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2022年4月10日説教「神は叫びを聞かれる」松本敏之牧師

出エジプト記3章7~12節
マルコによる福音書15章33~34節

(1)棕櫚の主日

本日は、棕櫚の主日であります。棕櫚の主日とは、イースターの前の日曜日で、この日から受難週が始まります。受難週というのは、イエス・キリストが最後にエルサレムへ入られてからの1週間を、特に心に深く刻む時です。今週の水曜日と木曜日は、いつもと違う受難週の祈祷会を行います。イエス様の十字架を心に留めて奨励をいたします。夜の祈祷会は、水曜日ではなく、洗足木曜日祈祷会として、木曜日にこの礼拝堂で行います。水曜日の朝と木曜日の夜は、基本的に同じ話をするつもりです。普段お忙しくて祈祷会に出られない方も、年に一度だけでもなんとか時間を作ってご出席くださればと思います。

棕櫚の主日という名前の由来は、ヨハネ福音書12章にあります。

「その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、なつめやしの枝を持って迎えに出た。」(ヨハネ12:13~14)

棕櫚は出てこないではないかと思われるでしょうが、この「なつめやし」というのが、新共同訳のもう一つ前の口語訳聖書で、「しゅろ」と訳されていたのです。

ちなみに、岩波書店訳のヨハネ福音書でも、「なつめやし」と訳されているのですが、この岩波書店訳(『ヨハネ文書』)の後ろに付いています用語解説には、こう記されています。「なつめやし-しゅろと訳されることもある。甘い実のなる木でエリコなどに繁生。12章13節では、人々がその枝を持ってイエスを迎えたといわれる。……ヴェスパシアヌスの貨幣、バル・コクのシェケル貨などにも刻まれており、勝利の象徴であるらしい。」「勝利の象徴であるらしい」というのが気になります。まさにこの「勝利の象徴」というのが、イエス様のエルサレム入りと関係があるのでしょう。

(2)十字架の意義①「贖罪」

イエス・キリストの十字架は、私たちとどういう関係があるのか。私たちにとってどんな意味があるのか。これは短い言葉で言うならば、「贖罪」と「共苦」ということができるでしょう。共苦というのは聞き慣れない言葉であるかもしれませんが、後でご説明します。

「贖罪」というのは「罪を贖う」と書きます。私たちの罪を引き受けて、私たちの代わりにそれを負って十字架にかかってくださったということです。それによって私たちの罪が赦された。天の神様は、イエス・キリストの十字架の犠牲によって、私たちの罪を赦してくださったということです。イエス・キリストの「十字架上の7つの言葉」のうち、ルカ福音書23章34節の言葉がそれをよく表していると思います。

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです。」(ルカ23:34)

これは、その贖罪の究極の言葉として、その事実をよく表していると思います。そしてこの贖罪の教義(教え)はこれまで、キリスト教会が十字架の中心的メッセージとして強調して語って来たことですので、皆さんもそれなりにお聞きになったことがあろうかと思います。

しかし同時に贖罪の教義については批判もあります。ひとつは、贖罪の教えが軽々しく受け止められて、その罪の結果に対して責任をもとうとはしない傾向が出て来るということです。もちろんそういうふうに十字架を軽々しく矮小化して受け取ることは間違っていますが、そういうご都合主義につながりやすい。そして悔い改めなしに、また次の罪を犯してしまう。そういうことが指摘されます。

またこの贖罪の教えはぴんと来ない、という声もよく聞きます。特に若い人にはそのようです。教会が贖罪信仰を語っていても、若い人がなかなか教会に足を向けることはないかもしれません。

(3)十字架の意義②「共苦」

それに対して、もう一つの十字架の意味は「共苦」ということです。共苦と言っても、どんな字を書くのかしらと思う方もあるでしょう。鹿児島の人ならすぐに、「さつま狂句」を思い浮かべるかもしれませんが、そうではありません。「共に苦しむ」と書きます。そういう日本語はまだ熟語としてあまり定着していないようで、コンピュータの変換でもなかなかでてきません。

「共苦」。これは、イエス・キリストは十字架上で、私と共に苦しんでおられる。私の苦しみを十字架上で担ってくださっているということです。贖罪との違いをもう一度言いますと、贖罪のほうは、「イエス・キリストは十字架によって、私に代わって、私の罪を贖ってくださった」ということですが、共苦のほうは、「イエス・キリストは、十字架の上で、私と共に、私の苦しみを、まさに今苦しんでくださっている」ということです。このメッセージは、特に東日本大震災以降、特に大事なメッセージとして語られてきました。この大災害を、神は見ておられるのか。神もイエス・キリストも不在ではないのか。神は知らないのではないか。という批判の中で、「いや神はおられる。イエス・キリストはまさに今十字架の上で私と一緒に苦しんでおられる」ということです。このことは、イエス・キリストの「十字架上の七つの言葉」で言えば、先ほど、読んでいただいたマルコ福音書15章34節の言葉に集約されています。

「『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。』これは『わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか』という意味である。」(マルコ15:34)

この叫びは私の叫びだ、ということです。マタイ福音書では、「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ」となっています。マルコのほうはアラム語で、マタイのほうはヘブライ語であります。

この言葉は、これまでも意味がよくわからないと言われてきました。どうして神の子であるイエス・キリストがこういう言葉を叫ばれたのか。その答えの一つとして、これは詩編22編に出て来る言葉でありますので、「詩編を朗唱しようとされたのだ」という理解があります。そしてこの詩編は、最後には賛美で終わるので、ここでも「絶望の叫びを叫んでおられるのではなく、神を賛美しようとされたのだ」というのです。この理解は必ずしも間違ってはいないと思いますが、私はやはり「この叫びは絶望の叫びである」というふうにとらえるほうがよいと思います。「イエス・キリストは、私たちの苦しみの叫びを共に同じところに立って叫んでくださっているのだ」ということです。まさにそれが「共苦」です。それを受け止めた上で、この「絶望の叫びは絶望では終わらない」ということも意味を持ってくるのだと思います。

さてこの十字架の「共苦」のメッセージは、「贖罪」のメッセージに比べて、さまざまな状況の中で苦しんでいる人たち、特に若い人たちも「よくわかる」と言います。ただ「贖罪」か「共苦」かというのは、あれかこれかということではないと思います。十字架には多様な意味があるのです。

(4)詩編とウクライナの人々の叫び

さて、鹿児島加治屋町教会の聖書日課も2年目に入りました。3月末で創世記を終えて、今週から出エジプト記に入ります。本日は、今週の木曜日の聖書日課である出エジプト記第3章の一部をお読みいただきました。まさに神様はイスラエルの民の苦しみの叫びを聞かれたという部分です。

旧約聖書の聖書日課は、一書を読み終えるごとに詩編を10編ずつ挟むことにしました。詩編は比較的短いものが多いですし、前後のつながりがあまりなく、独立したものが多いので、少し遅れた方はここで一気にまとめて読むとか、詩編を抜かすとかして調整していただくとよいかと思いました。

ただ私は、先週詩編を読んでいてとても強い印象を受けました。それはこの詩人の叫びがまさにウクライナの人々のように響いて来たのです。たとえば詩編7編7節以下にこういう言葉があります。

「主よ、立ち上がってください、怒りに燃えて。
 身を起こしてください
 私を苦しめる者に激しい憤りをもって。
 目を覚ましてください、私のために。
 あなたは公正をお命じになりました。
 諸国の民をあなたの周りに集め
 その頭上はるか高き座にお戻りください。」(詩編7:7~8)

いかがでしょうか。まさにウクライナの人々の叫びに聞こえないでしょうか。平和な時に、この詩編を読むと、随分大げさなように聞こえます。そしてここで語られている「私を苦しめる者」というのを、「精神的に自分を苦しめている者」であるとか、あるいは「病気などの苦難全般」と受け止めることが多いのではないでしょうか。もちろんそれも間違いではありませんが、ここで詩人が向き合っていた「苦しめる者」というのは、自分の命を狙っている者のことであったのだということを思わされます。そして詩人は「神様、目を覚ましてください。眠っておられるのですか。あなたの高き座にお戻りください。私のために起きてください。あなたは公正を命じられたではありませんか。それを思い出してください」と訴えているのです。大胆にも神様に向かって、正義と公正を問うているのです。そして「諸国の民をあなたの周りに集め、その頭上はるか高き座にお戻りください」

というのは、ウクライナの危機に際して、これまで手をこまねいて、手を出し切れなかった西欧諸国をはじめとする世界中の国々も立ち上がるように呼び出してください、と訴えているようです。そして続けてこう叫びます。

「主はもろもろの民の裁きに当たられる。
主よ、私の義と潔白にふさわしく
私を裁いてください。
悪しき者の悪を絶ち
正しき者を堅く立たせてください。」(詩編7:9~10)

(5)「敵を愛しなさい」の教えが受けとめきれない時にも

この言葉は、「敵を愛しなさい」(マタイ5:44)というイエス・キリストの教えと矛盾するように思う方もあるかもしれませんが、そうでもないでしょう。今まさに、自分を殺そうとしている者の前、切迫した状況のもとでは、「敵を愛しなさい」と言われても、「今、そんなこと言われても無理です」となるのではないでしょうか。この詩編の言葉のほうが「神様が自分に寄り添っていてくださる」ということを、より実感させられるのではないでしょうか。びんびんと響いてきます。

詩編は本当に自分を苦しめる者に取り囲まれている人には大きな慰めであり、励ましだと思います。たとえば、少し前の詩編3編にはこういう言葉があります。

「主よ、私の苦しみのなんと多いことでしょう。
多くの者が私に立ち向かい
 多くの者が私の魂に言っています。
『あの者に神の救いなどない』と。


しかし主よ、あなたこそわが盾、わが栄光
私の頭を起こす方。
主に向かって声を上げれば
聖なる山から答えてくださる。
私は身を横たえて眠り、目覚めます。
主が私を支えておられるから。
私は決して恐れません。
私を取り囲む幾千万もの民を。
主よ、立ち上がってください。
わが神よ、私をお救いください。
あなたはすべての敵の顎を打ち
悪しき者の歯を砕かれる。


救いは主のもの。
あなたの民の上の祝福を。」(詩編3:1~9)

こう訴え、こう祈るのです。また続く詩編4編の終わりは、こういう言葉です。

「平安のうちに、私は身を横たえ、眠ります。
 主よ、あなただけが、私を
 安らかに住まわせてくださいます。」(詩編4:9)

これは、今夜、たとえば地下鉄の駅をシェルターにして眠っているウクライナの人々、避難民キャンプで眠っている人々、そして自分の町からでることができないマリウポリやその他の戦火の只中にある人々にとっては、そのまま心に届くみ言葉ではないでしょうか。

そして遠い日本の地から祈っている私たちにとっても、この神様が私に代わって彼らと共にいてくださる、ということが慰めであり、新たな行動への力になるのではないでしょうか。

この神様は、詩編の詩人が、「私の頭を起こす方。主に向かって声を上げれば、聖なる山から答えてくださる」と告白した通りに、答えてくださるお方です。

今日、お読みいただいた出エジプト記3章の言葉は、そのことを述べています。

(6)民の苦しみを知り、行動する神

ある日のこと、モーセはいつものように、羊の群を飼う仕事をしていましたが、いつもと違う出来事に遭遇いたします。荒れ野の奥、ホレブ山に来た時、柴が燃えているのを見ました。そしてモーセが近づくと、主なる神は「モーセよ、モーセよ」と呼びかけられました。

私たちの神様との出会いも、そのように全く日常的な生活の中で起こるものではないでしょうか。毎日の仕事、毎日の生活をしていながら、そこにいつもと違う何かが入り込んできて、私たちの生活はそれ以降、全く違ったものになるのです。

モーセが「はい」と返事をすると、「ここに近づいてはならない。足から履き物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから」(5節)と言われました。そして神様はこう続けられるのです。

「私は、エジプトにおける私の民の苦しみをつぶさに見、追い使う者の前で叫ぶ声を聞いて、その痛みを確かに知った。それで、私は下って行って、私の民をエジプトの手から救い出し、その地から、豊かで広い地、乳と密の流れる地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、そしてエブス人の住む所に導き上る。今、イスラエルの人々の叫びが私のもとに届いた。私はエジプト人が彼らを虐げているのを目の当たりにした。」(出エジプト3:7~9)

そしてこう命じられます。

「さあ行け。私はあなたをファラオのもとに遣わす。私の民、イスラエルの人々をエジプトから導き出しなさい。」(出エジプト3:10)

この神様の言葉は真実であります。神様は、この苦しみの叫びを聞き、それゆえにモーセを立てて、奴隷になっているイスラエルの民を、ここから救い出されるのです。

この叫びも、先ほどの詩編の詩人の叫びも、同時に、イエス・キリストの「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という叫びに通じるものでしょう。そしてその叫びは神様に届いているのです。イエス・キリストが十字架において神の子として担っていてくださることを、私たちも信じて、感謝して、また新たな行動へと促されていきたいと思います。

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