2022年8月21日奨励「人生の意味の探究〜生きよ〜」大迫政彦
皆さん、おはようございます。
奨励にはいる前に、今日この場に立たせて頂きましたイエス様の御心に感謝します。また松本敏之牧師、教会役員の皆様、そして全ての教会員の皆様に感謝申し上げます。
さて、本日は、松本敏之牧師が、北九州のバプテスト南小倉教会で午前中、午後からはバプテスト東八幡教会で説教のご奉仕をされていますので私が奨励をさせて頂く事となりました。初めての経験で、この大役を十分に果たせるか心配ですが、どうぞ宜しくお願い致します。
1 聖書箇所を選ぶにあたって
今回の奨励は、6月の役員会で協議され、私に出番が回ってきました。その際、松本先生は「教団の定めた聖書箇所からでも良いですし、自分で選んでも良いですよ。」と言って下さいました。私はお役目が回ってきた時点で、『「コヘレトの言葉」にしよう。』と即決しておりました。小友聡先生の「コヘレトの言葉を読もう」を初め読んだ時、先生の解き明かしにとても共感できたからです。
以上のような理由で、本日の聖書箇所は「コヘレトの言葉」から選ばせて頂きました。
2 「コヘレトの言葉を読もう」
今回選んだ箇所は、難解な「コヘレトの言葉」のなかでも、比較的すんなりと読めるところだと思います。松本先生にご相談した時も「ああ、いいですね。」と言って頂けました。結婚式の挨拶でも引用できそうな言葉ですね。しかしながら、「コヘレトの言葉」を解き明かして下さった小友聡先生は、また別な解釈をされています。それについては、後程お話致します。
さて今日は、3年前に小友聡先生が執筆され、松本先生が書評を書かれた「コヘレトの言葉を読もう」という本を参照しながら、お話をさせて頂きます。今日礼拝に出席されている方々の中にも「コヘレトの言葉を読もう」を読まれた方がいらっしゃると思います。お読みになった感想は如何だったでしょうか。「コヘレトの言葉」が少し分かったような気になりませんでしたか。新共同訳で読んだ「コヘレトの言葉」は、中々理解しづらかったのではないでしょうか。勿論私も、その分からない一人です。しかし小友先生の解き明かしを読み、新しい聖書協会共同訳に接すると、全く分からなかった事が何となく分かったような気になれたのでした。
3 小友聡先生の紹介と解き明かし
ここで小友聡先生のご紹介と、解き明かしについてお話しておきます。
小友先生は、牧師として8年間牧会された後、「コヘレトの言葉」を研究するため、5年間ドイツに留学され、博士論文を仕上げておられます。その成果は、今回の聖書協会共同訳に遺憾なく発揮されていると共に、「コヘレトの言葉を読もう」という著書に集約されています。特に「コヘレトの言葉を読もう」では、書かれた時代背景に加えて、思想的背景を詳細に解説して下さっております。まず、「コヘレトの言葉」が書かれた時代についてお話します。書かれた時期については諸説あるそうですが、小友先生は紀元前2世紀半ば頃と推定されています。それは、バビロン捕囚が終わって、大分時が経ち、既に市場経済の発達により、貧富の差が拡大し、加えて常に戦争が絶えない時代でした。因みに、それはダニエル書が書かれたのとほぼ同じ頃だと小友先生は考えておられます。その時代については、とても大切な事実があります。それは、当時の平均寿命が、現在の日本人の約半分でしかなく、40歳にも満たない状況であったという事です。つまり18歳で成人すると、残りの人生は20年程となります。現在の日本人の平均寿命は、男女ともに80歳を超えています。18歳で成人しても60年以上の時間があります。コヘレトの時代の若者に比べ約3倍もの長さです。「コヘレトの言葉」が書かれた時代の若者にとっては、今の私達以上に、時間がとても大切であったという事実を容易に理解して頂けると思います。当時の青年には、「今を生きる」、「大切に生きる」という事が、常に頭の中にあったと思われます。自分の子供が成人する頃には、自らの命が尽きてしまうと思うと、尚更時間の大切さを痛感してしまいます。孫の顔を見たくても見られなかった人が、とても多かっことでしょう。それが故に、「コヘレトの言葉」では38回も「空」という言葉が繰り返されているのではないでしょうか。「空」は、虚しさに加え、短い、束の間、儚いなどの意味をもっているのです。以上のような理由で、本日の奨励題を、聖書協会共同訳で「コヘレトの言葉」1章の小見出しとなっている、「人生の意味の探求(生きよ)」とさせて頂きました。
「コヘレトの言葉」1章2節には、「コヘレトは言う。空の空 空の空 一切は空である。」と書かれています。「空」という言葉を、虚しいと理解すれば、この世を儚んでいるようにしか聞こえませんが、束の間の儚さと解釈すれば、その時代の人々の気持ちを少しでも理解できるような気がしてきます。
次に思想的な背景について簡単に触れておきます。聖書のなかには「ダニエル書」などに代表される黙示思想があります。小友先生はその黙示思想と対峙する箇所として「コヘレトの言葉」を解き明かされ、生きる事の大切さを述べておられます。
小友先生は著書「コヘレトの言葉を読もう」の14頁で次のように述べておられます。
一部、読ませて頂きます。
「ダニエル書には、夢や幻、文字などを解釈することによって終わりの時がいつ来るかを示す、という特徴的思想があります。(中略)その終わりの時がもうすぐやって来るという強烈な切迫感において、ダニエルに象徴される敬虔な者たちは厳しい試練をひたすら潜り抜けます。ダニエルたちは試練に耐え、禁欲を貫きます。酒を飲まず、肉を食べず、体には香油も塗りません。終末の到来は、救済の完成であり、そこにこそダニエルたちの本来性があるのです。(中略)今の時代に禁欲を強い、終末を待ち望ませるような考えに導いてしまう。このような黙示思想だけを極端に強調し、終末感をあおり、地下鉄サリン事件をおこしたオウム真理教は皆さんの記憶に残っている事と思います。 これに対して、コヘレトは「コヘレトの言葉」9章7節~9節で次のように述べています。「さあ、あなたのパンを喜んで食べよ。あなたのぶどう酒を心楽しく飲むがよい。神はあなたの業をすでに受け入れてくださった。いつでも衣を純白に 頭には香油を絶やさないように。愛する妻と共に人生を見つめよ 空である人生のすべての日々を。」
コヘレトは、食べたり飲んだりして楽しむことは、神様からの賜物として考え、この世で生きること自体が、神の賜物と考えています。さらに付け加えるとすれば、創世記8章22節に、「地の続くかぎり、種をまき刈り入れ 寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜、これらがやむことはない。」とあります。コヘレトは、この世に終わりはないという立場で、人は「どのように生きるべきか」を真剣に考えるように勧めています。以上のことを踏まえて本日の聖書箇所をもう一度読んでみましょう。
4 人生の意味の探求
4章9節: 一人より二人のほうが幸せだ。共に労苦すれば、彼らには幸せな報いがある。 4章10節: たとえ一人が倒れても もう一人がその友を起こしてくれる。一人は不幸だ、倒れても起こしてくれる友がいない。 4章11節: また、二人で寝れば暖かいが 一人ではどうして暖まれよう。 4章12節: たとえ一人が襲われても 二人でこれに立ち向かう。三つ編みの糸はたやすくは切れない。
如何でしょうか。
この聖書箇所を、結婚した二人へのはなむけの言葉として読むと、『人は一人では生きられません。様々な困難に出会っても、共に手を取り、助け合いながら、「短い」「束の間」の人生を、支え合いながら、しっかりと生きて下さい。』と、結婚したお二人に捧げるとても素敵なスピーチになりますね。
ところが、小友先生はこの聖書箇所を異なる視点から解き明かしされています。「コヘレトの言葉」が書かれた時代は、先に述べたように、常に何処かで戦争が起こっている時代です。小友先生は、そういう時代背景を踏まえて、次にように解説しておられます。
戦うには一人より二人、二人より三人で共同体を形成した方が、より有利に戦うことができる。もし一人が負傷しても、互いに助け合うことができる。寒い戦場では、一人で暖まることはできないが、二人で身を寄せ合えば互いに暖め合う事ができる。一人が襲われても、二人で立ち向かえば、一人ずつで戦うよりも、もっと大きな力となって、戦える。
みなさん、どう思われますか?。全く違った風景が浮かんできませんか。
私は、これまで生きてきた時代を振り返り、以下のような情景が浮かんできました。
社会の高齢化と共に核家族化が進み、高齢のご夫婦のみの家庭、高齢者の一人暮らし、また社会的弱者の一人暮らしなど、様々な社会背景のなかで健康に不安を抱えている方々が増えています。昭和、平成、令和と時代が流れるなかで、ご近所同志の付き合いも希薄となり、お隣に住んでいる人が、どんな人か、何をしている人なのかも知らない。ということが当たり前みたいになっています。「向こう三軒両隣で助け合いましょう。」などの言葉は死語となりつつあります。解決策を見出すどころか、この状況には益々拍車がかかっいくことでしょう。菅前総理は、まず「自助」、次に「共助」、それが難しければ「公助」、すなわち「社会的救済」といわれました。今、私たちに必要なのは、皆で力をあわせて、「生きていてよかったね」と思える社会を作っていくことではないでしょうか。コヘレトも、「生きよ」と呼び掛けています。
5 コロナ禍を生きる
さて、3年にも及ぶコロナ禍にあって、私達は「生きる」という事を、改めて考えさせられたのではないでしょうか。特に、ご高齢の方々が集団で生活していらっしゃる施設や、医療機関においては、大きな課題を突き付けられることになりました。つまり、高齢で様々な病気を抱えた方々がコロナに感染した場合、若い人に比べて重症化し易く命の危険に遭遇することがより多くなるからです。コロナ禍前までは、「お薬による治療で治らなかったら、それ以上の治療は望みません。」というご家族が殆どでした。ところが、新興感染症で、なかなか正体がつかめないコロナ感染にあっては、「これまでとは状況が違うので、ちょっと考えさせてください。可能な治療があれば、できるだけのことをして欲しいのです。コロナでは死んで欲しくないのです。」という方々が多くなっています。私も40年医療の現場で働いていますが、一つ感染症、一つの病気によって、これほど劇的に考え方が変化するのを経験した事がありません。「生きる」という事について、もう一度考え直させられる機会となりました。
6 ACPとは
ご存知の方もいらっしゃると思いますが、近年Advance Care Planning(ACP)という言葉が使われるようになりました。日本医師会では、以下のように説明しています。
「将来のご自身の体調や病状の変化に備えて、将来受けることのできる、医療やケアについて、ご自身を主体として、ご家族や近しい人と、医療やケアを提供するチームが、繰り返し話し合いを行いながら、ご自身による意思決定を支援するプロセスのことです。」
もう少し平たく言えば、「自分が最期を迎える時の事について、元気なうちからみんなと相談しながら決めておきませんか?。専門家もアドバイスしますよ。」ということです。突然の病気や、不慮の事故などに遭遇し、自ら意思表示できなくなるという状況は、誰にでも起こり得ます。私も家族が悩む場面にしばしば遭遇してきました。そのような場面に備えて、自らの意思を誰にでも分かるようにしておくことがACPの目的です。最近では、マスコミでもACPについてとりあげるようになってきました。NHKの番組で紹介されていたのは、以下のような事例でした。
母親が白血病で亡くなった事をきっかけとして、20代の娘さんがご自身のACPについて考えるようになったという事です。具体的には、自分の最期の場面をどうして欲しいかを、ノートに書き残すことでした。人の考えは、常に移ろいます。そうであるが故に、その都度、その都度、自分の気持ちを書き直しているそうです。なかなかできる事ではありませんが、人間の尊厳にかかわる、とても大切な事だと思います。これを視聴した私も、ちょっと考えてみようかなとは思いましたが、実行できていません。
私の父は、私が医師になって半年後にこの世を去りましたが、突然の病状急変に対して、私は人工呼吸器に繋ぎ、最後は心臓マッサージまで行いましたが、あまり後味は良くありませんでした。その時に思ったのは、「今後身内が同じような状況になった場合には、余り意味のない蘇生は止めよう。」という事でした。そして母の時には、特に積極的な延命治療は行いませんでした。呼吸や心臓の動きを司る脳幹部梗塞を起こしてから、丁度7か月間自らの生命力で生きていました。両親共に、生前の意思確認は行っていなかったため、私の意思で決めてしまいましたが、それで良かったのかどうかは、神のみぞ知るということでしょうか。そうならないためにも、皆さんもACPについて考えてみませんか。
7 生きよ
コヘレトは、「生きよ」と呼びかけ、この世の日常を大切にするように推奨しています。私たちは、この「空」なる時間を大切にしながら、神様に召されるその日まで、生きることを楽しみながら過ごして参りたいと思います。
最後に、小友先生から頂いた言葉を紹介して、奨励を終わりにしたいと思います。「聖書の御言葉は私たちにとって生きる力です。鹿児島加治屋町教会の礼拝に集う皆様に、どうか豊かな恵みがありますように。」
お祈り致します。
恵深きご在天の神様、み名を賛美します。私たちは、今日「コヘレトの言葉」を通して、生きることの大切さと、神様の賜物に感謝することを学びました。神様の御心に従って、日々の暮らしに感謝しつつ、楽しく過ごせるように努めて参ります。私たちが、この世で過ごせるのは、ほんのわずかな時間、「空」な瞬間にしかすぎません。これからも、この「空」な時を大切に生きていきたいと思います。ただこの世にあって、私たちは、神様の御心に従わず、多くの過ちを犯しています。神様、どうぞ私たち一人一人を、御許に招かれるその時まで、優しく見守っていて下さい。それまでは、皆で助け合いながら、一生懸命生きて参ります。
このささやかな祈り、願い、感謝、私たちの主、イエス・キリストの御名によってお捧げ致します。 アーメン
(小友聡先生からのレスポンス)
ありがとうございました。奨励原稿を読ませていただきました。感謝いたします。生きづらい時代にコヘレトが「生きるのだよ」と励ましを語っている、という私のコヘレト解釈を用いて、大迫さんは医師として、キリスト者として、医療の現場から「生きるのだよ」という励ましを優しい言葉で説いておられます。大迫さんでなければ語れない聖書のメッセージだと思いました。心に届くメッセージです。この奨励を聞いて、教会のとりわけご高齢の皆さんが信仰に生きる励ましを与えられるにちがいありません。聖書の御言葉は私たちにとって生きる力です。鹿児島加治屋町教会の礼拝に集う皆様に、どうか豊かな恵みがありますように。