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2023年10月22日説教「解 放」松本敏之牧師

出エジプト記20章22~21章2節 マタイ福音書18章18~20節

(1)契約の書

出エジプト記を月に一度くらいのペースで読み進めていますが、前回で十戒を読み終えました。今日から「契約の書」と題された部分に入ります。20章22節から21章2節をお読みいただきましたが、ほぼ21章全体を扱いたいと思います。

「契約の書」とは、一種の法律集のようなものです。前の新共同訳聖書では、中に細かい小見出しが付いていました。20章22から終わりの26節までのところには、「(1)祭壇について」という小見出しがついていて、21章では(2)奴隷について、(3)死に価する罪、(4)身体の傷害、(5)財産の損傷、と続きます。ただし聖書協会共同訳では、それが無くなりました。そう厳密にはわけられないからかもしれません。

この「契約の書」という名前がどこから来ているのかと言えば、24章7節です。24章の最初には、「契約が結ばれる」という題が付けられていますが、24章6~7節には、こう記されています。

「モーセは血の半分を取って小鉢に入れ、血のもう半分は祭壇に打ちかけた。そして、その契約の書を取り、民に読み聞かせた。」24:6~7

その「契約の書」というのが、この20章22節から23章の終りまでの部分なのです。 この「契約の書」は十戒のすぐ後ろに置かれています。十戒は、「盗んではならない」とか言うように、断言的な命令でありました。この「契約の書」では、それが、実際の生活においていかに適用されるかが具体的に展開されているのです。

(2)ハンムラビ法典の影響と相違点

この「契約の書」は、一体いつ頃成立したのでしょうか。最終的に整えられたのは、ダビデ王、ソロモン王の後の分裂王国時代であろうと言われますが(紀元前8世紀頃)、その原型となったものは、士師の時代(つまりサウル、ダビデ、ソロモンという王が現れる以前)にできていたであろうと言われます(紀元前12世紀から11世紀頃)。

興味深いことに、この「契約の書」は、それよりも前の時代のバビロニアのハンムラビ法典との間に、さまざまな類似点があるのです。

ハンムラビ法典というのは、紀元前1792年から1750年にバビロニアを統治したハンムラビ王が晩年に発布した法典です。ハンムラビ法典の最も有名な言葉の一つに「目には目を、歯には歯を」という言葉があります。

ちなみにこの言葉は、「誰かに何かされた場合、必ず復讐しなければならない」という意味で引用されることが多いと思います。今起きているパレスチナとイスラエルの紛争にしてもそうでしょう。しかし本来は、むしろ逆に、私的な復讐(リンチ)を禁じ、制限するものであったそうです。人間の復讐心というのは、だんだんとエスカレートします。聖書の中でさえ、「カインのための復讐が7倍なら、レメクのためには77倍」という言葉があります(創世記4:24)。しかし「目には目を、歯には歯を」というのは、「目をやられたら、目だけ。歯をやられたら、歯だけ。それ以上は、やってはならない」というのが、その本来の精神でありました。

さて、本題に戻りますが、この「契約の書」の中にも、この「目には目を、歯には歯を」という言葉が出てきます。

「しかし、命に関わるときは、命には命を、目には目を、歯には歯を、手には手を、足には足を、やけどにはやけどを、生傷には生傷を、打ち傷には打ち傷をもって償わなければならない。」21:23~25

これなどは、明らかにハンムラビ法典を下敷きにしているものでしょう。時代の順序として、ハンムラビ法典が先ですので。彼らはどこで、このハンムラビ法典に触れたのでしょう。イスラエルの民は、エジプトで奴隷でありましたから、エジプトだということも考えられます。エジプトにも、このハンムラビ法典の影響を受けた法律がありました。イスラエルの民は、エジプトでそれに出会い、それが伝えられていったのかもしれません。

モーセによってイスラエルの民が出エジプトを行ったのが紀元前1290年頃(つまり紀元前13世紀初頭)と言われます。その後、彼らはモーセを通して十戒をいただき、契約の書をいただくということになるわけですが、そこでハンムラビ法典のなにがしかの知識があったのでしょう。しかし彼らは、それを新しく神様からいただく「契約の書」として受けとめ直した。これが重要なことです。

このハンムラビ法典とモーセの「契約の書」を比べてみると、似ていながら、決定的に違っているところがあります。モーセの「契約の書」は、あくまで神様からいただいたものであり、そこには神様の心が表れているということです。そして一貫して、「契約の書」の方が人道的です。人道的といっても、ただ単に人間的レベルで、ヒューマニスティックということではありません。そこには明確に、神が人間を契約の相手として大事に扱われる、ということが映し出されているのです。人間同士の関係を問うものでありながら、そこには神様の意志、神様ならどうされるかということが示されている。これはそういう意味で、単なる法律集を超えたものです。

活水女学院に長く勤められた大野恵正先生は、「契約の書の特徴は、純世俗的な法と宗教的な法の結合にあり、社会正義の問題を宗教的問題と受け止める神学的精神が息づいているところにある」と述べておられます(『新共同訳 旧約聖書注解Ⅰ』)。その意味で、最初に「(1)祭壇について」ということから始まるのは、その性格をよく表していると思います。

(3)奴隷の解放

さて先に21章の方を先に見てみましょう。短い序文が、まず出てきます。

「あなたが彼らの前に置くべき法は次のとおりである」。21:1

「あなた」とは、モーセです。神様がモーセに対して、「こういう風に語れ」と、以下のことを述べられるのです。

その序文に続いて、最初にあるのが「(2)奴隷について」の規定です(21:1~11)。(新共同訳の小見出しに沿ってお話します。)これは、古代中近東の法律書の中では異例のことだそうです。ちなみにハンムラビ法典では、最初に公的秩序(組織的な司法制度、所有財産の保護、王や国家に対する賦役義務など)があり、次に、個々の市民の権利や利害に関する事例を取り扱って、奴隷に関する法は最後に置かれています。

しかしこのモーセの「契約の書」では、奴隷に関する法が、最初に置かれているのです。しかもその内容は、解放について語っているのです。

「あなたがヘブライ人の奴隷を買った場合、彼は六年間仕えれば、七(しち)年目には無償で自由の身として去ることができる。」21:2

ここに「ヘブライ人」とありますので、「同胞を奴隷とする場合だけか」と受け取られるかも知れませんが、そうではありません。「ヘブライ人」という呼び名は、「束縛状態にある人」一般を指す言葉でもありました(創世記39:14、申命記15:12、エレミヤ34:9、サムエル上14:21参照)。ここでは生まれながらの奴隷、簡単に奴隷状態に陥ってしまう貧しい社会層の人々、何らかの理由で、普通の人が享受できる法的保護を受けられないアウトサイダーを指す言葉であったようです。

もちろん、彼らが自由になるためには、さまざまな条件を満たしていなければなりません。それがこの後に記されていくことになるのですが、そうした制約がある中で、奴隷状態に置かれている人間の自由について、最初に述べているというのは、聖書の神様の関心事の優先順位を示しているのではないでしょうか。

(4)殺人と過失致死

次にあるのが、「(3)死に価する罪」という項目です(21:12~17)。

「人を打って死なせた者は必ず死ななければならない。ただし、その者に殺意がなく、偶然のことであるなら、私はあなたにその者の逃れの場所を定める。」21:12

「契約の書」は、断言的命令である十戒の具体的な適用だと申し上げましたが、これも「殺してはならない」という十戒の戒めが、いかに適用されるべきかを述べたものです。ここで「その者に殺意がなく、偶然のことであるなら」と訳された言葉は、直訳では「神がその者の手に起こしたなら」となります(聖書協会共同訳の注参照)。これは、現代の言葉で言うと、「過失致死」に近いものでしょう。「過失」がない場合も含まれるかも知れません。本人に殺意はなかったのです。その場合は、むしろ、殺してしまった人は、復讐のために殺されてはならない。リンチ(私的復讐)から守られなければならない。神様がそのために、ある場所を備えられ、そこに逃れることができる、ということです。それが一体どこであるのか。この後を読んでみますと、それが祭壇であろうことが間接的にわかります。

「しかし、ある人が故意に隣人を襲い、計画的に殺した場合、あなたは私の祭壇から彼を連れ出して殺さなければならない。」21:14

つまり祭壇がひとつの「逃れの場所」(サンクチュアリー、聖域)であったことが考えられる。殺されそうになった時に、そこで保護されたのです。神様はそういう場所を用意しておられた。このことは後の時代になってきますと、「逃れの町」というひとつの町に発展していきます(申命記19章)。

(5)神の意志

「その者に殺意がなく、偶然のことであるなら(神がその手に起こしたのなら)」というのは、交通事故のようなことも含まれるでしょう。最近では、医療ミス、医療事故のようなこともあるでしょう。私たちは今日でも、そういうことを、さまざまな形で経験します。確かに、その責任は問われなければなりませんが、人間が勝手に殺したのでなければ、そこには神の意志が何らかの形で働いている。神様が、その人の手を通して、命を取られたのだという認識、信仰が、この短い言葉の中に現れているのではないでしょうか。当事者の責任を問いつつも、そこに神の意志を見ようとする。そこには被害者にとっても、加害者にとっても、ある種の慰めがあるのではないでしょうか。

その後、「(4)身体の傷害」と続きます(21:18~32)。誰かに傷害を与えた場合のことです。重傷、軽傷さまざまです。また家畜による傷害もあるでしょう。いろんな事例を細かく検討しています。これを読んでいくと、なかなかおもしろいものです。

家畜に突き癖があることを家畜の主人が知っていた場合、つまりその家畜が傷害を与える可能性が高いことを所有者が知っていた場合はどうなるかなど、さまざまです。「 (5)の財産の損傷」(21:33~36)も同様です。

(6)土の祭壇

さて最初の「(1)祭壇について」に戻りましょう。

「イスラエルの人々にこう言いなさい。『あなたがたは、天から私があなたがたと語るのを見ていた。あなたがたは私と並べて何も造ってはならない。銀の神々も金の神々も、自分のために造ってはならない。』」20:23

これも、十戒の「あなたは自分のために彫像を造ってはならない」(20:4)を展開したものと言えるでしょう。

イスラエルの民は、実はこの後、モーセがいなくなっている間に、モーセの兄弟であるアロンをせき立てて「金の小牛」の像を造ることになります(出エジプト記32章)。みんなから金(きん)を集めるのです。この世的にも、値打ちのある神様が欲しい。これはある種の誘惑です。そちらの方が、いかにも神様が宿っているように見える。みすぼらしいものよりも、神々しいものの方が優れているように見える。この時に、モーセはそうした人間の誘惑というものをよく知っていたのでしょう。

それではどこでどのように礼拝すればよいのか。こう続きます。

「私のために土の祭壇を造り、その上で焼き尽くすいけにえと会食のいけにえとして羊と牛を屠りなさい。」20:24

土の祭壇。「ええ、土ですか。」そういう応答がかえってきそうです。「土の祭壇なんて、魅力がありません。値打ちがありません。せめて石で造らせてください。土なら大雨になると、泥になって崩れてしまいます。石の方がまだましです。」そういう応答が出てきそうですが、モーセはそれをすでに予期しているのです。「石の祭壇を私のために造るなら、切り石で築いてはならない。その上でのみを振るうなら、それを汚すことになるからである。」(20:25)

「石を使いたいなら、まあ仕方がない。許してやろう。ただし『切り石』を使ってはならない。」切り石というのは、のみを使って、きれいに整えたものです。日本の墓石などは切り石ですね。その方が、値打ちがあるように見えるでしょう。しかし「のみを当てると、石が汚される」というのです。神様が造られたとおりのもの、人間の手が加わっていないものを使って祭壇を造る。そこには、偶像に通じる「よりよいもの、より美しいものこそ、ありがたみがある」という誘惑があるのです。

(7)御名により集まる群れ

それでは、神様は一体どこにおられるのか。20章24節後半に、こういう風に記されています。

「私は、私の名を思い出させるすべての場所においてあなたに臨み、あなたを祝福しよう。」20:24b

何と力強い言葉でしょう。形によらない。金銭的価値によらない。芸術的価値にもよらない。人間の持つものさしではないのです。「私の名を思い出させるすべての場所において」。新共同訳聖書では、「私の名が唱えられるすべての場所において」となっていました。「ヤハウェ」の名が思い起こさせるすべての場所。ヤハウェの名が唱えられるすべての場所。そこに神様がおられるというのです。

もちろん「御名を唱える」というのは、表面的、形式的なことではありません。イエス・キリストは、「私に向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。天におられる私の父の御心を行う者が入るのである」(マタイ7:21)と戒められました。真実な心で、神様の御名が唱えられるところ。そここそが、礼拝の場所であるというのです。ヤハウェの神様の高らかな宣言ではないでしょうか。また聖書協会共同訳で、「私の名を思い出させるすべての場所」と訳し直されていることにも意味があると思います。いくら「神様の名前が唱えられていようとも、そこに真実が伴っていなければ、神の名を思い出させることにはならないからです。

さてイエス・キリストは、こう言われました。

「よく言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を合わせるなら、天におられる私の父はそれをかなえてくださる。二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである。」マタイ18:19~20

イエス・キリストの名前が、二人、三人、あるいはそれ以上の人々によって真実に唱えられるところ、そこに教会があるのです。これは、プロテスタント教会にとっての「最少の教会の定義」と言えるかもしれません。「イエス・キリストの御名が二人以上の人によって、真実に唱えられるところ、そこが教会だ」ということです。(カトリックでは、恐らく違うでしょう。)

そして私たちは、イエス・キリストの名が唱えられるところへ招かれて、今日もこのように礼拝をしております。神様の御心が一体どこにあるのか。この契約の書に記されたような、神様の御心を私たち自身の心として受けとめ、それを実現していく群れでありたいと思います。

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