2022年2月27日説教「犠牲の献げもの」松本敏之牧師
創世記21章1~19節
マタイによる福音書26章39節
(1)アブラハム物語
鹿児島加治屋町教会の聖書日課、新約聖書は1月で終わり、2月から旧約聖書に入り、最初の書物である創世記を読んでいます。
2月6日には、「天と地の創造」の話をいたしましたが、その時に、創世記は二つの部分に分けることができると、申し上げました。第一部は11章までで原初の物語と呼ばれます。第二部は12章から50章までで、族長物語と呼ばれます。アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフを中心にした物語です。第一部はいわば神話のような物語でしたが、第二部の族長物語は歴史とかかわっています。
族長物語の最初、アブラハムの物語は次のように始まります。創世記12章です。
「主はアブラムに言われた。『あなたは生まれた地と親族、父の家を離れ、私が示す地に行きなさい。』」(創世記12:1)
「アブラムは、主が告げられたとおりに出かけて行った。ロトも一緒に行った。アブラムはハランを出たとき75歳であった。」(創世記12:4)
歴史に基づく聖書の信仰は、ここから始まるのです。わかるのはほんの片鱗程度のことですが、「かつて(実際には紀元前1800年頃ですが)、神様の召命と信じて、カルデヤのほうからカナンに向けて出て行った人がいた。その人こそ、自分たちの信仰の父である。」そう信じた人たちから、聖書の信仰は始まるのです。ですから聖書の中で歴史的にさかのぼりうる最古の人物はアブラハムであると言ってもよいでしょう。ノアなどはさかのぼることはできないのです。
今日は、アブラハム物語の中でも、22章の「イサク奉献」(ユダヤ教の伝統では「イサクの縛り」)の物語に焦点をあててお話をします。アブラハム物語にはさまざまな要素がありますが、この「イサク奉献」は、そのクライマックスであると言ってもよいでしょう。
創世記22章1節後半は、このように記されます。
「神が、『アブラハムよ』と呼びかけると、彼は、『はい、ここにおります』と答えた。神は言われた。『あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして私が示す一つの山で、彼を焼き尽くすいけにえとして献げなさい。」(創世紀22:1~2)
(2)黙々と従うアブラハム
アブラハムには、女奴隷ハガルから生まれたもう一人の息子イシュマエルがいましたが、すでにハガルと出て行ってしまいましたので、確かにこの時は、アブラハムにとってイサクは独り子です。しかも神様の約束が実現するための大切な器です。彼にとってイサクを献げるということは、最も大切なものを断念することであると同時に、25年間待ち続けて、ようやく確かなものとなりかけた神の約束がふいになってしまうことでもありました。
アブラハムが、このときどう思ったかということは、聖書は何も記していません。彼は黙々とその命令に従っていくのです。アブラハムは、このことを誰にも告げることができません。妻のサラには話したのではないかという人もいますが、私はできなかったと思います。ただひとり神に向かい、問いかけたことでしょう。
「神様、どうしてですか。どうしてこんな目に遭わなければならないのですか。一体このことにどんな意味があるのですか。あなたはイサクの子孫のために永遠の契約をたてると言われたではありませんか。そのイサクを献げよというのは、つじつまが合わないではありませんか。」
イエス・キリストのゲツセマネの祈りを彷彿とさせるものが、ここにはあります。
彼は次の朝早く、ろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の従者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行きました。重い旅です。この旅は三日かかりました。
(3)神が備えられる
三日経ち、山が見えたときに、一緒に連れて来た従者をそこへ残しました。
「ろばと一緒にここにいなさい。私と子どもはあそこまで行き、礼拝をしてまた戻ってくる。」(創世記22:5)
息子イサクは父アブラハムに尋ねました。
「火と薪はここにありますが、焼き尽くすいけにえにする小羊はどこですか。」(創世記22:7)
アブラハムは、こう答えます。
「息子よ、焼き尽くすいけにえの小羊は神ご自身が備えてくださる。」(創世記22:8)
これが、神に問いかける中で、アブラハムが見いだした答えでありました。ただしこれは、「神がきっと直前で止めてくださるに違いない」ということではありません。何が起こるか、最後の最後までわからない。彼としては、粛々とその命令に従っていくだけです。たとえ自分にとって好ましい道でなかったとしても、神が最もよいとされる道を備えられることを信じて、そこにすべてを委ねていくのです。
アブラハムは、イサクがどのように生まれたかを知っていました。アブラハムはまた、人はただ神の恵みによってのみ生かされるものであることを知っていました。彼自身も、やがて死んで塵に帰っていきます。生も死もすべて、神が支配しておられるのです。この厳粛な事実の上で、矛盾としか思えない過酷な試練の中にあって、「たとえ死んでも生かされる、それが神の道であれば」、と信じたのではないでしょうか。信仰のきわみです。
(4)神が試みる
神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せました。手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとしたその瞬間に、天から主の使いが呼びかけます。「アブラハム、アブラハム。」
彼が「はい、ここにおります」と答えると、こう告げられました。
「その子に手を下してはならない。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが今、分かった。あなたは、自分の息子、自分の独り子を私のために惜しまなかった。」(創世記22:12)
アブラハムが目上げて見ると、代りの犠牲の小羊が備えられていました。アブラハムは、その場所をヤハウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けます。かつての口語訳聖書では「アドナイ・エレ」と訳されていました。「主の山に、備えあり」ということです。
私たちは、この結末を聞いてほっとするでしょう。しかし私は、この物語を結末から理解すべきではないと思います。本質的なことはすでに前半に含まれているのです。
私たちは、このイサク奉献という物語を、どう理解すればよいのでしょうか。
冒頭に「これらのことの後、神はアブラハムを試みられた。」(創世記22:1)と記されていました。
このことは私たちを戸惑わせます。神が人間を試みられるのか。しかし現実の問題としては、私たちは時にそういう事態に直面させられます。「なぜ神様は戦争を止めてくださらないのか。」今まさにロシアの大統領がウクライナに対して始めた戦争もそうでしょう。ロシア軍がウクライナに侵攻し、首都キエフを制圧しようとしている。「どうして神はこんなことを許しておられるのか。」もちろん許されるはずはない。何かしらの意味があるに違いないと思いますが、今まさに犠牲が起こっている当事者にとっては、そういう問いにならざるを得ないでしょう。
自然災害にしてもそうです。東日本大震災の時にもそういう問いが自然に出てきました。「神はどうしてこんなひどいことをなさるのか。」「はたしてこのことに、神はかかわっておられるのか。」「どうして神はこんな試練を与えられるのか。あるいは神から私たちを引き離そうとするサタンの誘惑なのか。」信仰をもって生きるということは、どこかで多かれ少なかれ、こうした問いと真剣に向き合うことを余儀なくされるものです。この物語は、私たちの理解を完全に超えたところにあります。私たちには判断不可能なことを含んでいます。
森有正は「この不条理な物語から、教訓などを引き出すべきではない」と言って、次のように続けました。
「私どもの生涯の中で、いつの時か、決して他人の教訓にはなり得ない、しかし私どもにとっては本質的なことが起こるものである、ということです。本当にこのクルーシャル(crucial、決定的に重要なこと)なことが、本当に本質的なことが私どもに起こることがある。それがどういう形で来るか、全くわからない。また一般化して考えることもできません。しかし、それが起こって来た時、私どもは黙ってそれに対処しなければならない。」(『アブラハムの生涯』109頁)
(5)映画「パリよ、永遠に」
確かに、この「イサク奉献」の話は、私たちの理解を超えたところにあります。そして親が自分の子どもに実際に手をかけて殺すということは、そうあることではないかもしれませんが、実質的に、それと同じことを神が命じられるということはあるのではないでしょうか。そのことを考えさせられる二つのケースを紹介しましょう。
ひとつは「パリよ、永遠に」という映画で描かれていることです。20014年のフランス映画です。第二次世界大戦末期の実話に基づいた映画です。
舞台は1944年8月のパリです。当時パリはナチス・ドイツ軍占領下にありました。ドイツ軍は、連合軍の侵攻が目前に迫る中、パリ全体を破壊しようとして、本国からの爆破命令を待つばかりになっています。ノートルダム大聖堂、ルーヴル美術館、エッフェル塔など、要所要所に爆弾を仕掛けているのです。そうした時、ドイツの総司令官コルティッツのもとへ「秘密の道」を通って、スウェーデン総領事ノルドリンクがいきなりコルティッツの部屋にやってきます。この作戦をやめさせる秘密交渉のためでありました。ノルドリンクは、何とかして、爆破をやめさせようと説得しようとするのですが、ナチスから派遣されたコルティッツは、「軍人として黙って命令に従うだけだ」と主張して聞く耳を持ちません。ノルドリンクは「それが異常な命令であってもか」と迫ります。
なんとコルティッツの総司令官室には、「イサクの縛り」のデッサン画がありました。
それを見ながらであったか、ノルドリンクは、ヒトラーの異常な命令に従うコルティッツが「神の異常な命令に黙って従うアブラハムのようだ」と語ります。
ノルドリンクの「ここで爆破したら、戦後、パリがどうなると思うのか。目を覚ませ」という説得に、コルティッツの気持ちは次第に揺れていきます。しかし実はコルティッツには命令に従わざるを得ない弱みがあったのです。それはナチスの「親族連座法」という法律によって、コルティッツが命令に従わなければ、ドイツで彼の妻や子どもたちが処刑されることになっていたのです。二人が本音で話せるようになってから、コルティッツはノルドリンクに「君ならどうする?」と逆に迫ります。ノルドリンクは、一瞬言葉を失ってしまうのです。
ここで「イサク奉献」の物語は先ほどとは新たな意味を持って迫ってきます。この時コルティッツは、まさに神から「自分の子どもをささげよ」と命じられていたということができるのではないでしょうか。私は、この映画全体が、解釈困難な「イサク奉献」物語の優れた例示となっていると言えるのではないかと思いました。
この映画について、私は「からしだね」で取り上げたことがあります。そして今も教会のホームページの「牧師の部屋」の「世界の映画 映画の世界」コーナーで見られますので、興味のある方はどうぞご覧ください。第15回です。
(6)キング牧師の父の言葉
さてもう一つのケースをお話します。ドイツの神学者ベルトルート・クラッパートが、ある講演集の中で紹介しているエピソードです。それは、フリートランダーという知り合いの話だそうです。
フリートランダーは、公民権活動家であったマーチン・ルーサー・キング(ジュニア)牧師が殺された後、キング牧師の父親を訪問し、彼と共にマーチン・ルーサー・キングの墓へ出かけました。キング牧師の父親は突然フリートランダーに訊ねました。「あなたは私の名前を知っていますか?」フリートランダーは答えます。「ええ、もちろんですとも。あなたは、あのあまりにも惨たらしく殺されたマーチン・ルーサー・キングの御父上です!」キングの父親はさらに続けて訊ねます。「あなたは殺されてこの墓の中に横たわっている者の名前を知っていますか?」フリートランダーは答えて言いました。「もちろんです。この人は人種差別の不正に対して立ち上がり、黒人の法と正義のために非暴力で闘い、この非暴力の抵抗のゆえに殺されたわれわれの愛するマーチン・ルーサー・キングです。」
「ちがいます!」とキングの父親は答えました。「私はアブラハムです。そして、ここに横たわっているのは私のイサクなのです! 私は人種差別に対するこの非暴力の抵抗と自由の戦いのために、わが息子を犠牲として捧げなければならなかったのです。私は彼を殺されずにおくことはできなかったのです。私はわが息子を犠牲にしなければならなかったのです!」
キング牧師の父親は、自分をアブラハムと重ね合わせ、息子をイサクと重ね合わせました。このエピソードは、不条理を不条理のままで説明しないで、この物語が何を意味しているのかをよく指し示しているのではないでしょうか(ベルトルート・クラッパート著、武田武長編『ソクラテスの死とキリストの死 日本における講演と説教』247~8頁)。
私たちも、それぞれにこういう問いの前に立たされることがあるのではないでしょうか。神は恵み深い方であると共に、自由な主権をもった方です。私たちの考えを超えたところで、この世界を導き、私たちの人生を導いておられる。信仰というのは、この神の前にあって、この矛盾としか思えない事柄の前で、「神は備えられる」(ヤハウェ・イルエ)という応答をする用意があるということではないでしょうか。
(7)後の日の別の犠牲
イサクの犠牲は、後の日に神ご自身によってなされる、もう一つの犠牲を鮮やかに映し出しています。父の愛する独り子の犠牲です(ヨハネ3:16)。最初は従者を伴っていましたが、最後までついて来た者はいませんでした。二人きりになったところで、息子は父に懇願しました。
「父よ、できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください。」(マタイ26:39)
このときは息子自身が、犠牲が何であるかをはっきりと知っていました。息子は続けます。
「しかし、私の望むようにではなく、御心のままに。」(マタイ26:39)
息子は犠牲のために必要な道具、薪よりもはるかに重いものを背負わされて行きました(ヨハネ19:17)。彼は手向かいもしないで縛られます。なされるがままです。とうとう鉄槌が下されることになります。神は、今度は直前に「待った」をかけられません。犠牲はいたましい最期を遂げました。
「あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」(創世記22:12)
これは、神がアブラハムに対して語った言葉でしたが、ここでは、私たちが神に向かって語る信仰告白の言葉にもなっていると言えるのではないでしょうか。