2023年1月29日説教「御 名」松本敏之牧師
出エジプト記20章7節
マタイによる福音書7章21~23節
(1)名は体を表す
今日は、十戒の中のいわゆる第三戒から御言葉を聞いてまいりましょう。聖書協会共同訳ではこういう言葉です。
「あなたは、あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。主はその名をみだりに唱える者を罰せずにはおかない。」出エジプト20:7
名前というのは人格と深く結びついています。「名は体を表す」と言います。「誰かの名を尊ぶ」ということは、その名前を持つ人を尊ぶ、ということであり、「名を軽んじる」ということはその人を軽んじるということです。誰かの名前が汚されるということは、その人の人格が傷つけられるということです。また収容所などで、名前ではなく、識別番号で呼ばれるということは、その人格が無視され、否定されるということに他なりません。
私たちに名前をつけてくれたのは、多くの場合、私たちの両親でありましょう。あるいは祖父母であるかも知れません。しかしもっと深いところで、そのような人たちを通して名前を与えられたのは神様だと言ってもよいでしょう。
神様は私たちを製品番号や識別番号ではなく、一人ひとりの名前で呼んでくださる。私たちと人格的な交わりを持とうとされる。私たち一人ひとりは、神様の「作品」だ、大事な、かけがえのない存在だということを、聖書は私たちに告げています。
(2)「みだりに」とは
では「主の名をみだりに唱えてはならない」の「みだりに」とは、どういう意味でしょうか。私の手元にある「広辞苑」(昭和50年)では、「みだり」というのは、①筋道の通らないこと。②分を超えること。③むやみ、でたらめ。」と説明されています。この日本語の辞書からでもわかるように、単純に「主の名を口にしてはならない」ということではないのです。むやみにではなく、でたらめにではなく、筋道を通して主の名を唱えること。分をわきまえて主の名を唱えることが、むしろ重要のだと思います。
「みだりに」と訳された言葉の元のヘブライ語(ラッシャーウ)は、「空しいことのために」という意味があります。その元になっている言葉(シャーウ)には、邪悪、虚偽、空虚などの意味があります。「偽って」また「呪って」という意味も持っている。神の名を魔術で誰かを呪うために口にしてはならない、ということが含まれていたようです。
(3)エホバか、ヤハウェか
それでは聖書の神様は、どういう名前なのでしょうか。昔の文語訳聖書では、「エホバ」という名前が記されていましたが、それ以降の聖書では、口語訳でも、新共同訳でも、聖書協会共同訳でも、名前ではなく、「主」という一般名詞に置き換えられています。どうしてかと思っておられる方もあるかも知れません。あるいは最近では、「エホバ」よりも「ヤハウェ」(あるいは「ヤーウェ」)と言うのですが、どうしてそういうことが起きるのか、神様の名前が変わったのかと、思われる方もあるかもしれません。実は、神様の名前が「エホバ」と誤解されていたのですが、そのことにはちょっとややこしい事情があるのです。ややこしいですが、興味深いことですので、できるだけ簡単に説明しておきましょう。
旧約聖書(のほとんどの部分)はヘブライ語で書かれていますが、ヘブライ語というのは不思議な言語で、アルファベット22文字が、すべて子音なのです。母音の文字がありません。子音しかないとアイウエオが表記できないではないかと思う人もあるでしょうが、最初の「アレフ」というのはただ口を開けるだけという子音です、ゼロみたいなものです。それに母音をくっつけると、アイウエオになる。昔のイスラエルの人は、この子音だけの文字で、その文脈でふさわしい母音をつけて文章を読むことができました。しかし後の人は、それだけでは読めないということで、AD7世紀頃の聖書学者が母音符号というのを作って、それをアルファベットの下にくっつけました。それで誰でも読めるようにしたわけです。
ところが神様の名前は、ヤハウェという名前なのですが、ローマ字で言うと「YHWH」にあたる文字が、これにあてられています。「神聖なる四文字」と言われます。しかし「ヤハウェの名をみだりに唱えてはならない。」というのがどこかで働いて、この「YHWH」という名前が出てくるたびに、ヤハウェという名前で呼ぶことを避けて、「主」という一般名詞で置き換えたのです。「ヤハウェ」と言わないで、全部「アドナイ」(主)と言い換えた。たとえば、詩編23編は「ヤハウェは私の羊飼い」と書いてあるのに、「主は私の羊飼い」(「アドナイは私の羊飼い」)と読んだのです。
ヘブライ語で「主」というのは、「アドナイ」という言葉です。創世記22章14節、アブラハムが息子イサクを献げようとしたとたんに代わりの一頭の雄羊が備えられていることを知った時に、アブラハムは「主の山に備えあり」と言いましたが、かつての聖書はここに「アドナイ・エレ」と書かれていたのを覚えておられる方もあるでしょう。その「アドナイ」です。今の聖書は「ヤハウェ・イルエ」となっています。
さらには、「YHWH」をわざわざ「アドナイ」と読ませるために、「YHWH」の文字の下には、アドナイの母音符号「e・o・a」をつけました。「YHWH」に、この「e・o・a」という母音を重ね合わせますと、YeHoWaHとなります。これをそのまま読めば「エホバ」となります。見た目には、YeHoWaHと書いてあるのです(紙に書くとわかりやすいのですが)。ここから神様の名前は「エホバ」だと誤解されてきました。文語訳聖書も、それで神様の名前をエホバとしたのです。しかし神様の名前は、どうもエホバではなく、ヤハウェだということが学者の研究から明らかになってきたわけです。(今でも「エホバの証人」という名前を掲げている宗教団体がありますが、ちょっと変えたほうがいいのではないかと思います。それだけでも「あやしい神様」の「証人」という感じがいたします。)
そのようなややこしい事態になったのも、そもそもは「主の名をみだりに唱えてはならない」という戒めがあったからでした。
(4)神の名は力を持つ
神様は名前をもっておられて、御自分の方からイスラエルの民に向かって、それを明らかにされた方であります。自分が「主人」であるということを明らかにされただけではなく、名前を明かされたのです。
出エジプト記第3章のところで、モーセは神様から召命を受けて、これからエジプトに遣わされるという時に、「あなたの名前は何と言うのですか。人が私に聞いてきたら、何と答えればいいのでしょうか」と尋ねました。その時に神様は、「私はいる、という者である」(出エジプト3:14)とお答えになりました。この「私はいる」というのが、ヤハウェという名前の由来だと言われます。
神様は、そのようにして、モーセに対して御自分の名前を示し、権威を与えられました。昔の考えでは、その名前を知ることによって、神様の力がその人に宿るとされていました。だから時々、神様の名前でもって誰かを呪ったりすることも行われていたようです。「主の名をみだりに唱えてはならない」ということは、先ほど申し上げたように、その名前でもって誰かを呪ったりするなど、軽々しく、自分勝手に口にしてはならない、ということが含まれていました。
(5)イエス・キリストという名
さて旧約聖書の中で、ヤハウェという名前でご自分をあらわされた神様は、新約聖書においては、イエス・キリストという名前で、よりはっきりと、もっと親しくご自分をあらわしてくださったと言ってもよいでしょう。
イエス・キリストは、「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである」(マタイ18:20)と約束してくださいました。
あるいは、ペトロが「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」(使徒言行録3:6)と宣言した時に、歩けなかった人が歩き出したということが聖書の中に記されています。
イエス・キリストの名前は、イエス・キリストの権威を意味しており、その名前を口にする時、その力がそこに降るということを意味しているのです。だからこそ、その名前を、自分勝手のために使ってはならないのです。
(6)ボンヘッファー「教会の罪責告白」
私は、2004年6月、ローマで開かれた第9回国際ボンヘッファー協議会という学会に、日本ボンヘッファー研究会から遣わされて、参加しました。その閉会礼拝で、南アフリカのジョン・デ・グルーチー氏は次のように語りました。
「クリスチャンという名前は、偉大さと恥、栄誉と不名誉の両方を受け継いでいる。私たちはキリストの名において行ったことのうち多くのことは過ちであったことを知っている。宗教裁判、十字軍、ユダヤ人虐殺。ボンヘッファーはこの過ちを深く認識していた。しかしキリスト教は偉大さと栄誉という財産も持っている。それは力よりも弱さの中に、他者を支配することよりも、仕えることの中にこそ現れてきたのである。」
興味深い言葉です。キリスト教の偉大さと栄誉は、一般に考えられているように、力の中ではなく、弱さの中にこそあらわれてきたというのは逆説的ですが、はっとさせられます。このデ・グルーチー氏の言葉は、実は、ボンヘッファー自身のある言葉を前提にしています。
ボンヘッファーは1941年という年、ヒトラーがナチスを通して大きな力をもち、キリスト教会ですらもユダヤ人迫害に対して協力的になってしまった時代に、彼は「教会の罪責告白」という文章を書き残しました。これはモーセの十戒に沿って書かれた文章です。彼は、「主の名をみだりに唱えてはならない」という戒めに即して、このように書きました。
「教会は告白する。-教会は、イエス・キリストの御名をこの世の人たちの前で恥じ、この御名が悪い目的のために間違って用いられることに対して力を尽くして防ぎ止めることをしなかった。そのことによって、彼の御名を誤用するという罪を犯した。すなわち教会は、キリストの御名を口実として暴力的行為と不正とが行われるのを見過ごしにした。教会はしかしまた、このいと聖なる御名が軽んじられることに対して、抵抗せずになすがままにされ、そうすることによってむしろ、そのことを促進した。神はその御名を悪用する者を罰せずにはおかないことを、教会は知っている。」『現代キリスト教倫理』p.71
これは彼がひそかに書き記し、戦後、彼がナチスによって処刑された後で発見された文章であります。「教会は、今、イエス・キリストの名によって、神様の御心に反することをしている。」それを彼は深い懺悔の心をもって書き記したのでした。
ヒトラーは政権を取った最初から、自分たちの政権は「キリスト教的」であることを標榜していました。それによって彼は教会を取り込み、自らの野望のために利用するつもりでした。1932年に全国規模で「ドイツ的キリスト者信仰運動」が起こりますが、ヒトラーは全面的な支持を与えて、事実上、ヒトラーの支配のもとで「帝国教会」を形成したのでした。そしてこのグループの「基本方針」には、はっきりと「反ユダヤ主義」が掲げられていました。つまり、これに参加した教会の人たちは、ユダヤ人迫害と「ホロコースト」を、キリストの名において是認し、協力したと言えるでしょう。ボンヘッファーが「イエス・キリストの御名が悪い目的のために間違って用いられた」というのは、このことを指しているのです。これは十戒の「第三戒」を犯した一つの例と言えるでしょう。
(7)日本の教会が犯した罪
しかしドイツだけではなく、実は日本の教会でも、同じようなことが行われていました。1941年、太平洋戦争が始まる年に、今まで幾つもあったプロテスタントの教派が軍事政権の圧力のもとに一緒にさせられて「日本基督教団」が誕生します。その最初の代表者が富田満という牧師でしたが、彼は、日本が支配している東アジアの諸地域、台湾や朝鮮半島の教会宛てに「大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書簡」が送られます。そこには日本の侵略戦争を正しい戦争であると、キリストの名において書き送っているのです。あの戦争においては、日本の国の指導者だけではなく、教会もまたそのお先棒を担いだということを忘れてはならないでしょう。この富田満という最初の日本基督教団の代表になった牧師は、その数年前に、平壌に行って、朝鮮のキリスト教会の代表者、約120名を集めて、神社参拝をするように勧めているのです。キリストの名において、「偶像を拝みなさい」と勧めたと言えるでしょう。
そのようなことは、いつでも起こりうるし、今日でも起こっているということを忘れてはならないでしょう。プーチンの傍らで、侵略戦争を正当化するロシアの聖教会の総主教もこの罪を犯していると言えるのではないでしょうか。
(8)神の名で自分を正当化する
先ほどお読みいただいたマタイ福音書7章21節以下に、にこう記されています。
「私に向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。天におられる私の父の御心を行う者が入るのである。その日には、大勢の者が私に、『主よ、主よ、私たちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をたくさん行ったではありませんか』と言うであろう。その時、私は彼らにこう宣告しよう。『あなたがたのことは全然知らない。不法を働く者ども、私から離れ去れ。』」マタイ7:21~23
厳しい言葉です。神様の名前、イエス・キリストの名を唱えていても、信仰深いとは限らないということです。かえってその名を、御心に反する形で、悪い方向に使っているかも知れません。
今日の世界においても、神様の名(ヤハウェ、イエス・キリスト、あるいはアラー)が安易に語られすぎるということを深く憂えます。自分のため、自分の国のために、神の御名を持ち出します。本当は自分たちの利益のために戦争をしかけておきながら、その戦争を正当化するために、神の名前が持ち出される。私たちは、クリスチャンとして、「聖書の神様は、そんなことは言っていない。それはむしろ、神様の名前を冒涜することではないか」ということを強く語っていく必要があるのではないかと思います。
ただイエス・キリストの名前は、私たちを深く包み込み、私たちを導き、深く悔い改めさせてくれる力を持っているものと、私は信じます。イエス・キリストの名を本当の意味で尊び、深く悔い改める者を、イエス・キリストは受け入れてくださり、その名前によって、私たちを赦してくださいます。深く、畏敬の念をもって、神様の名前を、自分の都合のために語るのではなく、本当の神様の御心のために口にしながら、進んでいきたいと思います。