2023年3月5日説教「神の指」松本敏之牧師
ルカによる福音書11章14~26節
(1)権威をふりかざす人
本日は、日本基督教団の本日の聖書日課をお読みいただきました。こういう言葉で始まります。
「イエスは悪霊を追い出しておられた。それは口を利けなくする悪霊であった。悪霊が出て行くと、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚いた。」14節
群衆は素直に驚きました。「すごい人が現れた」。しかしそれを素直に受け取らない人々もいました。それはなにがしかの権威をもった人たちでありました。どういう人かとは書いてありませんが、恐らく悪霊を追い出すのは自分たちの専売特許だと考えていた宗教者たちであったのではないでしょうか。イエス・キリストに神の霊を認めると、自分たちの立場を揺るがすことになりかねないと思ったのでしょう。彼らは、自分たちこそ神の言葉をもち、自分たちこそ神の御心を知っていると、自負していました。対抗意識や嫉妬があったかもしれません。こう続きます。
「しかし、中には、『あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している』と言う者や、イエスを試そうとして、天からのしるしを求める者がいた。」11:15~16
「天からのしるしを求めた」人たちというのは、いわば悪霊を追い出すのは自分たちの「縄張り」のように考えて、「お前は誰の許可を得て、そんなことをやっているのか」と問い詰めたのでしょう。前者の「悪霊の頭ベルゼブルの力で追い出している」と言った人たちは、イエス・キリストの悪霊を追い出す業、癒しの業を見ていて、そこに人間を超えた力が働いていることを認めざるを得なかったのでしょう。しかしそれを神の霊ではなく、悪霊の力によるものだとしました。そういう風にイエス・キリストを非難することによって、イエス・キリストの業を、魔術、呪術などに対する厳罰の規定(申命記18:10~12など)に当てはめて、陥れようという陰謀も感じられます。
イエス・キリストの存在は、それを受け入れるか拒否するかで、人々を二つに分ける働きがあるようです。この世でなにがしかの権威を持っている人は、それを超える権威を持った人が登場すると、それを拒否しようとする傾向があるのではないでしょうか。自分の持っている権威が自分に見合うものではなく、その権威にしがみついて生きている人であればある程、そういう傾向があるように思います。自分の権威に自信がないから、それを脅かしそうな者が現れると、急いでそれを抹殺しようとするのでしょう。
クリスマスの時のヘロデ王がそうでした。東方の博士たちがエルサレムへやって来て、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」(マタイ2:2)と言うのを聞いて、ヘロデ王は不安を抱き、やがて2歳以下の男の子を皆殺しにするように、命じることになります(マタイ2:16参照)。
(2)本当に偉い人
しかし本当に偉い人というのは、自分よりも優れた人、あるいは本当の権威をもった人の登場を拒否しません。洗礼者ヨハネがそうでした(マタイ3:14参照)。当時、ヨハネの方がイエス・キリストよりも、よほど注目を浴び、「偉い」と思われていたにもかかわらず、「私の後から来る人は私よりも力のある方で、私はその履物をお脱がせする値打ちもない」(マタイ3:11)と、語ることができた人でした。
ファリサイ派の人々の中でもそういう人がいなかったわけではありません。ガマリエルという人は、今日の物語の宗教者たちとは全く違います。当たり前のことですが、ファリサイ派のすべてが悪かったわけではないのです。ガマリエルは、パウロの律法の先生でもありました(使徒22:3)が、この人は、はったりでない本物の権威とは、内側からあふれ出るものであることをよく知っていました(使徒5:38~39)。
(3)主イエスの反論
さて主イエスは、「悪霊の力で悪霊を追い出している」という非難に対して、三つの言葉で答えます。
一つ目は、いかに悪霊の世界といえども、内輪もめをすると、内部分裂してしまうということです。
「内輪で争えば、どんな国も荒れ果て、家は重なり合って倒れてしまう。サタンもまた内輪もめすれば、どうしてその国は立ち行けよう。」11:17~18
だから悪霊の頭で悪霊を追い出すことなどできないということです。
二つ目は、彼らの弟子たちも悪霊追放のわざをしていることを取り上げ、それも悪霊の仕業なのかと皮肉ったのでした。
「私がベルゼブルの力で悪霊を追い出しているのであれば、あなたがたの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたがたを裁く者となる。」11:19
彼らは、それ以上何も言うことができませんでした。しかしながら本当に大事なことは、その次の言葉だと思います。
「しかし、私が神の指で悪霊を追い出しているのなら、神の国はあなたがたのところに来たのだ。」11:20
実はこの言葉こそが、この箇所で最も大事な言葉と言えるでしょう。
(4)小山晃佑先生の使徒信条理解
前にもお話したことがあるように思いますが、ニューヨークのユニオン神学校の教授であった小山晃佑先生が、来日された時、日本聖書神学校で学生の質問、「使徒信条について、どう思うか」という質問に対して、興味深い話をされたことがありました。使徒信条というのは、キリスト教の信仰告白で、「私たちは何を信じるのか」ということを短い言葉でまとめたものです。それはキリスト教の歴史においてかなり古く、その原形となる「ローマ信条」というのは、紀元後2世紀後半に定められたであろうと言われます。今はコロナ禍で休止していますが、私たちの教会の礼拝の中でも、ずっと唱えてきているものです。週報の最後の頁にも記しています。小山晃佑先生は、こう言われました。
「使徒信条というのは、当時の特定の状況の中で必要に迫られて書かれたもので、物足りないところもないではない。使徒信条は、『私たちの信仰の真理はこっちの方ですよ』という道案内位に受けとめておけばいいのではないか。それが信仰を規定する絶対的なものではない。」
信仰の道しるべだということですね。使徒信条というのは、よく指摘されるように、「おとめマリアから生まれ」からいきなり「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」まで、ぽーんと飛んでしまいます。その間にイエス・キリストが一体何をなさったのかということが全く触れられていません。
小山先生は、「ぼくだったら、その間に、『悪霊を追い出し』とでも入れるかな」と言われました。使徒信条に手を加えるなどとは思いもよらないことでしたので、とても印象深く聞きました。
「主は聖霊によりて宿り、おとめマリアより生まれ、悪霊を追い出し、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」という具合です。
「使徒信条」を金科玉条のように主張する人たち、これを守る教会こそが真の教会だと権威を振りかざす人たちに対する「よく考えてみましょう」という意味合いも持っていたと思います。
「悪霊」というのは、今日の私たちにしてみれば、わかりにくい言葉ですが、それは私たちをさまざまな形で閉じ込めているもの、苦しめているもの、本来的な状態ではなくさせているもの、人間性を奪うものと言ってもよいかもしれません。イエス・キリストは、私たちをそういう状態から解放するために来られた。確かにそれらをひっくるめると、「悪霊を追い出し」というふうに言えるかもしれません。
(5)「神の国をもたらし」
私だったら何と表現するかな、別の言葉はないかなと考えてみました。「神の国をもたらし」というのはいかがでしょうか。「おとめマリアより生まれ、神の国をもたらし、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け…」。この「悪霊を追い出す」というのと、「神の国をもたらす」というのは、実は同じことの裏表のようなものかと思います。先ほど読んだ個所に、こういう言葉があります。
「しかし、私が神の指で悪霊を追い出しているのなら、神の国はあなたたちのところに来たのだ。」11:20
この言葉からも、悪霊を追い出すことと神の国をもたらすことが、内容的に同じこと、少なくとも同じ方向のことを指していることがわかります。
イエス・キリストがここで追い出されたのは、「口を利けなくする悪霊」だということです。私たちはこれを象徴的にとらえてもいいのではないでしょうか。私たちの言葉を封じ込める霊が働いている。ものが言えなくなってしまう。イエス・キリストは私たちをそこから解放し、新たな自由な言葉を与えられるのです。
イエス・キリストの宣教の中心は、まさにここにありました。イエス・キリストは、神の国をもたらすために、神の指となって働かれたのです。それは悪霊に閉じ込められているさまざまな人を、そこから解放して、まことの神のシャロームの世界に導いてくださることでした。そしてそのような神の国をつくり出すことへと私たちを導くことがイエス・キリストの宣教の中心であったのではないかと思います。
これと同じ話は、マタイ福音書にも、マルコ福音書にも出て来るのですが、「神の指」という言葉を使っているのは、ルカ福音書だけです(マタイ12:28、マルコ3:20~30参照)。
(6)二重の悪霊支配
ただイエス・キリストはこの時、「口を利けなくする悪霊」(14節)に取り憑かれた人をいやしてあげましたが、私は同時にこの時、別の悪霊、つまり権威という衣を着た悪霊と向き合っておられるのではないかと思うのです。権威、あるいは権威主義という悪霊。その場を支配して、相手を威圧してこようとする悪霊です。この悪霊は、権力者に取りつくのです。主イエスは、その権威主義の支配のもとで苦しめられているも群衆を解放しようとしておられたのではないでしょうか。
今の世界で、たとえば、私は、ロシアのプーチン大統領には、この「権威」という悪霊にとりつかれているように思えます。ロシアを守らなければならない。守るのは自分しかいない、という思い、いわば悪霊にとりつかれている。そしてその悪霊のもとで、非常に多くの人が苦しめられている。ウクライナの人々だけではなく、ロシアの一般民衆も含めて、です。この悪霊にとりつかれると、目つきが変わってしまうように思えます。気のせいかもしれませんが。
イエス・キリストは、続けてこう言われました。
「強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その財産は安全である。しかし、もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具を奪い、分捕り品を分け合う。」11:21
その権威が(悪い権威であれ、よい権威であれ)しっかりしている時には、その中の物に誰も手を付けることができない。しかしより強い力が来て、その権威を揺るがすと、安全ではなくなってしまうということでしょう。
ここでも、二重の悪霊の支配を考えたらよいと思います。表面的には、「口を利けなくする悪霊」、もう一つは、「宗教的支配者に、自分たちこそ、この分野の実権を握っていると思い込ませている悪霊」です。宗教的権威者は、自分がこの悪霊にとりつかれているということに気づいていなかったでしょう。そして自分たちが守ろうとしているものを揺るがそうとしている相手のほうを、悪霊の仲間だと信じ込んでいるのです。こういうことは代々の教会にもずっとありました。魔女裁判をしたり、十字軍を派遣したり。現代でもあると思います。プーチンの側近であるロシア正教のキリル総司教もそうかもしれません。あるいはもしかすると、私たちの日本基督教団のリーダーも、そういうふうに「教団をまもらなければならない」という思いに取り込まれることもあるかもしれません。
(7)「神の家」の表札が出ているが、空き家
イエス・キリストは、ここでもう一つ不思議な面白いたとえを語られました。
「汚れた霊は、人から出て行くと、休む場所を求めて水のない所をうろつくが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。帰ってみると、掃除をして、飾り付けがしてあった。そこで、出かけて行き、自分より悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。」11:24~26
私たちは、悪霊が好きな場所は汚い場所と考えるのではないでしょうか。ところが悪霊も、きれいに掃除をして整えられた家のほうが好きだというのです。
誰であれ、主人がいるところへは入っていくことは難しいものです。独裁者がいる国を思い浮かべますと、いいかもしれません(ユーゴスラビアをミロシェビッチ大統領という独裁者が支配していた時には、ユーゴスラビアはまだ紛争が抑え込まれていました。しかしその権威が崩壊すると、ユーゴスラビアが大紛争になっていきました。フセイン大統領のいたイラクも、フセインがいなくなると大混乱に陥りました)。その独裁者(主人)がいる場合は、ぐっと抑えつけられているので、ある種の平和が保たれています。しかしそうした力がなくなって権力不在になった時には、他の勢力が争いあうことになります。
先程の宗教的権威というのも、きれいな空き家のようなものかもしれません。そこでは、「神の家」という表札が掲げられているのに、実は神様は不在なのです。悪霊がドアを開けてみると、「あれ、主人がいないではないか」と言って、すっと入りこんで居座ってしまうのです。まわりの人は、そこが神の家だと思い込んでいますので、こんなに居心地のいい場所はないでしょう。ちょっと恐ろしくなりますが、私たちは、自分たちの信仰の権威というものも絶対視せず、いつも新しく吟味する心の柔軟さをもつ必要があるでしょう。
(8)信仰が空洞化していないか
私たち自身の信仰も空洞化していないかということを、原点に立ち返って吟味する必要があるでしょう。信仰告白をし、洗礼を受け、クリスチャンとして歩んでいる。しかしその信仰がいつしか形式的になり、神様がいてもいなくても大差のない人生。やるべきことをちゃんとやり、礼拝にも出席し、それないに献金もしている。それなりに自分に合格点を出している。それで満足している信仰生活。そこに神様がいなければ、別のものに支配されてしまうことがあるかもしれません。私自身、心当たりがないわけではありません。
私たち自身は弱い者です。悪霊の支配下に置かれかねない者です。しかし主イエスは、それを超えて、私たちをそこから解放し、まことの主人として中にいてくださり、まことの幸いへ招いてくださるのではないでしょうか。