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2023年4月16日説教「生 命」松本敏之牧師

出エジプト記20章13節
マタイによる福音書5章21~26節

(1)なぜ人を殺してはならないか

出エジプト記の中の十戒を続けて読んでいます。今日は、六つ目の「殺してはならない」という戒めからみ言葉を聞いてまいりましょう。

十年以上前になりますが、17歳の少年による殺人事件が重なり、注目されたことがありました。子どもたちからは「なぜ人を殺してはならないのですか」という質問が出されましたが、それに対して明確な答えはあまりありませんでした。「こんな当たり前のことを聞かれるようになったのは嘆かわしいことだ」というのは何の答えにもなっていません。「誰でも愛される人を殺されると、悲しいだろう。」「人を殺すと、自分も壊れる。」「それが社会のルールだ。人を殺すことを容認すると、社会が成り立たない。」それぞれになるほどと思うこともありますが、何か説得力に欠けているように思いました。

私は、人間的地平で見ている限り、決定的な答えはないのではないかと思います。ですから一度その社会のルール、決め事となっている前提が壊れると、「なぜ人を殺してはならないか」も途端にあやしくなってしまうのです。私は、そこでこそ「殺してはならない」ということを、神の戒めとして聞くことが重要になってくるのではないかと思います。

「人の血を流す者は
人によって自分の血を流される。
神は人を神にかたちに造られたからである。」創世記9:6

創世記1章27節には「神は人を自分のかたちに創造された」とあります。これは言い換えれば、すべての人間は何らかの神のイメージを宿しているということです。誰かを殺すということは、その人に宿った神のイメージを汚すことであり、人間の手で、そのイメージを抹殺することだと思います。具体的な諸問題については、後で述べますが、根本はそういうことです。私たちは、誰かから、「なぜ人を殺してはならないのですか」と問われたら、信仰者として「それが神様の命令だから」「その人を創った神の意志を否定することだから」「その人も神様に愛されている人だから」という答えをすることができるのではないでしょうか。命は神の領域であること、私たち人間には、それを取り去ることは許されていないのだということ。これが、聖書が私たちに告げる根本的なことであり、私たちは、これを神の戒めとして聞かなければならないのです。

(2)明快なようで、難しい戒め

さて「殺してはならない」という戒めは、短く、明快な言葉です。多くの人は、「自分がどんなに悪い人間であったとしても、人殺しをするほど悪い人間ではない。(だからこの戒めは大丈夫)」と思われるのではないでしょうか。しかしこの戒めは、実はそれほど簡単なものではありません。

「殺してはならない」と言いながら、旧約聖書には、実に多くの殺戮が記されています。まず、この矛盾をどう考えればよいのかということがあります。「殺してはならない」という戒めに使われている「殺す」という言葉(ラーツァハ)は、幾つかの「殺す」というヘブル語の中で、あまり使われない言葉、ある特定の殺害行為に限って用いられた言葉であったそうです。それは「個人的な恨みによる恣意的な殺人、あるいは共同体が認めない殺人」、つまり共同体の生活を危険に陥れる「反共同体的な殺害」を禁止しているのだということです。だから「人を打って死なせた者は必ず死ななければならない」(出エジプト21:12)とあるように、共同体を守るための「死刑」や「戦争」は、この「殺してはならない」ということにあてはまらないと考えたわけです。私は、それは当時の事柄として受けとめながら、今も生きた神の言葉としてこの戒めを聞く時には、そう簡単に割り切ることはできませんし、割り切ってはいけないと思います。

(3)隠れた殺人

イエス・キリストは、この戒めを根源にまでさかのぼって考えられました。

「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、私は言っておく。きょうだいに腹を立てる者は誰でも裁きを受ける。きょうだいに『馬鹿』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、ゲヘナ(地獄)の火に投げ込まれる。」マタイ5:21~22

実際に殺さなくても、その根源に何があるか。根源にあるものを取り除かない限り、この戒めを守ったことにはならないということです。ヨハネの手紙一にも、「きょうだいを憎む者は皆、人殺しです」という言葉があります(ヨハネの手紙一3:15)。

『ハイデルベルク信仰問答』は問105から107のところで「殺してはならない」という第六戒について解説をしています。

「問106 しかし、この戒めは、殺すことについてだけ、語っているのではありませんか。
 答  神が、殺人の禁止を通して、わたしたちに教えようとしておられるのは、御自身が、ねたみ、憎しみ、怒り、復讐心のような殺人の根を憎んでおられること。またすべてそのようなことは、この方の前では一種の隠れた殺人である、ということです。」

ねたみ、憎しみ、怒り、復讐心。この一つ一つは私たちにも思い当たるものがあるのではないでしょうか。ふと、「あの人さえいなければ、こんなにしんどい思いをしなくて済むのに」と思うことはないでしょうか。それは「一種の隠れた殺人である」と言うのです。

(4)豊かさの追求による「殺人」

私は、さらにもう一つの「隠れた殺人」というものを考えなければならない、と思います。それは、社会構造的殺人、そして無関心、利己心という殺人です。私たちは今日の世界が大きなネットワークによってつながっており、自分たちの生活が、遠い国の人々の生活と密接に関連しているということを知らなければなりません。私たちの豊かな生活は、往々にしてある人たちの犠牲の上に成り立っています。そこで貧しさのゆえに死ぬ人があれば、豊かな世界の人たちは「隠れた殺人」を犯していると言えるのではないでしょうか。

例えばアメリカや日本が豊かな生活を享受するために石油を確保することと中東の戦争は無関係ではありません。利権争いに巻き込まれ、そのような戦争の犠牲になっている多くの人は、現地に住む、貧しい人や弱い人なのです。

(5)具体的な諸問題

さてこの「殺してはならない」という戒めを考えるにあたって、5つほどの具体的な問題に直面させられます。

第一は自死(自殺)です。他人の命だけではなく、自分の命を絶つことも、神様の前では罪です。私たちは、自分の命の主人ではありません。命の主人は神です。ただそこに追い詰められたどうしようもない状況というものがあるでしょうし、また病気のために自死するということもあるでしょう。罪は罪ですが、それが罪である限り、イエス・キリストによって担われないような罪もないと、私は思います。ですから生きている人に向かっては、「私たちはどんなことがあっても死んではならないのだ」ということを告げると同時に、もしも誰かが自分の死を選んでしまったような場合には、その人を裁くようなことはせずに、恵みの神様のみ手に委ねていくような態度が求められるのでしょう。

第二は安楽死の問題です。誰かがとても苦しんでいて、しかも回復の望みがない場合に、その人の死を早めてあげることが許されるかということです。基本的には、命を故意に縮めることは人間には許されていないと思いますが、私が何か結論めいたことを述べることはできませんし、控えるべきでしょう。また自力で生きられないような状態で生命維持装置をはずすこと、いわゆる尊厳死は、安楽死とは区別しなければならないでしょう。

第三は妊娠中絶の問題。子どもが母親の胎内に宿ったら、それはすでに一つの命でしょう。それを自由に殺してもよいというのは、人間の傲慢であると思います。しかしこのことも同時に、ただ律法的に母親に「中絶してはいけない」と言うのではなく、妊娠中絶を考えざるをえないような状況、母親を追い込んでいく社会構造の問題を、より深く自分たちの社会の責任として考えていかなければならないでしょう。

第四は死刑の問題。旧約聖書にも死刑は出てきますが、私たちは慎重に考えなければなりません。私は、それは人間の越権行為だと思います。冤罪で死刑判決を受けることもあります。イエス・キリストの場合もそうであったと言えるかもしれません。死刑が犯罪の抑止になっていないということからしても、死刑は廃止されなければならないと思います。

(6)戦争の問題

第五は戦争です。戦争の問題は、ロシアのウクライナ侵攻が始まって以降、1年余りになりますが、事態が好転する糸口は見いだせず、かえって第三次世界大戦の危機すら感じるようになってきています。私たちの教会でも、今年度は「平和を祈る」という年間主題を掲げました。

私の親しい友人で木村公一牧師という方がいます。鹿児島加治屋町教会にも、私が赴任する前の年、無牧であった年(2014年度)に、月に一度、礼拝説教に来てくださいました。その木村先生が、2004年9月に、西南支区社会担当の平和講演会で、木村公一牧師が「パクス・アメリカーナとキリストの平和」という講演をし、マクソーリーという人(米国のカトリックの倫理学者で平和活動家)の「アウグスティヌスとトマス・アキナスの戦争と平和に関する学説」をご紹介くださいました。そこでは、「いかなる条件のもとで行われるとすれば、その戦争は正しいのか」という議論がなされているとのことです。誤解のないように言えば、「聖戦」(Holy War)ではなく、「正戦」(Just War)です。マクソーリーによれば、アウグスティヌスは「正戦」に五つの条件をあげているそうです。

第一番目は、宣戦布告という原則です。宣戦布告をしないで開始した戦争、たとえば遊撃戦とか、奇襲とかはよくない。公権による宣戦布告が必要だということです。

第二番目は、戦争は最後の手段であるという原則です。まださまざまな平和的手段が取れるならば、その努力を先にすべきであって戦争に訴えるべきではない。

第三番目には、宣戦布告する側に求められる正しい意図の原則です。戦争突入は正義の回復のためであって、領土の拡張や経済権益の拡大のためであってはならない。

第四番目は、無辜の民衆の殺傷禁止の原則です。民間人を巻き込んではならないし、攻撃してもいけない。つまり、軍と民を明確に区別して、軍だけを戦闘の対象とする、ということです。

第五番目は、釣り合いの原則です。これは、戦争によって発生する被害と、戦争によって回復される善とを天秤にかけて、後者のほうが大きければ、その戦争は「正戦」と言えるということです。

いかがしょうか。昔は、その条件を満たす戦争があり得たかもしれません。しかし今日はたして、「正戦」は可能なのでしょうか。木村先生は、現代の戦争は、そのどの条件も満たし得ないと語られました。

第一の宣戦布告に関して言えば、「真珠湾攻撃は宣戦布告のない戦争だ」と、しばしば引用されます。アメリカのベトナム戦争も宣戦布告はありませんでした。今日では、「ボタンを押したら24分間で大陸間弾道弾が届いてしまう」というのですから、国会を召集して「宣戦布告を承認してください」と決議をとる暇はありません。核大陸間弾道弾や巡航ミサイルは、この宣戦布告の原則を無効にしてしまったのです。

二番目の「最後の手段の原則」と三番目の「正しい意図の原則」は、非常に主観的です。戦争を仕掛ける側にとっては、それはいつも最後の手段であると思っているわけですし、そこにはいつも正しい意図があると思っているわけですから、もともと非常にあやしいものです。

四番目の非戦闘員への攻撃禁止については、今日、民間人を巻き込まないということは、もはやあり得ません。戦争はいつも弱い側の国土が戦場になりますが、その国の民間人を必然的に巻き込んでしまいます。広島と長崎へ投下された原子爆弾も、国際法を無視した一般市民に対する大量殺戮でした。

五番目の「釣り合いの原則」はどうでしょうか。もともと被害を数値化するなどというのはできないことですが、今日の戦争では、起きた後のことを考えると、どんなに回復されるものがよかったとしても、もたらされる被害は計り知れないほど大きいものです。

私たちには、もはやどのような戦争ならあり得るか、と言っている余裕はありません。もはやいかなる戦争もできない時代に突入しているのだ、という現実を認識しなければならないと思います。

(7)地球に宿るすべての命

「殺してはならない」という戒めは、そのようなさまざまな問題に関係しています。それらに対して、単純な結論を出すのは非常に難しいものです。しかしそうした中にあっても、私たちは一つ一つ具体的に対処していかなければなりませんし、あれかこれかの判断が問われることもしばしばあります。そこでいつも根源的に立ち返らなければならないのは、「命は神の領域だ」ということであると思います。そこからすれば、さらに動物たちの命、この地球に宿るすべての命についても、神への畏れをもって向き合わなければならないことになるでしょう。

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