2022年11月20日説教「偶 像」松本敏之牧師
出エジプト記20章4~6節 マタイによる福音書6章22~24節
(1)妬む神
今日は十戒の中の、いわゆる第二戒から御言葉を聞いてまいりましょう。
最初の言葉は、聖書協会共同訳では、こうなっています。
「あなたは自分のために彫像を造ってはならない。」出エジプト20:4a
これまでの新共同訳聖書では、「「あなたはいかなる像も造ってはならない」と訳されていました。「自分のために」という言葉がありませんでした。なぜ抜けてしまったのか、もしかして覚えやすいように意識的に抜いていたのかわかりませんが、原文では、きちんと「自分のために」という言葉があります。そして以前の口語訳聖書でも、「自分のために」という言葉がありましたし、その前の文語訳聖書でも「汝自己(おのれ)のために何(なに)の偶像も刻むべからず」というふうに、「自己のために」という言葉がありました。「新改訳聖書」でも「フランシスコ会訳」聖書でも訳出されています。となれば、これは「新共同訳聖書」の重大な誤訳か、あるいは恣意的な訳と言う方がよいかもしれません。しかもその新共同訳版の十戒が『讃美歌21』に93-3として収載されていますので、その責任は重大であると思います。
なぜそこまで言うのかと言えば、この「自分のために」という言葉が、十戒の真意を理解するのにも関係してくるからです。そのことは、あとで触れたいと思いますが、この戒めは、他宗教のことを批判するものではなく、元来、自分たちと神様との関係、自分たちがいかに生きるかということのための戒めなのです。
続きを読んでみますと、こういう記されています。
「上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水にあるものの、いかなる形も造ってはならない。それにひれ伏し、それに仕えてはならない。私は主、あなたの神、妬む神である。私を憎む者には、父の罪を子に、さらに、三代、四代までも問うが、私を愛し、その戒めを守る者には、幾千代にわたって慈しみを示す。」出エジプト20:4b~6
「(私は)妬む神である」という部分は、新共同訳聖書では「わたしは熱情の神である」と少し意訳されていました。「妬む神」というと、どうもネガティブな面が強調されて、神様は心の狭い方だと誤解されるきらいがありますので、「熱情の神」という訳は、私は好きでした。新しい訳では、やはり原文に近い「妬む」という言葉に戻したのでしょう。「私を憎む者には、父の罪を子に、さらに、三代、四代までも問う」というのは「妬み」「罰」の面を表しているようです。ちなみに「憎む」と訳された言葉は、新共同訳聖書では「否む」でした。これは原語の言葉は「憎む」というニュアンスですが、内容的には「否む」のほうがぴんと来るかと思います。神様を積極的に「憎む」という人はそう多くないでしょうが、「否む」「否定する」人は多いでしょう。その後で、「私を愛し、その戒めを守る者には、幾千代にわたって慈しみを示す」と記されています。神の恵みは妬みや罰をはるかに超えているのです。そもそも「妬み」というのは、強い熱情や愛情の一つの表れ方であると思いますが、「熱情の神」というのは包括的なニュアンスがあってよかったなと思っていました。ちなみに岩波書店の訳では、「熱愛の神」と、印象的な言葉に訳されています。
(2)十戒の数え方
さて、この「私を憎む者」以下の説明は、第一戒の「あなたには、私をおいてほかに神々があってはならない」とも関係があるものです。むしろ今回の第二戒よりも第一戒との関係の方が深いと思います。
実を言いますと、十戒には、幾つかの数え方があります。第一戒と、私たちが第二戒と呼んでいるものをあわせて、一つと数えることもあるのです。
カルヴァンの伝統の改革派教会をはじめとして、ほとんどのプロテスタント教会では、私たちが、今回しているように、この偶像崇拝禁止の戒めを、第二戒と数えています(『讃美歌21』の93-3でもそういう数え方をしています)。ギリシャ正教でも同じです。
しかしながらローマ・カトリック教会、またプロテスタント教会でも比較的カトリック教会の要素を残しているルーテル教会では少し数え方が違うのです。この「あなたは自分のために彫像を造ってはならない」というのを、第一戒の続きとして読むのです。ですから「偶像の禁止」というのが、あまり前面に出てこないのです。それでは全部で九つにしかならないことになりそうです。どうするかと言うと、最後の戒め、私たちが第十戒と数えているものを、「隣人の家を欲してはならない」というのと、「隣人の妻、男女の奴隷、牛とろばなど、隣人のものを一切欲してはならない」というのを、二つに分けて、第九戒、第十戒とするのです。
本家本元のユダヤ教ではどうかと言いますと、やはりローマ・カトリックやルーテル教会と同じように、最初の二つの戒めを一つと数えます。しかし最後の戒めは改革派、メソジストと同じように一つと数えます。そうするとやはり九つにしかなりません。まあ九つでもよいかと思われますが、そうはいかない面もあるのです。出エジプト記34章に、こういう言葉があるのです。
「モーセはそこに、四十日四十夜主と共にいて、パンも食べず、水も飲まなかった。彼は、板の上に契約の言葉、十の言葉を書き記した。」出エジプト記34:28
この「十の言葉」から、十戒と呼ばれるようになるからです。ただしここからもわかるように、もともとは「十の戒め」ではなく、「十の言葉」でした。さてユダヤ教の数え方に戻りますと、戒めの部分は、先ほど申し上げたように、全部で九つなのですが、私たちが序文と呼んでいる言葉、「私は主、あなたの神、あなたをエジプト地、奴隷の家から導き出した者である」という言葉を、第一の言葉と数えるのです。
さて少し煩雑な説明になりましたが、これはただ単に知識ということだけではなく、十戒の内容を理解する上でも意味があると思います。特に第一戒といわゆる第二戒は切り離せないものであることを、ご理解いただきたいと思いました。
(3)神は像の中にはいない
それではこのいわゆる第二戒は、一体何を禁じているのでしょうか。これも、実は二つの解釈があるのです。
一つは、「まことの神(ヤハウェ)以外の他の神々の像を刻んで拝んではならない」ということです。先ほど来、申し上げていますように、これは第一戒を別の表現で、深めているということができるでしょう。
もう一つの理解の仕方は、自分たちの「神の像(ヤハウェの像)を、刻んで拝んではならない」ということです。先ほどの「自分のために」という言葉が入っていると申し上げましたが、むしろこちらの理解の仕方のほうが本来的であるように思われます。
神様というお方は、どこかの像に納まるようなお方ではない。人間が何か形を作るならば、その中には神様はいないのだ。刻んで拝み始めたとたんに、偶像になってしまうのだということです。ただしこの二つ目の理解が第一義的であるにしても、一つ目の理解も重要であると思います。
神が人を造られた。聖書は高らかにそう宣言するのです。人が神の像を造る時に、それが逆転し、矛盾に陥ってしまうのです。預言者たちも、そのことを何度も何度も語ってきました。その中の一つ、イザヤ書の言葉をご紹介します。
「偶像を形づくる者は皆、空しく 彼らが慕うものは役に立たない。 彼ら自身が証人だ。 彼らは見ることもできず、知ることもできず ただ恥じ入るだけだ。」イザヤ書44:9
「木工は測り縄を張り、筆で印を付け 小刀で造り上げ、コンパスで印を付け 人の形に似せて 人間の美しさに似せて造り、神殿に置く。」イザヤ書44:13
人間が、人の形に似せ、人間の美しさにそれを似せて神を作る。そんな人間の作ったモノを、神と呼べるか。逆さまだ。本当は、神様が人間を造った。そのことにこそ目を向けなければならないのに、人間は神の像を造りたがり、それを拝みたがる。
預言者はさらにこう言います。
「彼は杉を切り 松や樫の木を選んで 林の木々の中で育てる。 また、月桂樹を植え、雨がそれを成長させる。 それは自分の薪となる。 人はそれを取って暖まり 燃やしてパンを焼く。 さらに、神を造ってそれを拝み 偶像に仕立ててその前にひれ伏す。」イザヤ書44:14~15
「残りの半分を神に造り上げ、自分の偶像とし その前にひれ伏し、祈って言う。 『救ってください。あなたは私の神だから』と」イザヤ書44:17
「自分の偶像」と記されていますが、偶像を拝むということは、まさに、自分に都合のいいように神様を立てることです。自分の願いをかなえてくださる神様。それを私たちは造り、拝みたがるのです。そんな神は力がない。それは客観的に見ればわかることです。預言者(第二)イザヤが示している通りです。あなたがたが今、していることは、まさにそれだというのです。
それを拝んでいる本人は気づいていないのでしょうか。いや無意識のうちに力がないからかえってよい、と思っているのかも知れません。自分の都合によってそれを拝み、都合が悪くなれば、それを処分することができる。そういう神様を、私たちはお守りとして大事にもっていたがるのです。
多くの日本人は、ある時は神社に行って拝み、ある時はお寺に行って拝み、ある時は教会に行って礼拝をします。それは一見、信仰的に見えますが、実はどの神様をも本当は信じていないのではないでしょうか。自分で神様を勝手に取捨選択しているのです。本音のところでは、神様が自分の生活に深い影響力をもっていては困ると思っているのではないでしょうか。
(4)宗教芸術との関係
偶像を刻んで拝む、ということで、さまざまな宗教芸術との関係についても考えさせられます。私たちが印象に残っていることとしては、アフガニスタンのイスラム原理主義を掲げるタリバーンが以前に政権を取っていた時に、バーミヤンというところにある巨大な石仏を爆弾で破壊するという野蛮な事件がありました。イスラム教では、偶像禁止の戒めがもっと直接的、もっと厳格に理解されています。ましてや原理主義となりますと、「あんな石仏はとんでもない」ということになったのでしょう。それは一種の文化否定です。私は、そうした宗教芸術や文化が必ずしもそのまま偶像崇拝になるとは思いません。イスラム原理主義に限らず、日本に入ってきたキリスト教も、まさにそうした野蛮な面がなかったわけではありません。外国からやって来た宣教師たちは、「クリスチャンになったら、仏壇は捨ててしまいなさい。処分してしまいなさい」と指導したようです。それをしないと、「本当のクリスチャンになれないのか」と悩んだクリスチャンもたくさんいたことでしょう。しかし私は無理にそんなことをする必要はないと思います。
(5)お焼香などについて
お焼香という行為についても、偶像崇拝と考える人もいますが、私自身は、それは偶像崇拝とは考えません。お焼香という行為は、私にとってそれは亡くなった方の信仰に対する敬意を表することであって、偶像崇拝ではないと思います。ただ私がそれをすることで誰かをつまずかせるようであれば、偶像に献げられた肉を食べてよいかどうかについて述べたように(コリント一8:12~13)、それが誰かをつまずかせることにならないかどうか、配慮をします。もっとも逆にそれをしないことで誰かをつまずかせるならば、それも配慮しなければなりません。どちらかかと言えば、後者のほうが多いでしょう。そうした事柄から判断すればよいことであろうと思います。
(6)もっとこわい偶像
私にとって、なぜそれが偶像崇拝にあたらないと考えるのかと言えば、それは私の信仰を脅かすものではないからです。偶像とは、神様に取って代わって、神様の位置を占めてくるような何かです。仏像を見ることとか、仏壇の前で手を合わせることで、私は自分の信仰が脅かされるとは思いません。ただしそれが政治的意味合いをもってくる場合は別です。靖国神社参拝などのような場合です。その時には、偶像崇拝的な意味合いをもってくる。それを見極めることが、なかなか難しいのですが、基本的にはそういうことであろうと思います。
むしろ私には、目に見えないような形で、神様に取って代わろうとするものがある。私に迫ってくるのは、「私を拝め」と迫ってくるものはもっと別のものです。それは身近なところではお金であり、お金を象徴する何かしらの文化です。そちらに頭を下げたくなる。またある時には武力であったり、権力であったりします。そちらのほうが神様よりも力あるように見える。神様に頼るよりも、お金に頼ろうとする。神様に頼ろうとするよりも、力に頼ろうとする。私はそうした事柄の中に、もっと根深い偶像崇拝の危険性を感じるのです。この「偶像」は、気がつかない形で私たちに忍び寄ってきますから、目に見える「像」よりもたちが悪いし、こわいです。
前回は、マタイ福音書6章24節の言葉を読みました。
「誰も、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を疎んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」マタイ6:24
神様に取って代わって、私の主人になろうとするのは、「富」だということがいみじくも示されています。私たちはそれを神とは思っていません。自分の自由になる単なるモノだと考えています。
ところが、そのモノであるはずの何かがいつのまにか自分の主人の座を占めるようになり、自分を支配してくるのです。いつしかそれにとらわれてがんじがらめになり、それを失わないために、他のものを犠牲にするようになってしまう。モノが神になる時に、私たちの方がいつのまにかその奴隷、僕になってしまうのです。
私たちはまことの神様を拝むと言いながら、実はそれ以外のものに頼ろうとしていないでしょうか。神様だけだと頼りないから、同時にお金にも頼る。神様だけだと頼りないから、同時に武力にも頼る。それが自分を守ってくれる。国を守ってくれる。そう思っているのではないでしょうか。
(7)真っ直ぐに神を見つめて
そうした偶像崇拝の誘惑の中、私たちはどのようにして信仰を保っていけばいいのでしょうか。それは「まことの神様以外の何者をも神としない」という第一戒を徹底する以外にないのではないでしょうか。
先ほどのマタイ福音書のすぐ前の箇所に、こう記されています。
「目は体の灯である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、目が悪ければ、全身も暗い。」マタイ6:22
「目が澄んでいる」とは、「焦点があっている」という意味です。「目が悪い」とは、逆に「焦点があっていない」ということです。二つのものを同時に見ようとする時、私たちの目は暗くなるのです。新共同訳聖書の言葉で言えば「目は濁る」のです。真っ直ぐに神様を見つめ、イエス・キリストを見つめて、信仰の道を歩んでまいりましょう。