2022年3月27日説教「苦難の中にあっても」松本敏之牧師
創世記45章1~8節
コリントの信徒の手紙一10章13節
(1)ロシア軍による強制連行
ロシアによるウクライナに対する軍事侵攻が2月24日に始まってから1カ月以上が経ちました。今朝の新聞によると、ロシア国防省は、25日、1カ月を総括する記者会見を開き、ロシア軍参謀本部のルツコイ作戦本部長は「作戦の第一段階の課題は達成された」と述べ、今後はウクライナ東部での作戦に集中する意向を示しました。首都キエフの侵攻作戦が停滞するなか、方針を転換し、東部の支配確立に焦点を移す可能性もあるとのことです。首都キエフ周辺では、ほんの少しほっとしているかもしれませんが、東部地域ではより激しい攻撃が加えられるのではないかと心配されます。
とくに東部の港湾都市マリウポリ市では、市内の劇場が空爆され、約300人が死亡した可能性があると報じられていました。劇場の敷地内には「子どもたち」と書いて、空から「子どもたちがいることがわかるようにサインを出していたにもかかわらず、空爆がなられてしまいました。
ロシア軍は占領地域の支配を強めている模様で、ウクライナ政府は3月24日、マリウポリで「住民が強制的にロシアに連れ去られている」との声明を出しました。すでに市内東部の住民6千人がロシアの「選別キャンプ」に送られたとウクライナ政府は述べています。(「朝日新聞」3月26日)。
もちろんロシア側は真逆の報道で、マリウポリの住民を抑圧者から解放し、避難させたと伝えているわけですが、ウクライナ側の報道のほうが信ぴょう性があるように思われます。この「選別キャンプ」からロシアのどこへ送られるかが決められるようですが、「選別キャンプ」という言葉は、第二次世界大戦下のナチス・ドイツによるユダヤ人の「選別キャンプ」を思い起こさせるおぞましい言葉であると思いました。
強制移住は、これまでも世界各地で何度も行われてきましたが、これほど大規模なものはまれに見るものではないかと思います。
聖書の中にも、紀元前6世紀の「バビロン捕囚」というユダヤ人の指導者たちの強制連行が記されています。また本日の説教で取り上げるヨセフも、たった一人ではありますが、奴隷としてエジプトへ売られることによって強制連行させられた人物であると言ってもよいかもしれません。
また強制連行ではなくても、本当はその場所に住み続けたいのに、その地を離れざるを得なくなった避難民も、戦争の大きな被害者です。ウクライナから国外に避難した人の数はすでに370万人にのぼり、国内での避難民をあわせると1千万人以上になると言われます。
(2)ラフィク・シャミ氏の言葉
昨日の「朝日新聞」の「天声人語」には、中東シリア出身の作家ラフィク・シャミ氏(75歳)のことが紹介されていました。ラフィク・シャミ氏は、シリアで学生時代に筆をふるった政治批判の壁新聞が当局から発禁処分を受け、亡命を余儀なくされた人です。最近邦訳出版された自伝的随想集『ぼくはただ、物語を書きたかった』では、アサド大統領の弾圧を批判し、帰りたくても帰れない母国への思いをつづっているそうです。またこの本の中には「自分の国に戻るのを許されないことが、どれほど人間の尊厳を傷つけるか」という一節があるそうです。
ウクライナ避難民、また強制連行させられた人々の気持ちに寄り添うためにも、読んでみたいと思わされました。
(3)創世記のヨセフ物語
さて鹿児島加治屋町教会では、昨年4月から聖書協会共同訳による聖書通読を推奨してきましたが、皆さま、いかがでしたでしょうか。1月で新約聖書を終えて、2月から旧約聖書が始まり、創世記を読んできました。その創世記も今週で終わります。新年度の聖書日課を受付に用意しましたので、どうぞご利用ください。今は創世記の終わりのヨセフ物語を読んでいます。今日は先週、3月24日の聖書日課から第45章、ヨセフと兄たちとの感動の再会の一場面を取り上げました。
ヨセフ物語は、先ほど申し上げましたように、ヨセフが奴隷という形でエジプトに強制移住させられる物語です。大きな枠組みで言いますと、アブラハム物語の後、1章だけ息子イサクが中心の話があるのですが、25章からアブラハムの孫のヤコブ物語となります。ヨセフ物語はヤコブ物語の後というよりは、ヤコブ物語の中の一部、大きな挿入物語と言った方がよいかもしれません。45章の後半から再びヤコブ中心の話に戻っていきます。
(4)ヨセフの歩んだ道
ヨセフの歩んだ道を簡単に振り返っておきましょう。
創世記37章に記されていることは、ヨセフがヤコブの11番目の息子であったこと、最も愛した妻ラケルの子であったことや、年を取ってから与えられた子であったことから、とてもかわいがられて育ちました。今の言葉で言う過保護のような感じです。着る服まで兄たちとは違っていましたので、10人の兄たちは嫉妬しました。子どもの頃から夢見る少年であり、その夢は自分中心に兄たちや両親が存在しているような夢でしたので、兄たちは一層腹を立てました。
そして仕事に行っている兄たちを探しに行くよう、父ヤコブから命じられて出発します。家から遠く離れた野原で兄たちに会うのですが、兄たちはヨセフを殺す相談をします。しかし一人の兄が殺すのはよくないと言って、穴の中に投げ込むこととしました。その後、エジプトへ行くイシュマエル人の商人たちに、ヨセフを奴隷として売り飛ばしてしまうのです。父ヤコブには、獣の血を付けたヨセフの服を見せて、獣にかみ殺されたように見せかけました。
一方ヨセフはエジプトで、ポティファルという人に買い取られるのですが、そこで頭角を表し、家の中の管理をすべて任せられるようになります。しかしポティファルの妻の誘惑を受けて、それから逃れたために逆恨みを買い、投獄されることになりました。それが39章でありますが、ここで印象的なのは、「主がヨセフと共におられたので」という言葉が形を変えて4回も出てくることです。苦難の中にあっても、神さまはヨセフを見放さず、そこで恵みを与えてくださっていたのでした。そして苦難から逃れる道を備えてくださいました。先ほどお読みいただいた言葉にある通りです。
「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えてくださいます。」(コリント一10:13)
ヨセフが牢の中で、献酌官長(以前の聖書は給仕役)の夢の意味を解いたことから、ファラオの夢解きをすることになり、それから後に起こるエジプトの7年の豊作と7年の飢饉を預言します。そして「宮廷を治める者」(大臣)に抜擢され、任命されるのです。そして7年の豊作の間に気を緩めず、食料を蓄えていくことによって、その後の7年の飢饉に対応できるようにしました。やがて飢饉が訪れた時、各地からエジプトに食糧を買いにやって来るのですが、その中に、ヨセフの兄たちの一行がいたのです。
その時、自分が若い日に見た夢、兄たちの麦の束が自分の麦束に向かってひれ伏している夢を思い出すのです。そしてもうひとつエピソードを挟んで、兄たちに自分が誰であるか告げるのですが、それが本日読んでいただいた箇所です。
(5)ヨセフ物語のクライマックス
ヨセフ物語は、この45章でクライマックスに達します。44章に記されている兄のユダの訴えが、ここでのヨセフの打ち明け話の場面を引き起こすきっかけになっていますが、より大きな文脈から言えば、ヨセフ物語全体がこの瞬間に向かって進んできたと言えるでしょう。物語は、この中心軸になる打ち明け話を、可能な限り、最後の瞬間まで取っておいたのです。
ヨセフは、ユダの話を聞いて、平静を装っていることができなくなりました。ヨセフには、これまで何度か感情を押し殺してきましたが、ここではもう隠す必要はありません。兄たちに真実を告げるつもりです。時が満ちたのです。
今回は、自分が退出する代わりに、エジプト人の従者たちに、「出て行ってくれ」とお願いしました。ひとつには、兄弟水入らずで、話したいと思ったのでしょう。もう一つは、兄弟の恥を従者たちにさらしたくないという思いもあったかもしれません。
ヨセフは、他の誰もいなくなったところで、兄たちに「私はヨセフです。お父さんはまだ生きておられますか」(3節)と言います。兄たちは、目の前のエジプトの大臣が通訳抜きで自分たちと同じ言葉で、しかも自分たちと同じなまりの言葉で話し始めたのですから、それだけでも腰を抜かすほど驚いたことでしょう。恐らく絶句したまま、しばらくは声も出なかったのではないでしょうか。
(6)神の計画の中で
それを見越してヨセフは、こう続けました。
「しかし今は、私をここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神が私をあなたたちより先にお遣わしになったのです。」(5節)
ヨセフは、兄たちを恨まなかったことはないと思います。ヨセフも人間です。恐らく、ヨセフにとっても、特に最初のうちはつらい日々であったに違いありません。しかしながら神様は、その都度その都度、必要な助けを備えて、その危機を乗り越えさせてくださいました。そして、今エジプトの大臣にまでなって、ようやく神様がこの道をつけてくださっていたということ、そして神様のみ旨を身をもって生きる人間になれるよう、ふさわしい試練が与えられていたのだということが見えてきたのであろうと思います。
確かに、これまでヨセフが受けた試練は、人間の悪い思いによるものです。兄たちがヨセフを奴隷として売ったことは、どこまでもその責任、その罪が消えるわけではありません。しかし神様はその罪をも用いて、計画を遂行されるのです。不思議な形で、み業の中に取り込まれるのです。
この度のロシアによるウクライナ人の強制連行は、そう簡単に神様の意志があるということはできないでしょう。今の段階では何としてでもその行為をやめさせなければなりません。それが大前提です。特にその当事者ではない私たちが、ここで神の意志を持ち出すことはしてはならないことでしょう。それは当事者の人たちが、後々になって振り返った時に、はじめて口にすることができることです。しかも必ずという訳ではないでしょう。
またそれを行った人たちの罪は決して正当化できるものではありません。しかしそれでも神様は、その痛ましい出来事も、やがて思いもよらぬ形で計画の中に取り入れてくださると信じるのです。ただそれを傍観者としてではなく、そこには私たちも、その神様の計画に組み込まれていることを考えていきたいと思うのです。
(7)悔やむことと悔い改めること
「しかし今は、私をここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神が私をあなたたちより先にお遣わしになったのです。」(5節)この言葉を、私たちはあまり軽々しく聞くべきではないでしょう。「悔やむ必要はない」ということは、「悔い改める必要がない」ということではありません。
彼らは、悔い改めたのです。14章のユダの訴え、「ベニヤミンの身代わりとして、自分を奴隷にしてください」という訴えがそれを示しています。その悔い改めの上に立って、ヨセフは語っているのです。
もちろん悔い改めがないところでも、神のドラマ、神の計画は進んでいきます。しかしその事実の意味が本当にわかるのは、悔い改めを伴う時だけでしょう。ヨセフは、こう続けます。
「神が私をあなたたちより先にお遣わしになったのは、この地で生き残る者をあなたがたに与え、あなたがたを生き長らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。私をここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。」(7~8節)
「生き残る者」というのは子孫のことです。ヤコブの家族の救いに、後のイスラエル民族(12部族全体)の救いが重ね合わせられているのでしょう。
ヨセフは兄たちに向かって、「私をここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です」と語りました。もちろん、ヨセフを奴隷として売り渡したのは兄たちであることに変わりはありません。しかしそう言うことによって、ヨセフは兄たちを赦していることを言い表しています。
自分に悪をなした相手に対して、こう語ることができるのは、何と幸いなことでしょうか。罪の歴史の中に、神の救いの業をこのように見抜くとは何と幸いなことでしょうか。歴史の中に、人生の中に、しかも愚かな歩みの中に、神の救いの業の進展を見抜く者は何と幸いなことでしょうか。信仰をもつことの深い意味は、まさにこのことを知ることであります。
(8)もう一つの救済計画
さて神は、その後、さらに「大いなる救いに至らせるために」別の救済計画を実行されることになります。「大いなる救いに至らせるために」別の方を遣わされることになるのです。
「時が満ちると、神は、その御子を女から生まれた者、律法の下(もと)に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の下にある者を贖い出し、私たちに子としての身分を授けるためでした。」(ガラテヤ4:4~5)
ヨセフは穴の中に落とされましたが、その方は、神のおられる高い天からこの地上へと降りて来られました。
ヨセフはエジプトという異郷の地へ売られましたが、その方は天の故郷から地上という異郷の地へ来られました。
ヨセフはエジプト人の奴隷になりましたが、その方はすべての人に仕える僕(奴隷)になられました。
ヨセフは、それらの試練を乗り越えて、エジプト全国を治める者として高く上げられることになりましたが、その方はさらに深くくだりきることによって、逆に高く上げられ、この世界全体を治めるまことの王となられました。王の中の王、キング・オブ・キングズとなられました。それはクリスマスの夜に起きた出来事でした。
兄弟たちは父のもとへ帰りました。「死んだはずの者が生きていた」。このことは兄たちには恐れをもたらしましたが、それを乗り越えて、和解を伴う喜びをもたらしました。
父ヤコブにとっては、まさに「死んだはずの者が生きていた」というよりは、「死んだ者が生き返った」という復活のメッセージであったのではないでしょうか。
「うれしいことだ。息子のヨセフがまだ生きていたとは。さあ行って、死ぬ前に顔を見たいものだ。」(45:28)
ヤコブは、そう言うのです。
「命を救うために、神が私をあなたがたより先にお遣わしになったのです。」(45:5)
これはヨセフが兄たちに語った言葉でしたが、私たちはこの言葉をあたかもイエス・キリストが語られたように聞くことができるのではないでしょうか。ヨセフにおいて神がなされたことを超える出来事が、イエス・キリストにおいて起こったのです。