2023年1月8日奨励「新しいいのちへ」小園庸子
マタイによる福音書3章15~22節
本日は松本敏之先生が、大分教会の伝道礼拝、大分地区 信徒修養会のご奉仕でご不在の為、私が奨励を担当することとなりました。立派なメッセージなどはできませんが、本日の日本基督教団の聖書日課である、ルカによる福音書3:15〜22の箇所を、松本先生から頂いた以前の説教プリントを基に、私の証などを取り混ぜながら少しお話しできればと思います。
(1)人間の側の準備
イスラエルの長い歴史の中での、強いメシア待望論を持つ民に対して、洗礼者ヨハネは「私はあなたがたに水で洗礼を授けている」(16節)と語ります。ヨハネは水で洗礼を授けました。水は洗うもの、清めるものです。彼はそれを悔い改めのしるしとして、言い換えれば、救い主メシアを迎えるための準備の業として行ないました。少し前のルカによる福音書3章3節では「ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。」とあります。キリスト以前に人間の悔い改めと人間による洗い清めのしるしとしての水の洗礼が既にあったという事ではないでしょうか。
いぜん信仰の先輩から「悔い改めは、あんな事をやってしまった、こんな事をしなければ良かったと後悔することではない。180度向きを変えて改めることであり、イエス様のご臨在の中でこそそれはできる」と教えられたことがあります。要するに「後悔してクヨクヨしてばかりではなく、痛みが伴うとしても、180度向きを変えようと決心してそれを行うこと。そして祈ることでそれができるのだ。」と教えて頂いたと思っています。また洗礼を受ける事によって、みなが証人となり、悔い改めを後悔へと引き戻すことを阻止してくれる。とも教えられました。
松本先生は
『私たちの中には、心の中で信じて、心の中で悔い改めて、イエス・キリストの弟子として生きるようになればそれでよいではないか。別に信仰告白したり、洗礼を受けたりする必要はないではないかと考える人もあるかもしれません。しかし自分ではっきりとした形で信仰告白をすることには意義があります。使徒パウロは、ローマの信徒への手紙10章9節、10節で「口でイエスは主であると告白し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で告白して救われるのです。」とこう述べています。もちろん口で言い表すだけでもだめです。この両方がセットになっているのです。』
と語られています。
(2)聖霊と火による洗礼
洗礼者ヨハネの洗礼は、人々に備えをさせるものであったのに対し、主イエスの洗礼は、神の臨在のもとで行われるものとなります。21~22節では「さて民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のような姿でイエスの上に降ってきた。すると『あなたは私の愛する子、私の心に適う者』と言う声が、天から聞こえた」とあります。突然、洗礼者ヨハネが行っていた人間の行為である洗礼が、神の行為へと移り変わったように私は思うのです。神の霊は主イエスにとどまっています。イエスの洗礼はヨハネによるものというより、聖霊によるものではないでしょうか。
ヨハネは「その方(イエス様)は、聖霊と火であなたがたに洗礼(バプテスマ)をお授けになる」と言っています。私たちはキリストの名によって洗礼を受けます。キリスト者の洗礼はただひとつだけです。よく水のバプテスマと聖霊のバプテスマを分けて考える方があります。悔い改めの水のバプテスマの後に、異言や預言を与えられ、それが聖霊のバプテスマを受けたことになると言う主張です。「あなたは聖霊のバプテスマを受けましたか?」と聞かれたこともあります。私はキリストの名によって受ける洗礼に、何か足りない物や、付け足さなければいけない何かはないはずだと思っています。
(3)私の洗礼
ここで少し私の洗礼の事を証したいと思います。私は1995年12月24日鹿児島加治屋町教会のクリスマス礼拝で、今野善朗牧師によって洗礼を授けられました。しかし教会と私の出会いは幼稚園の頃です。母の希望で私たち姉弟は敬愛幼稚園へ入園しました。山口眞弓先生がまだ原眞弓先生だった頃で、ミニスカートの似合う園児がみな憧れる20歳そこそこの先生だった頃です(今でも私の憧れの先生です)。私の双子の弟などは「眞弓先生と絶対結婚する」と言っていました。眞弓先生が話してくださった聖書のお話しや、紙芝居などを覚えています。
私は日曜学校と呼ばれていた、城南教会での礼拝へ毎週通っていました。両親も私たちが教会へ行っている間、喫茶店でゆっくりコーヒが飲めると言っていました。その毎週の礼拝の中で特に「ちちみこみたまの」の賛美歌を覚えています。今は讃美歌21の27番ですが少し歌詞がかわっていますね。今日の最後の賛美歌に入れさせて頂きました。賛美歌は白い布に筆書きで歌詞が書いてあり、それを見ながら歌うスタイルだったと記憶しています。「ちちみこみたまの、おおみかみに」全く意味は分かりませんでした。そしてとんがり屋根の屋根裏部屋の分級のお部屋と、礼拝堂のキシキシきしむ木の床や、優しいおじいちゃん先生の澤田牧師を覚えています。私が通っていた城南教会は、私が10歳のときにこの加治屋町へ移転し、別々だった幼稚園と教会が現在のように一緒になりました。
話が少しそれましたが、そのように敬愛幼稚園というか、山口(旧姓 原)眞弓先生に対しての絶大な信頼があった私は、1995年の春に3歳の長男を、3年後に長女を敬愛幼稚園へ入園させました。こどもの入園をきっかけに、また礼拝へ出席するようになったのです。私が高校生の時にも母に連れられて、何度か礼拝へ出席したことがありますが、長く難しい説教に眠たいのを我慢していた事しか覚えていません。全く洗礼を受けるとか教会員になるなどとは思ってもいませんでした。
息子が入園した当時は、9時からの第1礼拝・10時30分の第2礼拝・19時からの第3礼拝とあり、9時からの第1礼拝は、園児は園のお部屋で、小学生以上の子どもはロビー(ホールの間違い)で、大人は礼拝堂でありました。最初は「私はクリスチャンではないから」と手を組んでお祈りする事も拒否していましたし、アーメンも言いませんでした。しかし子どもと離れてゆっくりと説教を聞くのは久しぶりでしたし、第1礼拝は第2礼拝より時間が短いため、説教も少し短めで私たち保護者には分かりやすく、聞きやすかったのかもしれません。何より今野先生の説教は、聖書を知らない人にも良くわかり、心にふれるお話しでした。また教会こども会の皆勤賞バッチを狙う子どもに後押しされるように、毎週礼拝に通う事となりました。
何をきっかけに洗礼を決心したかと聞かれると、とても困ってしまうのですが、毎週教会へ通ううちに「いつかは洗礼を受けるかも・・」と漠然と考えるようになっていました。そしてクリスマス前に今野先生が私に「小園さん洗礼受けない?」とまるで「喫茶店いかない?」と誘うような軽いお誘いに「はいそうですね。受けようかな」とお返事していました。勿論そう感じたのは私で、今野先生はきっと真面目に聞かれたのだと思います。言われる時まで洗礼の決心なんてありませんでした。でもそうするのが自然なことのように感じたのです。私の返事に一番驚いたのは今野先生で「本当に!?」と言った後、どこかに飛んで行かれました。幼稚園の保護者が洗礼を受けるのは何十年ぶりかの事だったらしく、その事も驚かれたひとつだったのかもしれません。
その当時はまだ1954年版の「讃美歌」のころで541番を「ちちみこみたまの、おおみかみに、ときわにたえぜず、みさかえあれ」と歌いながら「私が帰るべきところはここだ」と思ったのを覚えています。聖霊が働き神様が導いてくださったのです。単純な私は考える前に「イエス」と応答してしまいました。
(4)洗礼は神の業
私の洗礼のきっかけは、人の目から見るとあやふやで、いい加減に見えるかもしれません。神が最初に創造された似姿とは程遠い私ですが、神は今も働いておられ、私への計画を完成するために働きかけて下さっていると信じています。私たちが最初に母の体から生まれた時がそうであったように、洗礼において「新しいいのち」へと生まれ変わる時に、何かを努力したり、行ったりできませんし、その必要もありません。ただ神の成されるままに、新しく生まれるのです。それは神の業だと思います。私たちは神様のご計画の中を生きると自覚して、神様の呼び掛けに「イエス」と応答して歩む。そして「神の子である証印」を押されるのです。
松本先生は
『使徒パウロは、ガラテヤの信徒への手紙の終わり、6章17節で「わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです」(新共同訳聖書)と述べました。イエスの名による洗礼を受けるということは、いわば「イエスの焼き印を身に受ける」ようなものだと思います。洗礼を受けてクリスチャンとなるということは、イエス・キリストのものとされるということでもあるのです。』
と語られています。聖書協会共同訳では「身に受けて」が「身に帯びて」となっていますが、意味は同じです。洗礼を受けて証印を押され、神の子の自覚ができたとしても、苦しみや逆境の中を通ります。しかし生活はかわらないけれど、人生は変わります。おなじ苦難でも「イエスさまは何を示されているのか?私のこの選択をイエス様は喜ばれるのか?」という視点を与えられます。ただの歴史の教科書のようであった聖書が、生きた御言葉として私たちの内で働き導いてくれます。
また信仰の兄弟姉妹を与えられます。悩めば共に祈り、喜びを共に分かち合います。祈って下さる存在はとても大事です。21節で「イエス様も洗礼を受けて祈っておられる」と書かれています。信仰は祈りに始まり、祈りで終わるのだと思います。教会の中ではこの世のどんな素晴らしい知恵より、様々な困難を乗り越える力になることが多くあります。祈りが全てを解決するとは、私は言えませんが、祈らず神様の御心に触れることはできない。助け主の聖霊が働いても気が付かないのではないかと感じています。
そう言えば洗礼を受けたころ「祈りの言葉が出てこない。どう祈れば良いか分からない」と悩んでいた私に、徳田穣さんのお父様である徳田基さんが「よく詩編を読みなさい。詩編を読むと祈りの言葉が出てくるようになるよ。」と教えてくださった事を懐かしく思い出します。牧師の説教が御言葉を解き明かし、それによって養われ、信仰の先輩方が信仰生活を教えてくださいます。牧師の説教と、信仰の先輩方の祈りと助言が教会生活では大切です。何より今の私にとって教会と礼拝は無くてはならないもの、そして教会の兄弟姉妹は何にも代えられない存在となっています。