1. HOME
  2. ブログ
  3. 2022年12月4日説教「貧しい者を引き上げられたから」松本敏之牧師

2022年12月4日説教「貧しい者を引き上げられたから」松本敏之牧師

ルカによる福音書1章46~55節

(1)「だから今日希望がある」2節

待降節(アドベント)第2週目となり、講壇のキャンドルに2つの火がともりました。

今年のアドベント・クリスマスは、「だから今日希望がある」というアルゼンチンの賛美歌をテーマにして過ごしています。今日は、その中の2節の歌詞に注目したいと思います。私の日本語訳ではこういう歌詞です。

「主がおごる者を散らし  高ぶる者を低くし  小さく貧しい者を  引き上げ、ほめられたから  主が私たちのために  その罪ととがを背負い  苦しみと痛みを受け  十字架で死なれたから」

1節と同じように、「~だから」というのが繰り返されますが、1節では4回だったものが2回に減っています。実はスペイン語の原歌詞でも、1節では8回だったものが半分の4回に減っています。ですから日本語でも少し減らしてよいかなと思いました。

元のスペイン語の歌詞を直訳するとこんな感じになります。

「主が貪欲な商人たちを攻撃し、邪悪さや偽善を告発されたから  子どもたちや女性たちを称賛し、腐敗した傲慢な者を非難されたから  私たちの罰である十字架を背負い、私たちの苦しみの苦さを味わわれたから  私たちの罪を受け入れて苦しまれ、すべての人のために死なれたから」

原文で印象的なことは「子どもたちや女性たち」という言葉が入っていることです。私は日本語に入りきらないので、その言葉が象徴するものとして「小さく貧しい者」としました。一長一短があると思います。

1節の歌詞はクリスマスを歌っていましたが、この2節の歌詞は、前半でイエス・キリストの生涯全体の姿勢(どう生きられたか、何を大事にされたか)を歌い、後半で受難を歌っています。

今日は、2節の中でも、特にその前半に心を留めたいと思います。

(2)神殿粛清

この歌詞の背景にある聖書箇所の一つは、イエス・キリストの「宮きよめ」あるいは「神殿粛清」と呼ばれる物語でしょう。これは4つの福音書すべてに出てくる珍しい話ですが、マタイ福音書で見ていきたいと思いますので、マタイ福音書21章12~17節をお開きくださればと、思います(聖書協会共同訳は39ページです)。聖書協会共同訳や新共同訳では、「神殿から商人を追い出す」という題が付けられています。時間の関係で、全部読むのは控えたいと思いますが、最初にこう記されています。

「それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを覆された。」マタイ21:12

この記述に戸惑う人は多いのではないでしょうか。どうも愛に満ちた優しいイエス様のイメージとかけ離れているように思えます。なぜ主イエスは、ここで暴力をふるわれたのでしょうか。

大騒ぎを起こしただけではなく、旧約聖書の言葉を使って、「あなたたちは強盗だ」と言わんばかりです。神殿では、犠牲の動物をささげる習慣になっていましたが、エルサレムに集まってくる巡礼の旅人は、はるばると自分の故郷から動物を引いてくることはできませんので、ここでそれを買い求めるのは自然なことでした。逆に言えば、それはなくてならないお店でした。また犠牲の動物の他にも、儀式のためのさまざまな品物を売る店も必要でした。ここではユダヤの通貨しか通用しなかったので、それぞれの地域のお金を両替する人も必要でした。

ただしよそ者は事情がよくわかりませんし、他に方法もないものですから、足元を見られて高い値段を吹っ掛けられます。観光客ならまだしも、巡礼に来るのは信仰に促されて出てきた人々です。貧しい人々にとっては、エルサレムに出てくるだけでも本当に大変なことであっただろうと思います。

ところがそうした不正な事態を黙認するだけではなく、その後ろで私腹を肥やしていたのが当時の宗教家、すなわち祭司であり、律法学者でした。この商売人や両替人は、いわば彼らの「縄張り」で仕事をさせてもらい、裏でしっかり彼らとつながっていたのです。主イエスは、そうした仕組みを一瞬のうちに見てとられました。境内に入ってみると、神様そっちのけで、お金があたりを支配しています。いったい神様はどこにいるのか。いやどこに押しやられたのか。

ここで主イエスの憤りは、二つのことに向けられています。第一は、神が神として立てられず、「祈りの家」であるべき神殿が汚されていることです。第二は、神殿においてさえ、貧しい人々、立場の弱い人々が犠牲にされ、その上にあぐらをかいている人々がいることです。そうした状況に、主イエスの怒りが爆発します。本当の愛というものは、時に怒りとして爆発するほどの情熱を内に秘めているものでしょう。

(3)弱い立場の人々への思いやり

この事件に続いて、マタイ福音書は主イエスの別の面を記しています。(それを記しているのはマタイだけです)。

「境内では、目の見えない人や足の不自由な人たちが御もとに来たので、イエスは彼らを癒された。」マタイ21:14

彼らは、汚れた人とみなされていたので、本当はここまで来ることができなかったはずですが、騒ぎに紛れて入ってきたのでしょうか。主イエスは、彼らを癒されました。ここでは怒りの主イエスに対して、優しい思いやりの主イエスが対比的に描かれています。しかしその根底にあるのは同じもの、つまり貧しい人々、弱い立場の人々に対する愛と共感です。それがある時には思いやりとして、ある時には憤りとして現れるのです。

その様子を見ていた子どもたちは感動して、「ダビデの子にホサナ」と、主イエスをほめたたえました(マタイ21:15)。祭司長、律法学者には、それがまたおもしろくありません。「子どもたちが何と言っているか、聞こえるか」(同16節)と制止させようとします。しかし主イエスは逆に、こう言われました。

「聞こえる。『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美の歌を整えられた』とあるのを、あなたがたはまだ読んだことがないのか。」マタイ21:16、詩編8:3参照

祭司長、律法学者たちを決定的に敵にまわすような言葉ですが、その毅然とした態度から、主イエスはすでに十字架を覚悟していたであろうことがうかがえます。主イエスのこのような言動が、実はすでに十字架を指し示しているのです。

ですから私たちの「だから今日希望がある」の2節の言葉の前半と後半は、そういうふうにつながっていると言えるでしょう。

(4)マリアの賛歌

さて本日は、この賛美歌に関連して、「マリアの賛歌」と呼ばれるルカ福音書1章46~55節を読んでいただきました。

この歌はラテン語訳聖書の冒頭の言葉をとって、マグニフィカート(あるいはマニフィカート)と呼ばれます。そしてこの部分をテキストにして、昔から歌として歌われてまいりました。今日の礼拝の最後に歌う賛美歌175番もこのマリアの賛歌を歌ったものです。「わが心は あまつ神を 尊み わがたましい 救い主を ほめまつりて喜ぶ」(『讃美歌21』175)

さてこのマリアの賛歌は、マリアが親類のエリサベトを訪ねた時に歌った歌であると言われます。マリアは、天使ガブリエルから、自分が救い主となる子ども(イエス)を生むことになると告げられ、同時にこう告げられました。

「あなたの親類のエリサベトも、老年ながら男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六ヶ月になっている。神にできないことは何一つない。」ルカ1:36

それで急いでエリサベトに会いに行ったのでした。「マリアの賛歌」は、その時の喜びの歌です。

(5)主を「大きくする」

この歌は「私の魂は主を崇め」(47節)と始まります。この「崇める」という言葉は、「大きくする」という言葉です。先ほど申し上げました「マグニフィカート」というのはラテン語で、「私は大きくする」という意味です。「マグニ」というのも「大きい」という意味で、「マグニチュード」という地震用語なども、この「マグニ」から来ています。

つまり「崇める」とは、相手を自分よりも大きくすることです。私たちは、信仰をもつと言っても、その信仰を自分の人生に「役に立つ」ように用いていることがあります。信仰を、自分を大きくするための道具にしてしまったり、自分の人生に彩りを添える飾りにしてしまったりすることがあります。信仰もあるにこしたことはないけれども、なかったらないで絶対に困るという程のものでもない。あくまで自分の人生の中心には自分がいる。神様は、自分の人生をより豊かにしてくれる存在です。でもそれは本当の信仰とは言えるでしょうか。神様を大きくする前に、自分がいるのです。

礼拝をするということは、神様を大きくするということに他なりません。自分を小さくして、神様を大きくするのです。私たちは洗礼を受ける時には、誰しも、そうした気持ちになります。「神様、私の人生の導き手となってください。私の人生の中心にいてください。」ところが、いつしかそうした気持ちも薄れて、別に礼拝をしなくても平気になってしまうことがあります。神様が小さくなってしまうのです。自分の方が大きくなってしまう。そうした中、私たちは、いつも意識的に、神様を礼拝して、神様を大きくする。そう努めていかなければならないでしょう。マリアの場合には、恐らくそんなことを意識もしないで、自然に心が動いて、神様をあがめ、神様をほめたたえたのでありましょう。

(6)小さく、弱い者を顧みられた

その次に、心に留めたいことは、マリアがその理由として掲げていることです。マリアは「この卑しい仕え女にも、目を留めてくださったからです」と歌います。ちなみに、「仕え女」と訳された言葉は新共同訳では「はしため」でした。「はしため」というのは、「女奴隷」という意味の言葉ですから、その言葉を改めたのでしょう。

キリスト教会、特にカトリック教会では、マリアを大きくしてきたかも知れません。カトリック教会では、マリアを「神の母」とか言って、大きな存在にする傾向があります。しかしマリア自身は、救い主の母として、大きな存在にしてもらったから、神様をあがめたのではなかったでしょう。小さな取るに足らない存在であるにもかかわらず、神様は心にかけてくださったからであります。マリアの「謙遜」を表していると思います。

(7)くつがえしが起きる

神が取るに足りないような存在、身分の低い存在に目をかけられた、というのはルカ福音書のその後の大きなテーマになっていきます(ルカ6:20~25等参照)。聖書の神は貧しい人の神であるということ、困難の中にある者の神であるということ、苦しみの底に沈んでいる者の神であるということです。そういう低いところに降られて共に歩み、そこから本当の意味での高いところに引き上げられていくのです。私たちは、そのような神のわざによって、心も高くあげられるのです。それが、ルカ福音書の序曲のように、このマリアの賛歌の中に、すでにあらわれているのです。

このルカ福音書のメッセージは、マリアの賛歌の後半の言葉で、よりはっきりと示されます。

「主は御腕をもって力を振るい、 思い上がる者を追い散らし 権力ある者をその座から引き降ろし、 低い者を高く上げ 飢えた人を良い物で満たし 富める者を何も持たずに追い払い 慈しみを忘れず その僕イスラエルを助けてくださいました。」ルカ1:51~54

「だから今日希望がある」の2節の歌詞は、このマリアの賛歌をもとにしている、ということもできるでしょう。この「マリアの賛歌」の後半の言葉は、何だかクリスマスにふさわしくない不穏なことが記されているように思えます。ある人は、これは革命の歌だと言いました。

私たちはこういう言葉を聞くと、何か不安な気持ちにさせられます。耳障りもよくないので、しばしばマリアの賛歌の前半だけからメッセージを聞き取り、後半を読みすごそうとすることがありますが、それは厳密に言えば、許されないでしょう。かと言って、社会的次元だけで、例えば単純に革命を支持する言葉として読むことも平面的であるように思います。これは終末論的な言葉なのです。最後にイエス・キリストが来られる時に、どういうことが起きるかということです。そこでは、私たち人間の基準と価値観が根底から覆されるということを語っているのです。

(8)「わかちあい」への招き

最後の時には、何かが起こる、神様が直接かかわられて変化させてくださる。マリアの賛歌に込められた意味は、よい意味で、最後には神様が主権を打ち立ててくださるということであろうと思います。「くつがえし」が起きる。終末的逆転であります。そして神様のもとで新しい世界が始まるのです。貧しい側にいる人も、このマリアの言葉を、ただ「そうだ、そうだ。ざまあみろ」という思いで読んだのでは意味がないでしょう。やせがまんで終わる言葉ではない。

神様はそこで何をなさろうとしておられるのか。私たちが今持っている価値観、今持っているもの、それを神様が揺さぶりつつ、くつがえしつつ、それで捨て置くのではなく、もっとよいものを用意してくださっていることを信じたいと思います。

特に、今一番不安を感じている人たち、困っている人たちが、神様の光のもとで歩むことができるようになるということだと思います。ルカ福音書は、それを私たちに告げ、私たちに共に歩むようにと、チャレンジしているのではないでしょうか。私たちはクリスマスを祝う時にも、そうしたルカの視点を忘れないようにしたいと思います。大事なことは、私たちがこの言葉によって、もう一つの視点、今の状態を超えた視点が与えられて、悔い改めて、新しく生き始めることです。

今年のクリスマス、私たちもそのような神様のわざに巻き込まれて、まことの喜びへと導かれたいと思います。

関連記事