2023年12月24日説教「きよしこの夜」松本敏之牧師
ヨハネによる福音書1章1~14節
(1)今年のクリスマス・テーマ
クリスマス、おめでとうございます。
講壇のキャンドルに4つ灯がともりました。本来は、今日は待降節(アドベント)第4主日ということで、降誕節は、明日12月25日から始まります。しかし多くの日本の教会の慣習として、12月25日が日曜日でない年は、その前の日曜日にクリスマス礼拝をもっています。私たちも、今日の礼拝をクリスマス礼拝としました。
鹿児島加治屋町教会では、今年のアドベントとクリスマス、「平和を祈るクリスマス~きよしこの夜」というテーマを掲げて歩んできました。
今年の2月24日、ロシアがウクライナに侵攻し、空爆をし、ウクライナの人びとの平和な生活は壊されて行きました。それは今も続いています。いよいよ長期戦の様相を帯びてきました。また10月7日、パレスチナのガザ地区を実効支配するハマスのイスラエルへの攻撃があり、その後のイスラエルのパレスチナのガザ地区への攻撃が始まり、ガザの人びとの生活は破戒され続けています。今こそ停戦が実現しますように、と願うばかりです。平和については、夜のキャンドルサービスで、もう少し丁寧にお話したいと思っています。
また副題として「きよしこの夜」と掲げました。私たちはクリスマスのテーマを、主に讃美歌の言葉から選んできましたが、今年のテーマはそうではなかったので、何かテーマソングのように歌える賛美歌を、と思った次第です。そしてクリスマスの讃美歌として、恐らく最もよく歌われてきたであろう「きよしこの夜」を、改めて取り上げることにしました。
(2)「きよしこの夜」の成立事情
「きよしこの夜」という賛美歌は、特に「平和」ということを前面に出してはいない曲に思えますが、川端純四郎氏の『さんびかものがたり』によれば、最初に「きよしこの夜」の歌詞が作られた時には、実は平和への願いが込められていたそうです。「きよしこの夜」の成立事情については、この書物に記されていることを中心にお話しいたします。
「きよしこの夜」の作詞者は、ヨゼフ・モールという人で、1792年に生まれ、1848年に亡くなっています。ですから19世紀前半の人です。ザルツブルクの貧しい裁縫師を母として生まれました。母のアンナ・ショイベリンには4人の子どもがいましたが、すべて父親が異なっていました。そしてすべて正規の結婚によらない子どもたちでした。当時は厳しいカトリック道徳の社会でした。アンナは出産のたびに罪人(つみびと)として、教会で告解をし、罰金を課せられたそうです。ヨゼフの父は下級兵士で、銃撃手として傭兵のように軍隊を渡り歩いていた人のようです。父親は、ヨゼフが生まれた時には、すでに母を捨ててどこかにいなくなっており、ヨゼフは生涯、父と会うことはありませんでした。
最初の子は生まれてすぐに死んで、ヨゼフは父の違う姉と、間もなく別の父から生まれた弟と3人で、母と一緒に暮らしていました。
当時は、数百年続いたザルツブルク大司教侯国が、ナポレオン戦争の嵐の中で、あっというまに崩壊し、フランス領、ドイツ領、イタリア領、オーストリア領とめまぐるしく支配者が代わり、荒れ果てた地域は、飢えと困窮に覆われていました。貧しい女性が子どもをかかえて生きていくことはどんなに困難であったことでしょう。そのような状況の中で、幼いヨゼフの心には、母親に対する愛憎の感情があったのではないかと思われます。「きよしこの夜」は、もともとカトリックの賛美歌であるにもかかわらず、珍しく聖母マリアが登場しないのですが、そこにはヨゼフの心の中に母親に対するわだかまりがあったのかもしれません。ちなみに、かつての日本語訳の中に「み母の胸に」という言葉がありましたが、あれは原歌詞にはない言葉でした。でも聖母マリアが登場しないことは、「きよしこの夜」がプロテスタントにも広く受け入れられるようになった原因の一つになったかもしれません。
原語の第1節は次のような歌詞です。
「静かな夜、聖なる夜。
すべては眠り、目覚めているのは、ただ
信頼し合う聖なる夫婦と、
かわいい、巻き毛の幼子だけ。
眠れ、天の憩いの中で」
幼子イエスが巻き毛であるというのは興味深いですが、そしてその謎ときについて、川端純四郎氏の本にも記されているのですが、今日はそのことには触れないでおきましょう。
(3)「きよしこの夜」の初演
さて、これまで「きよしこの夜」の成立は、1818年のクリスマス・イブの日とされてきました。ザルツブルクの北、約20キロの小さな村オーベルンドルフの教会で、クリスマス・イブの日に、オルガンの風袋がネズミにかじられて音が出なくなり、あわてたオルガニストのグルーバーが助祭のヨゼフ・モールに頼んで、急いで詩を作らせて、その日のうちに作曲し、二人で、聖夜ミサにギター伴奏で歌ったという有名な話です。
1818年のクリスマスに「きよしこの夜」がオーベルンドルフの教会で、初めて演奏されたことは事実です。これには作詞者と作曲者の両方の証言があります。(ネズミの話は、楽しい伝説ですが、残念ながら事実ではないようです。
(4)最初の歌詞は6節まであった
ただし歌詞のほうは、実はその2年前、1816年に、ヨゼフ・モールによって作られていました。そしてその時には、現在の3節形式ではなく、6節までありました。
現在の2節と3節の間に、別の3つの節があったのです。
「静かな夜、聖なる夜、
この世に救いをもたらす夜、
天の黄金の高みから
私たちに恵みの充満が示す、
イエスを、人の姿で」(第3節)
「静かな夜、聖なる夜、
今夜、父の愛の
すべての力を注いで、
私たちすべてを兄弟として恵み深く、
イエスは世界の民をだきしめる」(第4節)
「静かな夜、聖なる夜、
すでに長く私たちを心にかけ、
主は怒りをお捨てになって、
父祖たちの大昔に
全世界をいたわり約束された」(第5節)
ここには、「父の愛」が歌われています。「母マリア」を歌わなかったモールが、祖父と出会ったことで、まだ見ぬ「父」との和解を心の中で味わったことが、この歌詞の背後にひそんでいるのではないかと、川端先生は分析しています。そしてこう述べるのです。
(5)平和の賛歌
「もっと重要なことは、ここに諸民族の和解と平和が歌われていることです。救済史(神の救いの歴史)の中に約束された神の平和が、今、人となったイエスによって実現されているという深い喜びが告げられています。」
20年続いた悲惨な戦争がついに終わったのです。フランスに占領され、バイエルンに占領され、トスカナに支配され、再びバイエルン領になり、モーツァルトの主君であったコロレード伯爵大司教は追放され二度と戻らず、1813年には、ナポレオンのモスクワ遠征に4000人の若者が徴用されて、大部分は生きて帰ることはなかったそうです。ナポレオン敗北後のウイーン会議でも、まだこの地方の戦争は決着がつきませんでした。バイエルンとの領有権争いが続き、ようやく最終的な平和がか確定したのは1816年夏のミュンヘン協定によってでした。
その1816年のクリスマス(つまり最初の歌詞が書かれた年)は、モールにとって、特別なクリスマスであったことでしょう。待ち望んだ平和の中で迎えたクリスマスでありました。
「きよしこの夜」という詩は、まさにこの年でなければ生まれることのない詩でした。それは、救い主降誕の美しい牧歌的な情景を歌うだけではなく、旧約聖書の父祖たちに約束された平和を、ついに実現してくださった「父の愛」を、モールは感謝と共に歌わずにはいられなかったのでしょう。
「きよしこの夜」は、もともと「平和の賛歌」であったのです。それは重く深い内容を歌ったものでした。やがてこの曲はチロル民謡として伝えられるようになり、そうした背景は忘れ去られ、永遠に変わらないクリスマスの夜の静けさと聖さだけが残されていきました。それはそれで、この曲が世界中に伝わっていく上でよかったことであるのかもしれません。
ただ私たちは、この曲の成立事情やもともとの歌詞を知ることによって、「きよしこの夜」をより深く味わうことができるのではないでしょうか。
そして2023年のクリスマス、私たちはガザの人々のことを思いつつ、ウクライナの人のことを思いつつ、ミャンマーの人のことを思いつつ、「きよしこの夜」を歌いたいと思います。