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2023年1月22日説教「サムソンの信仰」松本敏之牧師

士師記13章2~5、16章18~30節 マルコによる福音書11章22~24節a

(1)士師記とは

鹿児島加治屋町教会独自の聖書日課に基づく説教は、しばらく中断していました。アドベント、クリスマスの期間は、特別な説教をしていたこともあります。前回、鹿児島加治屋町教会の旧約聖書の日課に基づいて説教をしたのは、11月6日です。その時はヨシュア記についてお話しましたが、その後が士師記です。士師記はクリスマスの間に終わってしまったのですが、士師記についても、一度、お話しておきたいと思いました。

士師記は、旧約聖書の中のヨシュア記の次の書物です。ヨシュア記は、モーセの死後、次のリーダー、ヨシュアによってカナン地方に入って行って、カナンを征服してカナンに定住していく物語でした。しかし実際の歴史は必ずしもそうではなく、後の歴史家によって創作された部分が多々あると申し上げました。士師記についても同じことが言えるのですが、一応、現在ある形で言えば、ヨシュアの死後、イスラエルに王政が誕生するまでの物語です。年代的に言えば、紀元前1200年頃から、1020年頃までの時代です。サウル王、ダビデ王、というふうに王が立てられる前、イスラエルには、まだ王がいなく、地方分権的な部族体制でした。その時々に、士師と呼ばれる、リーダーが立てられていきました。ちなみに士師という日本語は、中国語の聖書から来ています。英語では「Judges」(裁判官)という言葉です。ただもともとは裁判官という役割を超えて、「救いをもたらす者」というような意味もある存在です。

私は、かつて東京の中学校で教えていた時には、「士師というのは〈その都度リーダー〉と覚えるといいよ」と言っていました。士師記の中で取り上げられる〈その都度リーダー〉は、何ページも割いて紹介されるいわゆる「大士師」と、ほんの数行で済まされる「小士師」があります。

(2)神は士師を立てて憐れまれた

モーセの後継者ヨシュアが死んだところから、士師記は始まると申し上げましたが、2章10節以下にこう記されています。

「その世代の者も皆、先祖の列に加えられると、その後に、主を知らず、主がイスラエルに行われた業も知らない別の世代が起こった。イスラエルの人々は主の目に悪とされることを行い、多くのバアルに仕えた。彼らは自分たちをエジプトの地から導き出した先祖の神、主を捨て、他の神々、周りにいる民の神々に従い、これにひれ伏し、主を怒らせた。彼らは主を捨て、バアルとアシュトレトに仕えた。主の怒りはイスラエルに対して燃え上がり、略奪者たちの手に任せて略奪されるがままにされた。主がイスラエルを周囲の敵の手に売り渡されたので、彼らはもはや、敵に立ち向かうことすらできなかった。主が告げられたとおり、また、主が彼らに誓われたとおり、主の手は彼らの行く先々で災いとなった。このことは彼らにとって大変な苦痛となった。  主は士師たちを起こし、彼らを略奪者たちの手から救い出された。 (17節は省略) 主が彼らのために士師を起こされたとき、主は士師と共にいて、その士師の生きている間は、彼らを敵の手から救われた。彼らが圧迫し抑圧する者たちを前に呻き苦しむのを、主が憐れまれたからである。しかし、その士師が死ぬと、彼らは元に戻って先祖よりもさらに堕落し、他の神々に従い、これに仕え、ひれ伏し、その行いとかたくなな生き方を捨てなかった。」士師記2:10~20

士師時代の歴史は、これの繰り返しなのですね。イスラエルの民がヤハウェの神様に背きます。神様は怒って略奪者たちのなすがままにされます。しかし神様は憐れに思って士師を起こして、救い出されます。しばらくはよいのですが、その士師が死ぬと、また元の木阿弥になってしまうのです。それが士師記を通じて語られるのです。

(3)士師ギデオン

そして第3章から、さまざまな士師たちが現れます。最も有名な士師の一人は、6章以下のギデオンでしょう。聖書贈呈運動で有名なギデオン協会の名前のもとになった人物です。ミデヤン人、アマレク人の略奪を受けていたイスラエルの民の中から、ギデオンが起こされるのですが、ギデオンのもとに、最初3万2千人の兵が集められます。しかし神様は「多すぎる。これだと『自分の手で自分を救った』と言って、傲慢になりかねない」と言って、「恐れを抱く人は帰らせない」と言われます。そうすると、2万2千人が帰って行って、1万人になります。しかし「まだ多い」と言って、彼らを水辺に下らせて、川辺で水を飲まさせるのです。そして犬のような飲み方をした人と、手を口にあてて水をなめた人とを分けさせます。手を口にあてて水を飲むというのは、すきがない人ということでしょう。不意に襲われても、すぐに対応できる。そういう人はたったの300人でした。ギデオンは、この精鋭300人の兵でもって10万人以上のミデヤン人、アマレク人に立ち向かい、打ち破るのです。

その他にも興味深い話がたくさん記されているのですが、それらすべてを紹介することはできません。後程、本日読んでいただいたサムソンの物語を紹介したいと思いますが、もう少し士師記全体のことを話しておきたいと思います。

(4)悪評のつきまとう士師記

聖書日課として士師記をお読みになった方々、いかがだったでしょうか。ドラマとしてはなかなか面白いものがあります。後で紹介するサムソンの物語もそうです。しかし全体としては、殺戮に次ぐ殺戮でうんざりなさった方も多いのではないでしょうか。そしてどうしてこんな話が聖書にあるのかと疑問を持った方もあろうかと思います。

J・C・マッカーンという人は『士師記』の注解書の序文で、こんなことを書いています。

「士師記には悪評がつきまとう。事実、この文書は多くの人々がかなり悪いものと考える いくつかの旧約聖書の文書の中でも、最悪のものと見られている。士師記はおそらく、ヨシュア記と並んで、人々が次のように言うときに心の中に思い浮かべる文書であろう。『旧約聖書を学ぶのはやめよう。暴力、戦争、殺人に満ちている』。あるいは、『旧約聖書は好きではない。神は怒るし、復讐する。新約聖書は好きだ。そこでの神は愛である』。あるいは『神はどうしてイスラエルの人々にカナン人やその他すべての諸国民を殺すように命じたのだろう。イエスはわれわれに、敵を殺すのではなく、愛せよと語ったではないか』などである。」J・C・マッカーン『士師記』17頁

(5)現代世界は同じ問題を抱える

しかしそういうふうに語りながら、マッカーンは「私たちの現代世界も同じような問題を抱えている」と指摘します。それは何よりもまず、「競合する集団の間での緊張と紛争」であり、「土地や領域をめぐる争い」です。ウクライナで起きていることもそうでしょう。さらに「権力に飢えた政治指導者たち」、「児童虐待」、「配偶者虐待」(今日はそういう話を読みませんでしたが、ひどい話がいっぱい出て来るのです)、「無益かつ過度な暴力」、「道徳の混乱」、「社会的混乱」。それらはヨシュア記に記されていることですが、同時にまさに現代の私たちの問題であるというのです。

この本の訳者の山吉智久氏はあとがきでマッカーンの趣旨をまとめて、こう言います。

「まさしく士師記こそが、われわれ人類の文明が長い道のりを歩んできたにもかかわらず、いかに進歩していないのかを思い起こさせ、自分自身や世界において日々生起する社会的混乱や混沌の背後に潜む暴力性やその本質に向き合うよう迫るものである。」上掲書237頁

そしてこうまとめます。

「士師記は、われわれが神との間の契約に忠実で、神のみに不変の忠誠を示さなければ、世界は何一つ正しくならないという挑戦的な主張である。」上掲書237頁

「士師たちが生きた時代から長い時を経ているにもかかわらず、「偶像崇拝と自己主張」に陥って、自ら滅びへの道を選び取るという性向(人の性質の傾向)には、何の進歩もないように見られる」、「暴力に満ちた現代社会においてこそ、暴力に満ちた文書である士師記を読み、学ぶことに意義がある」と、山吉氏は、マッカーンと共に述べるのです(上掲書239ページ参照)。

私は、この読みにくい士師記を、そのように読み解くのかと、目が開かれる思いがしました。

(6)怪力サムソン

さて、それでは、士師記の中で最もドラマティックなサムソンの物語をたどってみましょう。サムソンの物語は、士師記13章から16章まで4章にわたって記されています。13章2節以下ですが、サムソンの母親になる女性に、主の使いがあらわれて、こう言いました。

「あなたは不妊の女で、子を産んだことがない。だが、身ごもって男の子を産むであろう。今後はぶどう酒や麦の酒を飲まず、汚れたものを一切食べないよう気をつけなさい。あなたは身ごもって男の子を産むからである。その子の頭にかみそりを当ててはならない。その子は胎内にいるときからナジル人として神に献げられているからである。この子は、イスラエルをペリシテ人の手から救い始めるであろう。」士師記13:2~5

「ナジル人」というのは特別な誓願を立てて、神様に仕える人です。詳しくは民数記6章に記されていますが、普通はある一定期間「ナジル人になる」のであって、その間はお酒を飲まず、その間だけ頭にかみそりをあてないのです。ただサムソンの場合、生まれた時からナジル人で、生まれてからずっと頭にかみそりを当ててはならないと、母親に命じられるのです。その主の使いは「不思議」という名前でした(13:18)。

やがて赤ちゃんが生まれ、サムソンと名付けられました(13:24)。そして成長して行きました。サムソンは、無茶苦茶力持ちで有名でした。それにわがままでした。

ある日のこと、サムソンは同胞のイスラエルの民の中から妻を迎えようとはせず、敵対し、自分たちを支配しているペリシテ人の一人の女性に一目ぼれをして、その女性を妻にしたいというのです。

別の日、サムソンに向かって一頭のライオンがほえながらサムソンに向かってやって来ました。

その時、主の霊が激しく降り、サムソンは素手で、子山羊を引き裂くようにライオンを引き裂いてしまいました。そしてそのことを両親にも伝えませんでした。そして例の気に入った娘のところに行くのです。しばらくして、サムソンは娘を妻として迎えるために戻って行くのですが、あのライオンがどうなったか見てやろうと思い、少し道をそれました。そうすると、ライオンの死骸には蜜蜂が群がり、そこに蜜がありました。彼はそれを手にかき集め、歩きながら食べます。サムソンは両親にも、その蜜をおみやげに渡しましたが、その経緯は話しませんでした。

結婚の祝宴の席でのこと、サムソンは相手側の若者に、高価な衣類をたくさん賭けて、謎かけをします。謎が解けたら、相手側の勝ち、解けなかったらサムソンの勝ちというわけです。サムソンのかけた謎は以下のようなものでした。

「食べる者から食べ物が出た。強い者から甘いものが出た。」士師記14:14

何日経っても誰も解けません。それで妻になった女性に相手側の親族が謎を聞き出すように説得します。とうとう祝宴の最終日、女はサムソンにしつこくせがんだので、とうとう秘密を明かしてしまいます。この辺、サムソンは弱いのですよね。ほれている女性に詰め寄られると、つい口を割ってしまいます。

秘密を聞き出した相手側の町の人は答えました。

「密より甘いものは何か。ライオンより強いものは何か。」士師記14:18

その時、主の霊が再び激しく降ります。彼は怒りに燃え、妻を置いて父の家に帰って行きました。サムソンの妻は、彼に付き添っていた友人のものとなりました。

しばらくして、サムソンは妻に会いに行くのですが、彼女の父は彼を入らせず、「あなたが彼女を嫌ったと思い、あなたの友人に与えてしまいました」と告げます。「彼女の代わりに、妹をあなたの妻にしてください」と言います。サムソンは再び怒りに燃え、何をしたかと言うと、ジャッカルを三百匹とらえてました。ジャッカルというのはオオカミに似た動物です。そしてジャッカルを二匹ずつ、しっぽとしっぽを結んで、そして松明を取り付け、松明に火をつけてペリシテ人の麦畑に放ちました。このようにして、ペリシテ人の麦畑、畑の穂、オリーブ畑、オリーブの木に至るまで焼き払ってしまいました。その後もやり取りはエスカレートします。サムソンはいっとき縛り上げられるのですが、主の霊が激しく降ると、それは火で燃える亜麻のようになり、ほどけ落ちてしまいます。サムソンは20年にわたってイスラエルを治めました(15:20参照)。

(7)サムソンの最期

そしてサムソンの最期です。16章に記されています。

サムソンはガザという町に、遊女を求めていきます。「サムソンが一人でガザに来た」という情報を得たペリシテ人側のガザの人々は、「夜明けに彼を殺してしまおう」ということで、町の入口の門にかんぬきをして、その前で待ち伏せをします。ところがサムソンは夜中に起き出して、その町の門の扉と門柱をつかむと、かんぬきもろとも引き抜いてしまいます。そして肩にかついで山の上に運び上げてしまいました。

その後、彼は別の女性にほれ込み、彼女のもとに通うようになります。彼女の名前はデリラ(16:5)。サンサーンスの作曲した「サムソンとデリラ」というオペラがあります。

ペリシテ人の領主たちは、デリラのもとへ行って、「サムソンの力の秘密がどこにあるかを聞き出してくれ。お礼はたっぷりとするから」と彼女に頼み込みます。デリラはサムソンに「あなたの怪力が何によるのか。どうすればあなたを縛り上げて苦しめることができるか。私に教えてください」と迫ります(16:6参照)。サムソンは「乾いていない新しい弓弦(ゆづる)七本で私を縛り上げれば、私は並の人間のように弱くなる」と告げます。彼女は早速それをペリシテ人の領主たちに伝えて、彼らはそのようにするのですが、それは嘘だったのですね。縛り上げた後、刺客が待ち構えて、サムソンを殺そうとするのですが、失敗に終わりました。そういうことが3回も続きました。いろんな嘘をつく。

とうとうデリラは、「あなたは本当は私を愛していないのね」とか何とか、しつこくサムソンに迫りますので、サムソンも耐えきれなくなって、本当のことを言ってしまうのです。この辺、好きな女性の迫りに弱いのですよね。

「私の頭には、かみそりを当てたことがない。私は母の胎にいたときから神に献げられたナジル人だからだ。もし髪をそられたら、私の力は抜け、全く何も人間のようになってしまう。」士師記16:17

とうとう秘密を聞き出したデリラはそれをペリシテ人の領主たちに告げました。彼らは銀をたっぷりと持ってきました。デリラは自分の膝の上でサムソンを眠らせ、人を呼んでサムソンの髪をそらせてしまいました。すると彼は苦しみ始め、彼の力は抜けていきました。デリラが「サムソン、サムソン、ペリシテ人が襲ってきました」と起こしたので、「いつものように出て行き、どれどれちょっと暴れて来よるか」と起き上がろうとしましたが、いつもの力が出ませんでした。「うっ、力が出ない。」

「彼は、主が自分から離れたことを知らなかったのである」(16:20)とあります。実は、髪の毛というよりは、これこそ(主が共にいることこそ)が彼の力の秘密だったのですね。

サムソンは捕らえられ、彼は両眼をえぐり取られてしまいました。そして連行され、青銅の鎖で縛り上げられました。そして牢屋で粉を挽く者とされていまいます。ペリシテ人の領主たちは、彼らの神ダゴンに盛大ないけにえをささげるために、集まっていました。「我らの神は、宿敵サムソンを、我らの手に渡された」と言って喜び祝っています。

その時です。酒に酔って上機嫌になったところで、「サムソンを呼べ。見せ物にして楽しもう」と言い出しました。サムソンは牢屋から引きずり出され、彼らの前で見せ物にされ、柱の間に立たせられました。サムソンは、彼の手をつかんでいた若者に言います。「手を放して、この家を支えている柱に触らせてくれ。寄りかかりたい。」屋上には3千人がいて、見せ物のサムソンを眺めていました。

サムソンは主に叫んで祈りました。

「主なる神よ。どうか、私を思い起こしてください。神よ、どうか、もう一度、私を強めてください。」士師記16:28

そしてサムソンは、神殿を支えている柱二本を探り当てて、一方を右手で、もう一方を左手で支えもたれかかりました。サムソンは「ペリシテ人と共に死のう」と言って、力を込めて突っ張りました、すると、神殿は領主たちを含め、その中にいたすべての民の上に崩れ落ちました。

サムソンの髪の毛は、牢屋につながれている間に、再び伸びていたのです。

その数は、サムソンがそれまでに殺した人数よりも多かった、ということです。そしてその後20年間は平和が続いたということが記されています。

この話にしても、殺戮、暴力に満ちていて、つまずきもありますが、神が決してイスラエルを忘れておられなかったという物語の一つとして読まれてきました。

(8)強い祈りは聴かれる

さて新約聖書のイエス・キリストの言葉を一つお読みしました。マルコによる福音書11章22~24節です。

「神を信じなさい。よく言っておく。誰でもこの山に向かって、『動いて、海に入れ』と言い、心の中で少しも疑わず、言った通りになると信じるならば、そのとおりになる。だから言っておく。祈り求めるものはすべて、すでに得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。」マルコ11:22~24

サムソンも怪力も、実は髪の毛の力ではなくて、そのように誓った神様、サムソンに誓わせた神さまの力であったということができると思います。先ほどのイエス様の言葉でありますが、サムソンも、最後の最後に、傲慢から解き放たれて、その信仰に立ち返ったのだと思います。

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