2022年12月18日説教「恐れを取り除かれたから」松本敏之牧師
ルカによる福音書1章26~45節
(1)「だから今日希望がある」3節
講壇のキャンドルに四つ灯がともり、待降節(アドベント)第4主日礼拝を迎えました。例年ですと、待降節第4主日の礼拝をクリスマス礼拝とするのですが、今年は12月25日が日曜日ですので、来週の日曜日をクリスマス礼拝といたします。それによって、きっちり教会暦通りに、4回の日曜日をアドベントとして守ることができる年となりました。
今年のクリスマス、鹿児島加治屋町教会では、「だから今日希望がある」というアルゼンチンの賛美歌をめぐるシリーズの説教をしています。今日で4回目となりますが、今日は3節の歌詞を心に留めたいと思います。
日本語版ではこういう歌詞です。
「主がよみがえられたから 死を打ち破られたから もう何も主の御国を さえぎることはできない」
1節で降誕・クリスマスを歌い、2節でイエス・キリストの生涯と受難を歌い、3節では復活・イースターを歌います。この曲はおもしろいことに、3節の歌詞が、1節、2節の歌詞の半分の長さになっています。理由はよくわかりませんが、復活については、聖書がそうであるように、短くて十分、ということかもしれません。あるいはそれも作者の一つのこだわりなのでしょう。私が聴いたスペイン語の演奏では、2節の繰り返しで盛り上がった後、3節ではぐっとテンポを落としてゆっくりと歌い、リタルダンドで更に遅くなった後、繰り返しの「だから今日希望がある」の部分で、ア・テンポ、元のテンポに戻ってしめくくる演奏がありました。とてもかっこいい演奏だと思いました。
さて、3節もスペイン語からの直訳を紹介しましょう。
「夜明けが、嘘と死と恐れに対する彼の(主の)勝利を見たから(目撃したから) もう主の歴史と、永遠の主の国をさえぎるものは何もない」
そういう内容の言葉です。私の日本語訳では、復活なので、「死を打ち破られたから」と「死」で代表させましたが、原語では、嘘と恐れにも打ち勝たれたことを歌っています。
恐れに打ち勝つこと、恐れを取り除くメッセージは、クリスマスの物語にもすでに出てきます。それは、マリアの受胎告知の場面です。
(2)未婚のマリアからの誕生
「六ヶ月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフと言う人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアと言った。」ルカ1:26~27
天使は、彼女のところへ来て、こう告げます。
「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」ルカ1:28
マリアはこの言葉にひどく戸惑います。マリアにはこの挨拶が何を意味するのか、わかりません。それはそうでしょう。彼女は恐れと不安に包まれ、考え込んでしまいました。胸騒ぎがしたことでしょう。すると、天使はこう続けます。
「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と呼ばれる。」ルカ1:31~32
マリアには、それを聞いてもなお、「一体何のことなのか。自分の身に何が起ころうとしているのか」、悟ることはできなかったでしょう。マリアの不安と恐れは、この言葉を聞いて、解決したというわけではありません。いや不安と恐れはさらに大きくなったのではないかと察します。一つは、「そんなことはあるはずがない」という疑い、もう一つは、「どうして自分がそんなことを担いうるのか」という恐れです。しかしマリアは、どうしてよいかわからないまま、次の天使の言葉を聞くのです。
「神にできないことは何一つない。」ルカ1:37
これは聖書を貫いて、あちこちに出てくるメッセージです。
マリアは、他の人と変わらない普通の女性でした。しかもこの時は若い、若い女性でありましたが、このことを受け入れる信仰を持っていました。
「わたしは主の仕え女です。お言葉どおり、この身になりますように」(38節)と応えました。
この時代、大事なことは男が担うというのが常識でありました。ちなみに、マタイ福音書では、主の天使は、同じことを夫になるヨセフに対して告げていますが、ルカでは、マリアに直接打ち明け、マリアもそれを自分の決断で受け入れていくのです。
この当時は、普通、女性は未成年であれば、父親の許可がなければ何事も決められないし、結婚した妻であれば、夫に相談しなければなりませんでした。しかし幸か不幸かマリアには相談する時間もありません。「そんなこと、ヨセフさんが知ったら、一体どうなるでしょう」という思いであったかも知れません。しかしながら、その恐れと不安を超えて、彼女は静かに一人でそれを受け入れていくのです。彼女は、自分の責任で、主体的に、一人で子どもを生む決断をしました。それは大変なことであっただろうと思います。「神にできないことはない」という言葉を受け入れ、そこに自分を賭けていったのです。
(3)エリサベトとマリアの出会い
その後に、マリアとエリサベトの出会いが記されます。マリアの「受胎告知」の箇所に、「あなたの親類エリサベトも、老年ながら男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六ヶ月になっている」(36節)という言葉がありました。
マリアは天使が去った後、急いでこのエリサベトを訪ねます。エリサベトは、1章24節によれば、身ごもってから5ヶ月の間、家に引きこもって身を隠していました。その間、夫のザカリアは、口が利けなくなっていました(1章20節参照)。この間、エリサベトの気持ちはどうであったでしょうか。必ずしも「大喜び」ではなかったであろうと思います。
「今頃、赤ちゃんが与えられても、遅すぎる」という思いではなかったでしょうか。「これから自分は一体何年生きられるか分からない。夫のザカリアも年をとっている。二人が死んでしまったら、この子は一体どうなるのか」という思いもよぎったでしょう。「年老いた自分が妊娠をしているということで、一体、世間の人はどう見るだろうか」という思いもあったかも知れません。恐らくこの5ヶ月というのは、そういう状態から、妊娠を喜びの現実、恵みの現実として受け止めるのに、必要であった期間であったのでしょう。
(4)出会いによって知った神の恵み
それから1ヶ月が経って、若い親類マリアが自分を訪ねてくるのです。そのようにして、エリサベトにはマリアの話を聞く用意が(5カ月の間に)できていました。マリアが来ることは、恐らくエリサベトに対しても知らされていたのではないでしょうか。次のエリサベトの言葉が、それを示しています。
「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子様も祝福されています。私の主のお母様が、私のところに来てくださるとは、何ということでしょう。あなたの挨拶のお声を私が耳にしたとき、胎内の子が喜び躍りました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」ルカ1:42~45
(5)一色義子『水がめを置いて』
私は鹿児島に来る前は、東京・世田谷の経堂緑岡教会という教会で牧師をしていましたが、前任者が一色義子牧師と言って、女性神学で有名な方でした。その一色義子牧師が、著書『水がめを置いて』の中で、このエリサベトとマリアの出会いと交わりを取り上げておられます。そしてそのエリサベトとマリアの交わりを、シスターフッドと呼んでおられます。
「『親族』とは言っていますが、肉親上の姉妹ではない、違う世代の二人の女性の敬愛と、深く信頼しあう姿を学ぶことのできる物語なのです。私はここにシスターフッド(Sisterhood)の原型を見る想いがします」(234頁)。 「ここにシスターフッドをみるのは、この女性たちが、旧約聖書の多くの女性のように、一人の男性の二人の妻という関係ではなく、全く自由な立場で出会っているからです。男性とか結婚とか家庭とかが女性をとりまく絶対的な場として、どんな時にも既往の枠組みであった時代にありながら、この二人の女性の物語の扱い方は、二人だけの出会いをもって記されています」(240頁)。
マリアの場合は、エリサベトの場合よりも深刻です。年端も行かない若い少女が、婚約者によらないで妊娠してしまう。ユダヤ人社会の厳しい道徳、律法のもとでは、殺されるかもしれない。しかしマリアとエリサベトはお互いに励ましあうことの中で、それが乗り越えていくのです。それぞれ子どもを産むにはふさわしくない環境でありながら、お互いに子どもを産む決断をしていくのです。マリアは、まだ妊娠したことをヨセフさんには言っていないようです。
(6)婚外子イエス
私はアメリカに留学中、ジェイン・シェイバーグ(Jane Schaberg)という人の”Illegitimacy of Jesus”(1990)という本を読みました。難しい題名ですが、直訳すれば、『イエスの非嫡出子性』となるでしょうか。もっと平たく言えば、「婚外子イエス」として生まれたこと」というような意味です。(今では差別用語で使われませんが、私生児ということ)。そうしたことを歴史的に、論理的に詳述したフェミニスト神学の本でありました。もっともイエスが婚外子であったということは、昔からイエス・キリストが神の子であることを否定する人たちによって、ずっと言われてきたことですが、シェイバーグのこの本は、むしろその中に積極的な福音を読み取っているのです。
イエス・キリストが婚外子として生まれたこと、言い換えれば救い主は一人で子どもを産む決断をしなければならない女性のもとから生まれたのだということにこそ、メッセージがあるというのです。そのことは、「聖霊によって身ごもった」ということと矛盾することではないと思います。
今日、一人で子どもを産む決断をしなければならない女性、シングルマザーはたくさんいます。その人たちの多くは、経済的にも厳しい状況にあり、差別されたりします。それとまさに同じところに、神の子は宿ったのだということなのです。神学校の教室では(30年前)、激しい賛否両論がありましたが、私は、そうした弱いところ、日の目を見ないところ、誰もがまさかと思うところで、神様の歴史が始まっているというメッセージには、心を打たれました。
(7)映画「モロッコ、彼女たちの朝」
「モロッコ、彼女たちの朝」という映画があります。私は、この映画について、「からしだね」11・12月号の「世界の映画 映画の世界」に書きました。これは2019年の映画ですが、日本で公開された、初めてのモロッコ映画だそうです。モロッコは、このワールドカップで大躍進して、アフリカ勢として初のベスト4に入りました。昨日というか今朝未明12時から2時まで、モロッコ対クロアチアの三位決定戦がありました。つい見てしまいました。モロッコは、惜しくもクロアチアに敗れて4位となりましたが、このワールドカップにおいて、モロッコ旋風を巻き起こしました。
さて、この「モロッコ、彼女たちの朝」という映画に登場する二人の主人公の女性たち、サミアとアブラの関係もシスターフッドと言えるのではないかと思いました。
映画の舞台は、モロッコ最大の都市カサブランカの旧市街です。重荷を負って生きる二人の女性、サミアとアブラの出会いと癒しと再生を描いています。
サミアは未婚の妊婦さんです。先ほどお話したマリアと少し境遇が似ています。イスラム社会モロッコでは、現代にあっても、2000年前のユダヤと同じか、それ以上に厳しい状況であるかもしれません。
婚外交渉と中絶は違法とされています。それゆえに未婚の妊婦は犯罪者のような扱いを受ける。またその人にかかわる人も後ろ指をさされるというのです。映画では、サミアは妊娠がわかり、住み込みの美容師の仕事を失ってしまいます。仕事と住まいを求めて一軒ずつ門を叩くのです。
一方、事故で夫を失ったアブラは、小さなパン屋を営み、幼い娘ワルダと二人暮らしをしています。サミアはアブラの家の門も叩くのですが、サミアとかかわりたくないアブラは彼女を何度も退けようとします。最初は、「今晩だけよ。明日の朝、早く出て行って」などと言うのですが。一人娘のワルダがサミアを慕っていることもあり、少しずつ受け入れていきます。やがてサミアはアブラの仕事、パン作りを手伝うようになるのですが、サミアの作るパンがおいしくて、人気も出てくるのです。
アブラの夫は事故死でした。漁師だったのですが、ある夜、漁から帰ってきた後、すぐにまた出ていかざるを得なくなり、そのまま帰らぬ人となったのです。
アブラは夫の死を受け止めきれず、夫が好きだった音楽がカセットテープに入っているのですが、それにも封印をしています。聴こうとしない。しかしサミアは無理やりその音楽をアブラに聴かせて、アブラを立ち直らせようとします。アブラは、夫の死から埋葬までの様子を、サミアに語り始めました。女の自分は脇に追いやられ、墓へ送ることも許されなかったと。そこで女性としての生きづらさを分かち合い、それを共有することで支えあう関係になっていきます。そこに不思議なシスターフッドが生まれるのです。
サミアは子どもを産んだら、すぐに養子に出し、過去を忘れて、誰にもそのことを言わないで、故郷で結婚をしたいと考えています。生まれてくる子もそのほうが幸せになれると思っています。
アブラは夫との悲しい別れを思い起こしつつ、サミアに「後悔するような別れだけはしないでね」と助言するのです。サミアは赤ちゃんが産まれてくると心が揺れます。子どもには「アダム」という名前を付けました。それは聖書に登場する最初の人間の名前ですから、それは新しい始まりを象徴しているのでしょう。ちなみに映画の原題は「アダム」です。
この映画を通して、イスラム社会において女性が一人で自立して生きることはとても厳しいと思いましたが、同時にモロッコの女性たちのたくましさも感じました。この二人は、そうした厳しい状況の中で励ましあい、支えあい、困難を乗り越えようとするのです。監督のマリヤム・トゥザニさんも女性です。この映画を見ながら、改めてシスターフッドという言葉を思い起こしました。厳しい妊娠を通して心を通わせたマリアとエリサベトのシスターフッドに通じるものがあると思いました。
神様は、マリアに、エリサベトの妊娠を知らせ、そのエリサベトとの間にシスターフッドを育むことによって、マリアの恐れを取り除かれたのだと思います。