2022年7月17日説教「まだわからないのか」松本敏之牧師
マルコによる福音書8章14~21節
(1)福音書前半のまとめの部分
ただ今読んでいただいたマルコによる福音書8章14節から21節は、本日の日本基督教団の聖書日課の箇所であります。
マルコによる福音書では、イエス・キリストのガリラヤでの活動の最後の部分にあたります。この後、北のベトサイダに向かい、そしてイエス・キリストや弟子たちの活動範囲から言えば、北の果てにあるフィリポ・カイサリアにおいて、ペトロの信仰告白がなされることになります。イエス・キリストが他の人々がいないところで、弟子たちに向かい、「それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか」(マルコ8:29)と問われたのに対して、ペトロが弟子たちを代表するように、「あなたはメシアです」(マルコ8:30)と答えるのです。人類最初のイエス・キリストへの信仰告白とも言える箇所です。そこから弟子たちに対する「メシアの秘密」と言われる「受難と復活の予告」が語り始められます。この箇所は福音書の折り返し点で、ここから後半に入っていきます。
そうした意味では、今日の箇所は福音書前半のまとめ、総括とも言える箇所です。しかし残念ながら、ここにおいても、まだ弟子たちはよイエス・キリストをよく理解していないことが記されています。イエス・キリストは、弟子たちに向かって、「まだ、分からないのか」「まだ悟らないのか」と叱責されるのです。しかしそれは愛情のこもった叱責でありました。その「愛情」については後で触れたいと思います。
(2)パン種とは
15節にこう記されています。
「イエスは、『ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種に十分に気をつけなさい』と戒められた。」(8:15)
最初に「パン種」とは何か、また何を意味しているか、についてお話しておきましょう。まず「パン種」というのは、パンのふくらし粉、イースト菌のことです。よい意味で使われることも、悪い意味で使われることもありました。よい意味で使われる例としては、マタイ福音書13章33節にこういう言葉があります。
「天の国は、パン種に似ている。女がこれを取って3サトンの小麦粉に混ぜると、やがて全体が膨らむ。」(マタイ13:33)
これは「天の国は、からし種に似ている」というたとえの続きで語られた言葉でした。つまり「天の国はほんの小さな種から大きなものになっていく」たとえとして語られたのでした。もっともからし種の場合には、小さな種そのものが成長していきますが、パン種の場合には自分が大きくなるのではなく、パンを膨らませていく力があるという面では違いがありますけれども、語ろうとしていることはほぼ共通しているでしょう。
しかし、これは例外的な使われ方であって、聖書の中では、パン種は、通常、悪い意味で使われます。その最初の例は、旧約聖書レビ記2章11節です。
「あなたがたが主に献げる穀物の供え物は、パン種を入れて作ってはならない。少しのパン種も蜜も、主への火による献げ物として焼いて煙にしてはならない。」(レビ記2:11)
出エジプトの際に、人々が食べたパンもパン種を入れぬパン、種なしパンでした。ユダヤ教の人々は、今も過越祭には種入れぬパンを食べます。
パウロの手紙の中にもこういう言葉があります。
「あなたがたが誇っているのは、よくないことです。僅かなパン種が生地全体を膨らませることを、知らないのですか。新しい生地のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、私たちの過越の小羊として屠られたからです。だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない純粋で真実なパンで祭りを祝おうではありませんか。」(コリント一5:6~8)
これは、明らかにパン種を悪いものとして記しています。こちらが聖書の基本的な考え方であると言ってもよいでしょう。
(3)ファリサイ派のパン種-宗教的権威の偽善、偶像化
イエス・キリストの言葉、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種に十分に気をつけなさい」という言葉は、もともと独立した伝承であったと言われます。恐らくイエス・キリストは、しばしば、さまざまな文脈で、この言葉を語られたのでしょう。
ルカ福音書も、同じような言葉を記していますが、別の文脈で、こういう言葉が記されています。
「ファリサイ派の人々のパン種、すなわち、彼らの偽善に注意しなさい。」(ルカ12:1)。
微妙に違いますが、共通して「ファリサイ派のパン種」と言っているので、そこにイエス・キリストの批判の中心があったということがわかります。「ファリサイ派」というのは、当時の宗教的権威と言ってもよいかと思います。宗教的権威に気をつけよ、と言っている。
そしてルカ福音書では、それを「偽善」と結び付けています。悪いパン種というのは偽善と関係があるのです。偽善は、最初はわからない。しかし気が付いてみると、何か違うぞというふうになっていきます。
宗教は人を生かすためにあるものでしょう。ここで、イエス・キリストはユダヤ教全般を批判しておられるのではないということを理解しておく必要があるでしょう。問題にされたのは一部のユダヤ教の指導者たちのことです。しかもファリサイ派全体ではなく、ファリサイ派のある人々です。権威をふりかざして、その権威のもとに人を置こうとする。しかも救いの道を握っているように言いますから、なかなか逆らえないのです。
それは、同じ一つの宗教の中でも、そういうふうに偽善が入って来て、人を支配するようになることもあるでしょうし、同時に、カルトとして認定されるべき、全体として問題のある、人をマインドコントロールしていく宗教(もどき)もあると思います。
(4)統一協会(教会)の問題
今、安倍元首相を銃撃した青年の母親が統一協会(統一教会とも書きます)の信者であるということが公表されて、統一協会のカルト性、問題が明らかにされようとしています。莫大な額の献金をさせる。それが一億円にも上る。もちろん大変な大金持ちで1億円献金する方はあるでしょう。ビル・ゲイツのような人が1億円献金するのは何でもないかもしれません。そうではなくて、彼女の場合は、それで一家が破産してしまい、子どもたちもそれを恨んでいるのです。そこには明らかにマインドコントロールがあると言えるでしょう。
一昨日、鹿児島キリスト伝道協力会がオンラインで定例の会議が持たれましたが、そこで統一協会のことが話題になりました。世間では「だから宗教は怖いのよね。宗教っていやよね」と言われる。私たちは、それに対して、どう答えるべきかの言葉を持たなければならないと思います。異端カルトと真実の宗教の違いをきちんと述べていかなければならない。そういうことを思わされています。いずれにしろ、それによって社会生活を破綻させてしまう、人間性を崩壊させてしまう宗教というのは間違っています。
ただしそのことはそういうカルトと呼ばれる宗教ではなくても、一般的に認められている宗教においても、規模は小さくても、社会問題にはならなくても起きうることではあります。
イエス・キリストが「ファリサイ派のパン種に気をつけなさい」と言われた時には、そうしたカルトでなくても、人をその権威のもとに置き、その心を支配してしまうことが起きうるという現実があって、それに対して気をつけなさい、と言われたのではないでしょうか。私なりの言葉で言えば、それは「宗教という名の偶像」です。神様に仕えていると思っているのに、いつのまにか偶像を拝んでいるということになりかねない。そして宗教者の側は、それを利用して、支配しようとするのです。イエス・キリストは、そうしたことを敏感にかぎ分けて、それと闘われたとも言えます。それだからこそ、宗教的権威のもとで裁かれ、十字架にかけられたとも言えるでしょう。それには十分、気をつけなければなりません。
(5)ヘロデのパン種-政治的権威の偽善、偶像化
さて、マルコ福音書では、あわせて「ヘロデのパン種に気をつけなさい」と言われました。ヘロデというのが、具体的にどのヘロデを指しているのか、はっきり示されてはいませんが、直近に出て来るのは、先週の説教で取り上げた領主ヘロデ・アンティパスです(マルコ6:14~29)。妻へロディアの連れ子サロメの要求に従って、洗礼者ヨハネの首をはねた人です。
王としての権威、政治的権威をもっていた。それには誰も逆らえないのです。しかしそれが神の意志に従った形であるかはわかりません。むしろ神の意志を無視し、あるいはそれを否定して、自らが神の位置に着こうとする。私は、これも政治的権威という名の偶像、と呼んでもよいのではないかと思います。
しかし政治的権威の偶像化はむしろ今日のような民主主義の時代にこそ、起こりうると思います。昔は最初から王は王として権威を振りかざしていた。それに有無を言わせず、従わせようとする。従わざるを得ない。ところが現代は民主主義です。投票によって政治家を選びます。ですからその時には民衆のほうを向いている顔をするのです。しかし気が付いてみると、民意に即した形になっていかない。だんだんずれていく。そこで偶像化が起こりうる。むしろ今日のような形でこそ、偽善が入り込み、偶像化が起こるのではないかと、私は思います。民意に即した政治をすると約束しながら、トリッキーに人を欺いて、あるいはそれさえも気づかせない形で、国をリードしていく。あるいはミスリードしていくということが起こる。
一般の人々が投票の際には、あまり深く考えないで投票した結果、国がどんどん間違った方向に進んでいく。なぜこうなってしまったのか、よくわからない。いつの間にか、そうなってしまっている、ということがあるのではないでしょうか。イエス・キリストの「ヘロデのパン種に機をつけなさい」という言葉には、そうした現代人への戒めが込められているように思います。
(6)統一協会と自民党の「ズブズブの関係」
政治的権威の偽善性は、今回の安倍首相襲撃事件の背景にもあります。先ほど、統一協会がいかに危険なカルトであるかについて、一言お話しました。しかしそれだけでは、一体なぜ安倍首相が標的になったのかということの真相究明にはなりません。統一協会と安倍首相、あるいは統一協会と安倍首相の政治団体との間には深い結びつきがある。それは、自民党側はそう簡単には認めないでしょう。
マスコミの報道では、この容疑者が、「安倍首相がこの宗教団体と関係があると思い込んで」というような表現で明言を避けていました。統一協会側の記者会見では、第一に「安倍首相は世界平和統一家庭連合(統一協会)の信者ではない。会員として登録されたことも、顧問になったこともない」と語りました。それは事実です。ただ友好団体(天宙平和連合、UPF)が主宰する行事にビデオメッセージを送ったことに関して(これも事実ですが)、「それは創設者の思想に賛同の意を表されたものでしょう」というようなことを語りました。これも当たっています。思想的に安倍さんの思想と統一教会の思想に共鳴するものがあります。しかしそれはある一面の事実です。そこでは統一協会側に都合のよいことだけが述べられている。
それだけでは、一国の首相、莫大な影響力のある人間が、危ない宗教だと言われている団体に対して(恐らくそれは承知していたと思います。霊感商法のことも何もかも知った上で)、しかも信者ではないにもかかわらず、ビデオメッセージを送るだけの理由はわからない。ビデオメッセージを送るには、それなりに得るところがあったからです。統一協会側が、安倍さんをはじめとする自民党の政治団体に莫大な献金をし、選挙の時には、信者たちをボランティアとして無償で派遣するというような、切っても切れない関係があるからです。そうした関係を私の友人牧師たちは「自民党と統一教会のズブズブの関係」と呼んでいました。「ズブズブの関係」というのは、どういうことかと調べてみますと、「本来関係を持ってはいけない人や団体の間に金銭その他の思惑のからんだ関係があるさま」とありました。「本当はやめなければならないのだけれども、どうしても切ることができない関係」のことを指すようです。そのような男女の関係も例としてあげられていました。まさに、そこで莫大なものを受けているからこそ、そういう団体にビデオメッセージを送るということが出てくるのです。
容疑者となった青年は、そのことに敏感に気づいていた。自分の家を破産させたお金が自民党に流れている、ということがわかったのでしょう。しかしこのことはあまり公にされませんし、これからも隠され続けていくのではないかと思います。
このようなことを語ると、説教で、自民党批判をしているように思えるかもしれませんが、これは自民党に限ることではありません。たまたま今は自民党が政治のトップにいるので、そこに対して批判の目を向けることになりますが、それは立憲民主党であれ、維新の会であれ、共産党であれ、同じ立場に立てば、起こりうることでしょう。政治的権威にはそういうものがつきまとう。そういう危険性であります。
イエス・キリストが「ヘロデのパン種に気をつけなさい」と言われたのは、そういうふうに人を支配するもの、偽善、表向きには見せないけれども、裏で何がつながっているものをよく見抜いておられたからでありました。
そのことは、別のたとえで言うと、ロシアのプーチンの政権とロシア正教、特にキリル総主教の結びつきをあげることができるでしょう。宗教的権威のパン種と政治的権威のパン種、偽善が結びついた時に、それはもう、エスカレートして、誰も止められなくなっていく。ロシア正教会のキリル総主教こそ、神様の名のもとに活動するのであれば、プーチンの、ロシアのウクライナ侵攻を真っ先に批判すべき立場にあると思いますが、それができないで、むしろ宗教的権威によって、ロシアのウクライナ侵攻を正当化していく。プーチン政権も、そうした中で、ロシア正教会を保護のもとにおき、恩恵を与えていくのです。そういう関係があるのです。
(7)弟子たちでさえもまだ分かっていない
私は、そこでイエス・キリストが弟子たちに対して述べられたこと、それはかなり危ない、きわどい発言であったと思います。そして事実、そういう発言をするからこそ、十字架へと追いやられていった、という一面もあると思います。
ただそれでも弟子たちは、イエス・キリストの言葉の真意を悟ってはいませんでした。
「そこで弟子たちは、パンを持っていないということで、互いに議論し始めた」(8:16)とあります。イエス・キリストは、弟子たちが勘違いをしている、誤解をしているということに気づいて、こう言われました。
「なぜパンを持っていないことで議論をしているのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。」(マルコ8:17~18)
「目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか」という言葉は、実は、4章11節のところでは、弟子たちではなく、外の人たちに対する批判として出てきていました。弟子たちに対して、イエス・キリストは、こう答えておられました。
「彼らは見るには見るが、認めず 聞くには聞くが、悟らず 立ち帰って赦されることがない』ためである。」(マルコ4:12)
外の人たちに対する批判の言葉です。しかしながら、ガリラヤを去ろうとするこの時、福音書の前半を終えようとするこの時、親しい弟子たちでさえも、同じように悟っていないということが示されるのです。
(8)恵みの叱責
イエス・キリストの「まだ分からないのか。悟らないのか」という言葉は、二つのことを指し示していると思います。一つは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種に十分気をつけなさい」という言葉の意味がまだわからないのか。あの人たちは危険だぞ」ということです。それについては、先ほど述べました。
もう一つは、恵みの叱責です。イエス・キリストは、弟子たちの間で、パンの話が出た時に、5千人の人々をおなかいっぱいにさせた奇跡と、4千人の人々をおなかいっぱいにさせた奇跡を思い起こさせました。「覚えていないのか」(マルコ8:18)と言って、その奇跡のことを示されたのです。
イエス・キリストは、パンがなくて悩んでいる、困窮している人々にパンを与えることができる方です。「そのことを忘れたのか。思い出しなさい」という恵みの叱責、愛情のこもった叱責であったと思うのです。
私たちは、そうしたイエス様の恵みさえもすぐに忘れてしまいます。そのことも含めて、二つの意味で、「悟らないのか。まだ分からないのか」というふうに、叱責をされたのだと思います。