2022年6月5日説教「聖霊の働き」松本敏之牧師
ヨハネによる福音書15章26節~16章15節
(1)創立144周年記念礼拝
本日は、教会の三大祝日の一つであるペンテコステであります。主イエスが昇天された10日後に、「聖霊が降って、教会が始まった」ことを記念する日です。同時に、本日は鹿児島加治屋町教会創立144周年記念礼拝としました。最初の教会の誕生を記念するペンテコステに、私たちの教会の創立記念を重ねることは意義深いことであると思います。あと6年で創立150周年を迎えることになります。数年前に、歴代牧師の一人である今野善郎牧師を迎えて、創立140周年を祝ったばかりと思っていましたが、あれから早4年が経ちました。そう考えると、150周年をどう迎えるのか、150周年記念誌を発行するのかなどについて、そろそろ議論を始めたほうがよいかもしれません。
鹿児島加治屋町教会はもともと米国メソジスト教会の伝道から始まっています。鹿児島加治屋町教会史『恵みのみ手に支えられて』によれば、1877年(明治10年)秋に、米国メソジスト派九州教区長デヴィソン宣教師が、すでに伝道を開始していた長崎から、鹿児島に視察に来ました。そして山下町(185番地)に場所を定めて、会堂にあてる民家の借り入れを決定します。そして翌年1878年(明治11年)6月に、山下町に鹿児島美以教会が設立されました。そのことは『鹿児島県史』にも記載されているそうです。
教会の名称は、先ほど申し上げたように、創立当初、「鹿児島美以教会」と称しました。「美」はメソジストのメの漢字、「以」はエピスコパルのエの漢字で、メソジスト・エピスコパル・チャーチの略字です。その後1907年(明治40年)5月に、「日本メソジスト鹿児島中央教会」と呼称するようになります(これが二つ目の名前)。さらに1941年(昭和16年)6月、日本基督教団成立に伴って、「鹿児島城南教会」となりました(これが三つ目の名前です)。そしてもともと敬愛幼稚園のあった、加治屋町のこの場所に、幼稚園と合同の建物を建てることを決定し、移転してきました。1975年9月に着工し、1976年(昭和51年)5月23日に献堂式が行われています。そしてその9年後、1985年(昭和60年)8月1日、「日本基督教団鹿児島加治屋町教会」に改称いたしました。それが4つ目の、そして現在の名称です。
ですから創立は144年ですが、現在の会堂の献堂式から数えるならば42年。鹿児島加治屋町教会という名前になってから37年ということになります。
(2)弁護者が遣わされる
さて本日はペンテコステということで、ヨハネ福音書の中で、聖霊の働きについて述べている15章の終わりから16章の初めの部分を読んでいただきました。
この部分は、13章21節から始まった、長いイエス・キリストの弟子たちへの別れの言葉の一部です。15章26節、27節には、ペンテコステを預言するような言葉が語られています。
「私が父のもとから遣わそうとしている弁護者、すなわち、真理の霊が来るとき、その方が私について証しをなさるであろう。」(15:26)
また、こうも言われました。
「しかし、実を言うと、私が去って行くのは、あなたがたのためになる。私が去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。私が行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。」(16:7)
この弁護者というのは、これまでも何回か出てきました(14:16等)。15章26節では「真理の霊」と言い換えられています。聖霊と言ってもよいでしょう。肉体をもったイエス・キリストと、共に過ごすことが許された弟子たちは、とても幸運であったと思いますが、その時イエス・キリストは、ある限定された場所におられたわけです。ですから、肉体をもったイエス・キリストがその場所を去って行かれるからこそ、肉体に束縛されない聖霊として、いつでもどこでも、どの弟子に対しても、共にいてくださることが可能になるのです。主イエスはそのことを、弟子たちに、告げようとされたのでしょう。
(3)罪、義、裁き
「その方が来れば、罪について、義について、また裁きについて、世の誤りを明らかにする。」(16:8)
罪と義と裁きについて、一般的に考えられていることは誤りであり、聖霊が、それらについて正しい理解を与えてくれるということです。しかしその後のイエス・キリストの説明は、なかなかわかりにくいものではないでしょうか。何を言おうとしているか、一応、たどってみましょう。
まず「罪についてとは、彼らが私を信じないこと」(9節)と言われました。当時、罪とは、(旧約聖書に記されている)律法に違反することと考えられていました。しかしイエス・キリストは、そうではなく、自分を信じないことが罪だというのです。これは、逆に言えば、イエス・キリストを信じることによって、罪から解放されるということもできるでしょう。それを信じないならば、どんなに自分を正しく神様のほうへ向けようとしても、罪は残るということです。
次に「義についてとは、私が父のもとに行き、あなたがたがもはや私を見なくなること」(10節)と言われました。義というのは、聖書の中で最もわかりにくい言葉のひとつでしょう。本来的には、「正しさ」、「神様との正しい関係」を表す言葉です。旧約聖書では、人は律法を守ることによってそれ(義)を示すとされていました。しかし、どんな人間であっても、それを完全に示すことはません。そうすると矛盾に陥ってしまいます(ローマ3:20等参照)。イエス・キリストは、それとは違った道を示されました。「イエス・キリストの真実」が、あるいは「イエス・キリストを信じる信仰」が私たちを義としてくれる。それによって神さまとの正しい関係に入れられるというのです。(ローマ3:21等参照)。そのことを言おうとされたのではないでしょうか。
三つ目に「裁きについてとは、この世の支配者が裁かれたことである」(11節)と言われました。イエス・キリストの時代、そしてヨハネ福音書が書かれた時代にも、クリスチャンたちは、迫害の最中にありました。あたかもこの世の支配者であるかのようにふるまっている人たちがいました。しかし彼らは本当の支配者ではなくて、神様が本当の支配者であることが明らかになる時が来ると言おうとされたのではないかと思います。
(4)今は堪えられない
そしてこう言われます。
「言っておきたいことはまだたくさんあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。」(16:12)
新共同訳聖書では、「今、…理解できない」となっていました。私自身、「罪と義と裁きの話は、難しいなあ」と思っていたのを、見透かされている思いがしました。ただしこう付け加えられます。
「しかし、その方、すなわち真理の霊が来ると、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれる。」(16:13)
聖霊が、私たちを真理に導き、悟らせてくれる。さらにこう述べられます。
「その方は、勝手に語るのではなく、聞いたことを語り、これから起こることをあなたがたに告げるからである。」(16:13)
ここで聖霊の二つの大事な働きについて述べられています。一つは、「勝手に語るのではなく、(父なる神やイエス・キリストから)聞いたことを語る」ということ、もう一つは、「これから起こることを告げてくれる」ということです。これは、14章26節で語られたことに通じます。
「弁護者、すなわち、父が私の名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、私が話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(ヨハネ14:26)
長い、長い説教です。「今は堪えられない」と言いながら、「いつか理解できる日が来る」と言って言葉を、弟子たちに置いていかれました。弟子たちは、不十分な理解のまま、これらの言葉をあたためていったのでしょう。そして後になって、「ああイエス様がおっしゃったのは、こういうことだったのか」と、新しく聖霊に教えられていったのではないでしょうか。
それは、今日の私たちにもあてはまることでしょう。聖書の言葉は、私たちの心にすっとはいってくることもありますが、同時に、なかなかわかりにくい奥深いものでもあります。今日は、何でも早分かりの時代、インスタントの時代です。本でも「何々のすべて」とか「何々の早分かり」というような類のものがもてはやされます。聖書という書物は、そうした時代にそぐわないものであるかもしれません。しかし私は、本物とは、そう簡単なものではないと思います。簡単なものはそれだけ薄っぺらいものです。「わかった」と思った途端に、もういらなくなってしまう。聖書はそうしたものと違って、深い味わいがあり、私たちを根底から生かしてくれる書物です。何度読んでも、いつも新しい発見に満ちている。生きた聖霊が聖書を通して働きかけてくださるからです。