、その精神が最もよく表れてくるのだと思います。
私たちも隣人を自分のように愛する共同体、隣人を自分のように愛する社会を築いていきたいと思います。