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2023年11月26日説教「私のものはあなたのもの」松本敏之牧師

ルカによる福音書15章25~32節

(1)収穫感謝日、謝恩日、1年の終わり

本日は、収穫感謝日であり、謝恩日であります。収穫感謝をこの時期に行うのはアメリカ合衆国から始まったことですが、収穫を感謝するということは、もともとは聖書にも出てくる世界共通のことであります。私たちは、神様から多くのものをいただいておりますが、直接には、地の実りのものを改めて感謝していただくのです。

また謝恩日というのは、隠退した牧師先生方を覚える日です。鹿児島加治屋町教会では、さまざまな献金をひとまとめにして宣教共有献金として、皆さんにお献げいただいていますので、特に本日の礼拝の献金を隠退教職のために、ということはいたしません。隠退した先生方を心に留める日曜日であることを覚えていただきたいと思います。10月の第二日曜日は神学校日ですが、神学校日と謝恩日はセットでお考えいただいたらよいのではないでしょうか。変な言い方ですが、牧師の入口と出口のようなものです。私たちは、神学校日に、牧師を育てる神学校や神学生を覚えて祈り、献金をするわけですが、謝恩日には、これまで牧師としてお働きくださった方々やそのお連れ合いに、感謝の気持ちを新たにして献金をささげるのです。

同時に、本日は教会の暦では1年の終わりの日曜日であります。来週からアドベント(待降節)が始まります。教会の暦はこの時から一回りいたします。その直前の日曜日(つまり今日)は、終末、世の終わりを覚えながら過ごす。そこで再臨のキリストを待ち望みながら、同時にクリスマスを待ち望むアドベントへ入っていくことになります。

(2)父の弟息子への愛

さて私たちは、9月17日の日曜日に、その日の聖書日課であったルカ福音書15章11節以下のいわゆる「放蕩息子のたとえ」を読みましたが、前半の弟息子の話で終わってしまいましたので、本日、改めてその続きを読むことにいたしました。

弟息子のほうは財産の生前分与を求めて家を出て行ったわけですが、結局うまくいかず、父の家へ帰って来ます。彼が帰って来た時、父親は「まだ遠く離れていたのに」「息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻」しました(20節)。そして「急いで、いちばん良い衣を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう」(22~23節)と言って、宴会を始めました。

ここには、息子を愛してやまない父親が描かれています。物語はここでハッピーエンドとなってもよさそうですが、この物語には第二部とでもいうべき後半があるのです。それは兄息子の物語です。

(3)兄の反発

帰って来た弟を迎えて父親が宴会を催していた時に、兄息子は一日の仕事を終え、疲れ果てて戻ってきました。家にたどり着く前に、にぎやかな音楽が聞こえてきました。そして家中の人々や近所の人々の踊る姿が目にとまりました。兄息子は僕の一人を呼び寄せて、「これはいったい何事か」と尋ねます。僕はこう答えました。「弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです」(27節)。

兄は怒って家へ入ろうとはしませんでした。父親はこの兄息子のために、再び外へ出て、やさしく言葉をかけます。「まあ入れ。お前も弟に声をかけてやれ」。しかし彼はふて腐れたように言いました。

「このとおり、私は何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、私が友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。」ルカ15:29

子山羊は子牛よりも下だと考えられていました。一日の仕事に疲れてへとへとになって帰って来たところに、その情景を見て、ショックを受けたのでしょう。

「弟をそんなに甘やかしてはいけません。悪いことをした者には、十分反省させなければいけない。宴会はまずありえないでしょう。二~三日納屋で反省させて、いなご豆でも食べさせて、それから僕と同じものを食べさせる。そしてきつい仕事をさせてみる。それに耐えられるかどうか。できれば私の監視のもとで。それで反省の色が見えたら、『二度とこんなこと、するなよ』と十分言い聞かせた上で、受け入れてやる。それが筋でしょう。」

兄はそう考えたのではないでしょうか。兄息子は、弟に対して怒ったのではありません。父親の態度に対して怒ったのです。

「帰ってきて受け入れるのはまあ仕方がない。親子だから。しかしうれしくても、それをぐっとこらえて厳しいところを見せるのが父親というものではないでしょうか。『いちばん良い衣』はないでしょう。私だって作業着で帰って来たのです。ざらざらの麻布か、いいところでコットン。(新品を買うにしても、せいぜいユニクロのヒートテック位?)指輪も余計です。履物はせいぜいサンダルくらいならゆるせますが。」

(4)忘れがちなこと

この兄の怒り、兄の態度は、私たちにも理解できるような気がします。それがこの世の掟です。しかし父親はこの世の掟を超えているのです。父親は掟にしばられることなく、したいと思うことをするのです。

ただしこの兄が忘れていたことがありました。それは、彼はずっと父親と共にいて、父親と生活を共にしていたということです。そこには、安全があり、食事がありました。仕事がありました。そのようにして安心があった。私たちは、人と自分を比べる時に、往々にして、自分のほうが恵まれていることは棚に上げて、自分が損をしていることのほうにだけ目を向けがちです。そして「不公平だ」と不平を言うのです。よくよく考えてみれば、自分のほうが恵まれていることもたくさんある。しかしそのことすら、「これは自分ががんばったせいだ」と思いこみます。

この兄の態度で印象的なのは、彼は父との関係を「仕える」という言葉で要約していることです。「私は何年もお父さんに仕えています」。彼は父を愛してはいなかったのかもしれませんし、父親に愛されているということに気づいていなかったのかもしれません。「一生懸命仕えてきたのに」と言うのです。そこにすでに彼の破れが見えているように思います。父の心を自分の心とすることができなかった。父の喜びは彼の喜びではなかったのです。その意味で、この兄息子もまた精神的には、父のもとを離れ去っていたと言えるかもしれません。

(5)カインとアベル

聖書にはそういう話がたくさん出てきますが、その最初にあるのが、創世記4章のカインとアベルの兄弟の物語です。これも構図がよく似ています。神様が兄息子カインではなく、弟息子アベルのささげものを顧みるのです。なぜかわからない。兄のカインは長男として、それがゆるせない。「カインは激しく怒って顔を伏せた」とあります。神様はこう語りかけます。

「どうして顔を伏せるのか。もしあなたが正しいことをしているなら、顔を上げられるはずではないか。」創世記4:6~7

しかし彼は沈黙したまま、弟アベルを殺してしまうのです。

この時、なぜ神様はアベルのささげものを顧みられたのかは、聖書に書いてありません。ひとつ考えられるのは、神様はこの世の価値観から自由に、そしてこの世の価値観とは逆に、強いものではなく、弱いものに目をかけられるということです。アベルという名前には「はかない」という意味がありました。カインのほうはいつも兄である自分が一番で当たりまえと思っていたでしょう。その順序が守られている時には何も感じないのです。しかしその順序が入れ替わると、おかしいと思い始める。神様が順序を変えられると、一気に気になり、不公平に感じ、ついに怒りだすのです。

(6)兄息子もまた愛されている

ルカ15章の兄息子に対する父の言葉、父の態度には深いものがあります。二つのことを語っていると思います。

ひとつは、兄息子もまた、この父親にとってかけがえのない息子だということです。この兄息子もまた愛されていたのです。だからこそ、この兄息子が宴会に入って来ようとしなかった時にも、「心の狭い奴だ」と言い放つようなことはしません。父はわざわざ外に出てなだめて、話を聞いてやるのです。

父親は兄息子にも、「子よ」と呼びかけます。そしてこう言うのです。「お前はいつも私と一緒にいる」。そのことに気づきなさい。

「私のものは全部お前のものだ。」ルカ15:31

これが決定的な言葉です。彼は「父が自分に対して何もしてくれない」と怒っていますが、この決定的な恵みの事実があるのです。「私のものはあなたのもの。」

この世ではしばしば逆です。「私のものは私のもの。あなたのものも私のもの」。そのように、全部自分のものにしたいと思うことが多いのではないでしょうか。そうした中、この父親は違っていました。「私のものは全部お前のものだ。」

同じように、聖書の神様は「あなたはいつも私と共にいる。私のものはあなたのもの」と、私たちに向かって言われていることに気づきたいと思うのです。

(7)共に喜ぶようにと

二つ目の大事なことは、父親の喜びを共にするようにと招かれていることです。それは他人との比較によって一喜一憂する世界から、そういうことを超えて喜びを共にする世界です。

先ほどの創世記のカインとアベルの物語に先だって、創世記2~3章にはアダムとエバの物語が記されています。二人は禁断の木の実を食べてしまい、神様から身を隠しました。その時に、神様は「どこにいるのか」(創世記3:9)と呼びかけられます。神様にとってアダムとエバがどこにいるのかわからないはずはありません。それにもかかわらず、どうしてそう呼びかけられるのかと言えば、きちんと私の前に出て来なさい、ということでしょう。二人のこと、アダムとエバのことが心配で仕方がないのです。

その神がカインとアベルの物語では、それに続く言葉を語られました。カインがアベルを殺した時に、神様はカインに向かって「お前の弟アベルは、どこにいるのか」(創世記4:9)と問われました。神様は私たち自身に向かって、「あなたはどこにいるのか」と問われると同時に、「あなたの弟はどこにいるのか」と問われます。私たちのことを気遣われる神様は、それと同時に、私たちの隣人、とりわけ弱い隣人、助けを必要としている隣人を気遣われるのです。そしてその気遣いにあなたも連なるように、と呼びかけておられる。そして「その人と関係をもって生きよ」と言われるのです。

この兄に対してもそうでありました。「さあ弟が帰って来たのだから、一緒に祝おうではないか」と呼びかけられています。父親は、「お前のあの弟は死んでいたのに生き返った」と言いました。

兄息子は、父親に向かって、弟を指して「あなたのあの息子」と言いました。それは冷ややかな皮肉っぽい言い方でした。自分との関係を遮断するような冷たい響きがありました。兄息子は「お父さん」とも言っていません。

それに対して、父親は「お前のあの弟」と言いました。一見、同じような言い方です。しかし全く違います。関係を遮断しているのではなく、自分と弟息子との関係は前提になっていますが、そこに兄息子をも招きいれようとしているのです。「さあ共に生きよう。お前も一緒に喜ぼう」と言われているのです。

(8)二種類の人々

さて、この譬えは誰に向かって語られたのかということに、改めて心を留めましょう。15章の最初を見ますと、こういう言葉があります。

「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを受け入れ、一緒に食事をしている』と文句を言った。」ルカ15:1~2

これが、ここまでの三つのたとえ(「見失った羊」のたとえ、「無くした銀貨」のたとえ、「いなくなった息子」のたとえ)が語られた背景です。だとすれば、「徴税人や罪人たち」というのは、弟息子と重なってきます。そして「ファリサイ派の人々や律法学者たち」というのは、兄息子と重なってくるのではないでしょうか。

自分のなすべきことをきちんと守っている、神様との関係をきちんと保っている、と信じている人たちです。それを果たしていない人が、同じような扱いをされると、不平を言い出すのです。イエス様が徴税人や罪人と一緒に食事をしているのを見て、「それでよいのか」と問いただそうとした人たちです。そうだとすれば、私は、このファリサイ派の人たち、律法学者たちも拒否されているのではないということが、逆にわかるような気がします。彼らも招かれているのです。

この兄息子も、父親に愛されていた。「弟のほうも私の子どもだけれども、兄のほうも私の大事な子どもだ、共に祝おう」と語られているのだとすれば(事実、そう語られているのですが)、徴税人や罪人たちを迎えて、ファリサイ派の人々や律法学者たちを排除するのではなくて、むしろ彼らも招かれているということが見えてくるのではないでしょうか。

この二種類の人々は、さまざまな人たちの象徴でもあると思います。古くから教会生活を守ってきた人たちと新しく教会に来た人たち。自分のことをきちんとやっている人たちとどうしようもないと思われる人たち(お荷物のように思われている人たち)。古くから教会にいる人たちや自分のことをきちんとやっている人たちは、そうでない人たちが自分と同じような扱いを受けていることまでは一緒に喜べるのですが、自分たちをちょっと飛び越えたり、逆転したりして、自分よりも上の扱いをされるようになると、不満に思う。一緒に喜べない。「順序が違うのではないですか。」

この話を聞いて、「自分に思い当たることがある」と思った人は健全です。「あの人のことだ。あの人に聞かせてやりたい」と思った人は、ちょっとあぶないですね。

聖書には、宴会、パーティーの話がたくさん出てきます。キリスト教は宴の宗教です。宴に招かれている。そしてそれを共に祝おうと、招かれているのです。

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