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2022年9月4日説教「不思議な御業」松本敏之牧師

マルコによる福音書12章1~12節

(1)ぶどう園と農夫たち

先ほどお読みいただいたマルコによる福音書12章1~12節は、本日の日本基督教団の聖書日課であります。ぶどう園と農夫のたとえですが、主イエスが語られたぶどう園のたとえと言えば、多くの人が知っている有名なたとえがあります。それはマルコ福音書には出てきませんが、マタイ福音書20章1節以下に出てきます。「『ぶどう園の労働者』のたとえ」と題されています。主人がぶどう園で働く労働者を雇うために、広場へ出かけていく話です。夜明けに雇い、次に午前9時、そして昼の12時、さらに午後3時に、最後に午後5時にも雇うのです。支払いは、遅く雇われた人から順に、1デナリオンずつ支払いました。夜明けから雇われた人が「なぜ同じ扱いなのか」と不平を言うのですが、主人は「私はこの最後の者にも、あなたと同じようにしてやりたいのだ」と言いました。これは、この世のルールからすれば物議をかもしそうな話ですが、「神様の愛」というものをよく示すたとえであります。

それに対して、今日お読みいただいた「ぶどう園のたとえ」は、随分違います。さきのたとえのほうが有名なので、こちらは「もう一つのぶどう園のたとえ」と呼ばれることもあります。厳しい話ですし、物騒な話でもあります。このたとえマタイ福音書にも、ルカ福音書にも出てきます。少し違いがありますが、基本的には同じたとえであり、マルコが一番古いものとされます。

「イエスは、たとえで彼らに話し始められた」とありますが、「彼ら」とは誰かと言えば、その直前の11章27節を見ると、「祭司長、律法学者、長老たち」という当時のユダヤ教の宗教的指導者たちであることがわかります。

およそ次のような話です。ある家の主人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して旅に出ました。収穫の時期になったので、収穫を受け取るために、主人は僕たちを農夫たちのところへ送るのですが、農夫たちは、この僕たちを次々と袋だたきにしたり、殺したりしてしまいます。とうとう主人は、「私の息子なら敬ってくれるだろう」と言って、最後に愛する息子を遣わします。しかし農夫たちは、かえって「これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、財産はこちらのものだ」(7節)と言って、彼を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまうのです。

そして、「さて、ぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て、農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるに違いない」(9節)と自問自答します。マタイ福音書では、聞き手に答えさせていますが、マルコでは主イエスの自問自答です。ざっと、そういう話です。

(2)「ぶどう園と農夫たち」とは何を意味するか

このたとえにおいて、「ぶどう園と農夫たち」は何を意味しているのでしょうか。この話の後、詩編の引用をはさんで、こう記されます。

「彼らは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気付いたので、イエスを捕えようとしたが、群衆を恐れた。それで、イエスをその場に残して立ち去った。」13節

つまり、この話を聞いた人たちは、「農夫たち」は自分のことだと気付いたというのです。

本来は、ぶどう園とは「神の民イスラエル」、農夫たちとは「それを養い育てるべき指導者たち(「祭司長、律法学者、長老たち」という当時のユダヤ教の宗教的指導者たちであったと思います。それが元来の意味かと思います。

イザヤ書5章1節以下に、こういう言葉があります。

「私は歌おう、私の愛する者のために
ぶどう畑の愛の歌を
 愛する者は肥沃な丘にぶどう畑を持っていた。
 彼は畑を掘り起こし、石を取り除き
良いぶどうを植えた。
 また、畑の中央に見張りのやぐらを建て
搾り場を掘った。
 彼は良いぶどうが実るのを待ち望んだ。
 しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。
 さあ、エルサレムに住む人、ユダの人よ
 私とぶどう畑の間を裁いてみよ。
 私がしなかったことがまだあるか。
 私は良いぶどうが実るのを待ち望んだのに
 どうして酸っぱいぶどうが実ったのか」イザヤ書5:1~4

(3)神の造られた世界

ただしこの「ぶどう園」を、単に「神の民イスラエル」に限らず、「神の造られた世界」と読むこともできるでしょう。その場合「農夫たち」は、イスラエルの指導者たちだけではなく、「神に選ばれたはずのユダヤ人全体」ということになるでしょうか。しかし私たちはこの物語を「昔のユダヤ人が批判されている物語」として、人ごとのように読むだけでは意味がないでしょう。昔のユダヤ人たちは神に背いたけれども、その結果、イエス様が登場して、キリスト教が始まった。「よかったよかった」というふうにだけ、読んだのでは、私たちの罪の問題としては響いてこない。それを超えて、まさに私たちのこと、私たち自身の罪がここで露わにされている物語として読む時に初めて、私たちに迫ってきます。

神は天地の造り主です。私たちはその神が造られた世界を、ぶどう園の農夫たちのように委託されて管理しているにすぎません。ある一定の期間だけ、主人のために働くのです。ところが、このたとえ話の農夫たちは、そのぶどう園を自分のものにしようとしました。本当の主人をないがしろにして、あたかも自分が主人であるかのようにふるまうこと、自分が主人であると思い込んでしまうこと、神様のものを神様に返さないこと、そこに私たちの根本的な罪が潜んでいると思います。

私たちはこの世界の主人ではありません。主人であるとすれば、あまりにも未熟で、この世界のことも、自分のことも知りません。そして私たちはいつか、この世界から本当に消えゆくようにして去っていかなければなりません。私たちは、人間として自分の分をわきまえて、本当の主人を立てて生きる時に、最も人間らしく生きることができるのです。

(4)自分が主人になろうとすること

「さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか」。

彼らは、最後にそれが自分たちのことであると悟るのですが、その結果皮肉にも、主イエスがたとえの中で言われたとおりの行動、つまり主人なる神のひとり子である主イエスを捕らえて殺すことへと突き進んでいくことになるのです。

すでに述べましたように、私たちも主イエスのこの問いを、人ごととして聞くことはできません。私たちは、この農夫たちのように、直接人殺しをしてはいないかもしれませんが、この「世界」というぶどう園で、あたかも主人であるかのようにふるまっていないでしょうか。本当の主人である神様の意志を聞こうとせず、自分にとって都合のよいような世界を望んでいる。他者と共に生きる道を選ぼうとせず、他者を押しのけ、自分だけが、あるいは自分たちの共同体や自分たちの国だけが生き延びる道を選ぼうとする。時にはこの農夫たちのように誰かと共謀し、時にはその仲間さえも押しのけて、自分が主人になろうとする道を歩もうとする。主イエスは、そのような私たちの罪を暗に告発しておられるのではないでしょうか。それを自分で認めざるを得なくなるところまで、主イエスは私たちを追いつめられる。そのことに気づく時に、私たちは戦慄するのです。

(5)エコロジー神学の視点から

さらに、これを人間社会のことに限らず、神の創られた被造世界全体(被造物の世界全体)と捉えるならば、エコロジーの領域のことまで含んで考えていく必要があるでしょう。

普通、自然と人間の関係について、聖書はどう言っているかを知ろうとする時、誰しもまず創世記1章の言葉に注目するでしょう。

「神は言われた。『我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地のあらゆるもの、地を這うあらゆるものを治めさせよう。』」(以前の新共同訳聖書では、「支配させよう」という言葉でした。)創世記1:26

「神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて、これを従わせよ。海の魚、空の鳥、地を這うあらゆる生き物を治めよ。』」創世記1:28

ゲルハルト・リートケというエコロジーの神学者は、この「治めさせよう」(支配させよう)、そして「地を従わせよ」ということが、人間の自然への荒々しく傲慢な態度に根拠を与え、「創造の秩序を破壊する行為を正当化することに、誤って用いられて来た」と言って批判します。つまり、この聖書の言葉を人間が自分に都合よく読むことで、自然破壊を正当化してきた、ということです。

そして、むしろ創世記6~9章の洪水物語に新しい光を当てて、その後、つまり「ノアたちが洪水に生き残った後で、人間は「地の支配者」ではなく、いわば被造世界全体の管理者とされたこと、それを前提として、神様の言葉が告げられる。「二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはない」というふうに保証されたというのです(リートケ『生態学的破局とキリスト教』参照)。

私たちは、この神の造られた世界の支配者ではなく「神から管理を委ねられた管理人」なのです。その分をわきまえて、誠実に神様から委ねられた世界を守らなければなりません。高木仁三郎という原発の危険性を、いち早く1980年代から、声を大にして警告してきた人は、私たちは「地の守り人」だと言っています。「地の守り人」。いい言葉ですね。決して傲慢になってはいけないのです。

(6)ルターの卓上語録から

もうひとつ興味深い言葉を紹介します。

世界全体で用いられているローズンゲンという聖書日課があります。日本語では『日々の聖句』と題して、赤い小さな本として毎年出版されています。そのローズンゲンのドイツ語版には、毎日、小さな黙想がついていまして、私の友人、神戸聖愛教会の小栗献牧師が、毎日、それを日本語に訳して配信してくれています。

その昨日(9月3日)の黙想にこういう言葉がありました。

「人間となられた主なるキリストという梯子なしに
天によじ登っていくような高飛車な考えには、
よくよく気をつけなければならない。」

これは宗教改革者マルティン・ルターの「卓上語録」に記されている言葉だそうです。

一瞬、聞いただけではわかりにくい言葉ですが、もう一度読みます。

「人間となられた主なるキリストという梯子なしに
天によじ登っていくような高飛車な考えには、
よくよく気をつけなければならない。」

この言葉の背景には、創世記の11章1節以下のバベルの塔の物語と、創世記28章の「ヤコブの梯子」と呼ばれるヤコブの夢の話、そしてイエス・キリストの業と言葉があります。

つまり私たちは決して自力で天に昇っていくことはできない。バベルの塔の物語は、人間が天にまで届く塔を建てようとした話です。

「さあ、我々は町と塔を築こう。塔のいただきは天に届くようにして、名を上げよう。」創世記11:4

しかし神は人間のこのプロジェクトを阻止し、言葉を散らされました。

「ヤコブの梯子」というのは、双子の兄弟エサウに殺されそうになったヤコブが家を飛び出し逃走中に、野原で夢を見るのです。それは「先端が天にまで達する階段(伝統的には梯子)が地に据えられていて、神の使いたちが昇り降りしていた」(創世記28:12)という夢です。ここで大事なことは天と地は梯子(階段)によってつながっているのだけれども、そこでは神の使いたち、つまり天に属する者が昇り降りしていたということです。人間のプロジェクトではない。そして私たちクリスチャンは、その天と地を結ぶ梯子は、イエス・キリストによって実現し、そのイエス・キリストの招きによって、私たちもキリストに続くことができる。この主なるキリストという梯子なしに天によじ登っていくことは傲慢であり、高飛車だということです。この言葉の背景にはさらに、ヨハネ福音書14章6節の言葉があります。

「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことはできない。」ヨハネ14:6

(7)今日こそ、喜び祝おう

このたとえからもわかるように、イエス・キリストの十字架は、まさに私たちの罪の結果であり、私たちの罪が最も露わにされるところだと言えるでしょう。私たちはそのことを軽々しく聞き流すことはゆるされないでしょう。しかしその裁かれ方は、実に不思議なものでした。驚くべきものでした。死の宣告をし、死の判決を下すべきお方が、その宣告をしながら、判決は自分で担われたからです。それによって、私たちは「死すべき人間である」にもかかわらず、生かされる道が開かれたのです。

主イエスは、ここで詩編118編22節以下を引用されました。

「家を建てる者の捨てた石
これが隅の親石となった。
これは、主がなさったことで
私たちの目には不思議なこと。」マルコ12:10~11

この言葉が語っていることは確かに不思議です。文字どおりの意味は、建築専門家の目から見て捨てられたものが、実は建築に最も大事な基礎石になったということです。これは、「祭司長、律法学者、長老たち」に殺されるイエス・キリストが、救いのみ業の基礎になることを暗示しているのでしょう。ですから、これは彼らを完全に敵に回し、怒らせる言葉です。

しかしこの言葉は、そうした次元を超えて、驚くべき福音を語っています。不思議にもそこから救いの道が開かれた、ということです。十字架は十字架だけで終わらない。捨てられた石が用いられ、そこから新しい世界が始まるという、一つの転換点が示されるのです。
ちなみに主イエスが引用なさったこの詩編118編の続きには、はっとさせられる言葉が記されています。

「家を建てる者の捨てた石が
 隅の親石となった。
これは主の業
 私たちの目には驚くべきこと。
 今日こそ、主が造られた日。
これを喜び躍ろう。
……
祝福あれ、主の名によって来る人に。
私たちは主の家からあなたがたを祝福する。
主こそ神、主が私たちを照らす。
……
あなたは私の神、あなたに感謝します。
わが神よ、あなたを崇めます」詩編118:22~28

主の驚くべき計画は十字架で終わるのではなく、喜びの復活へと通じていきます。そこで私たちは「跡取り息子」同様、神の国へ迎え入れられるべく約束されていることを感謝し、喜び、祝いたいと思います。

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