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2022年10月30日説教「お前たちは生き返る」バプテスト鹿児島キリスト教会 田渕亮牧師

エゼキエル書37章1~9節

本日は、加治屋町教会にて、交換講壇として、皆さまと一緒に主を礼拝できますこと、心より感謝いたします。調べてみますと2018年8月に交換講壇をしており、5年ぶりになります。今回は、こちらのバプテスト教会から松本先生のお話を聞きたいとなって、交換講壇となりました。松本先生はもう優れた先生でいいのですが、問題は、足りない私の話を聞かされる皆さんはどうなるのかです。

たまたま10月のNHKのEテレの「100分de名著」という番組を、私は好きでよく見ているのです。今、日本民俗学の『折口信夫』をしております。この第1回がなんと「日本人にとって神とはなにか」がテーマになっておりました。折口民俗学からの答えは、日本人にとって神とは、「まれひと」であるというのです。折口は日本全国を調べて回って、東北の「なまはげ」から南は沖縄の宮古島の来訪神「パントゥ」までを調べ上げて、共通項を見つけ「まれひと」が日本人の神様の根源でないかと言うのです。あっているかどうかは私には、わかりませんが、なるほどと思うのです。私たちは、時々違った人から話を聞きたいのでないか。それは、日本に住む私たちは、自分といつもとは違った人に、神様が宿られるという民族性をもっているらしいのです。はてさて、私の場合もそうなるのかどうかですが、共に聖書から聞いていきましょう。

 

本日は、交換講壇の聖書としてエゼキエル書37章を示されました。教会に長い方は、エゼキエル37章と言えば、旧約ヘブライ聖書の数少ない復活を預言した箇所だと思い出されるでしょう。もしかしたら、どうしてまたイースター復活祭でもあるまいし、こんなところから開くかなと思われる方もあるかもしれません。しかし、どうしたものか、神様の新しい力を新たに受けて、枯れた骨が再び力を得て、復活するという約束から聞いて見たいと示されています。それは、真の教会はどこにあっても、またどんな時代にあっても、困難と苦難の中にあり、いろいろな事件が起こり、神様を見失い、意気消沈してしまうからです。ある意味で、復活の力は、イースターの時にお祭りとして思い出すのみでなく、毎週礼拝毎に、また毎日が神様の復活のみ言葉で励まされて、キリスト者は生きて、歩むのだと思うのです。

1節にありますように、この枯れた骨の復活予言は「主の手が私の上に臨んだ」で始まります。これは、エゼキエルが預言者として立てられた1章3節と、エルサレムの堕落予言をなす8章1節と、そしてこの37章1節、最後の40章1節の新しい神殿の幻の預言と4回のみあるのです。「主の手が私に臨んだ」は、エゼキエルの預言の4つの単位の転換点とも言われ、非常に大切な分岐点になっています。大枠でいうとエゼキエルは、ここまではずっとエルサレムの審判預言をしているのですが、ここからエルサレムの回復預言、復活預言になっていくのです。

 

1節にはエゼキエルは、ある意味で突然、主の霊によって連れ出されて、バビロン捕囚民の中にいたはずですが、イスラエルのエルサレム近くの古戦場に連れて来られます。これは、幻の中の出来事いう説と本当に体ごと瞬間移動しているという説とあります。この古戦場には、バビロン第2次捕囚の時に、戦った多くのイスラエルの人々の骨が野ざらし状態でありました。本来は、戦争が終わってきちんと埋葬してあげるはずですが、数が多いのとイスラエル軍はある意味で全滅し、バビロンへ連行、拉致されたので、それどころではなかったようなのです。

2節には、エゼキエルが、幻か現実かですが、行き巡ってみるとこの谷の骨はカラカラに乾いておりました。実は、イスラエルでは、濡れた骨には、まだ命が残っているとかの観念があったそうです。しかし、カラカラの骨はまさに完全な死を意味したそうです。骨ですので、乾いておろうが湿っておろうが、どちらも死んでいることに変わりないです。しかし、エゼキエルは全く希望がない、完全に死んでいることを示したかったようです。私たちも、自分の信仰や教会の信仰が、まだなんとかなると言える状態、これはもうどうにもならんという状態、まったく希望のかけらもなく、このまま死んでしまうという状態とあるのだと思います。エゼキエルは、この骨は後でイスラエルを示すのですが、まったく希望がなく、手の打ちようがなく、滅びるしかない状態、滅びてしまった状態を言うのです。

3節に、幻の中でエゼキエルは「これらの骨は生き返ることができるのか」と主から聞かれます。ここは、エゼキエルは「当然です」と言いたかったと思います。しかし、「主なる神よ、あなたのみがご存じです」と答えています。私たちは聖書を読んでいて、死後の命があるのかどうか、特に旧約ヘブライ書だけ読む時には、明快な答えがなかなかでないことに気づきます。しかし、死後の命の明快な答えがないということと答えがないということは少し違います。エゼキエルは「必ず生き返ります」と言う答えを出す前に「すべてを主に委ねます」と答えているのだと思います。旧約ヘブライ聖書の信仰は、死後にどうなるのかというぎりぎりの問題に対しては、主に期待し、徹頭徹尾、主に委ねていると言えると思います。

 

これはヨブ記をどうとらえるかにかかります。ヨブ記38章で最後に、4人の友人とヨブとの対話の後に、神様ご自身がヨブに顕現し、現れてくださいました。あれだけヨブは、神様に悪態をつき、質問をし、問いを出したのに、38章の神様の顕現で本当にヨブは納得したのか。また納得したとして、神様の顕現の何に納得したのかが言われています。ある解説書では、ヨブにしか分からない答えを神様が出してくださって、納得したと言われています。聖書として書いてある部分で、ヨブは納得したのではないとも言われています。ヨブは、どんなに神様に悪態をつき、問いをだし、反抗しても、神様はいないとか、神様は回答されないとはけっして言いませんでした。最後まで、神様との格闘を続け、主の答えを求めてやみませんでした。

 

この姿は、族長のヤコブが父イサクのところから逃げて、ラバンのところで財産を築き上げ、しかし、その狡猾な力もどうにもならなくなって、また約束の地、エサウの所に帰らなければならないところにも示されます。創世記32章のペヌエルでの何者かおそらく天使との格闘です。ここは様々な取り方がありますが、根底はヤコブの腿の関節を外された事、つまり神様に負けることが祝福を受けることになったということでしょう。ヤコブは、自分の力を打たれて、神様はヤコブを祝福される、ただそのことを信じて前進するしかなかった。自分が兄エサウの祝福を奪い、甥のラバンの所で狡猾に自分の羊をつまり財産を増やしたことも、捨てるしかない。関節を外されるしかない、打たれるしかない。そして、主の示しに従って行くということです。

 

4節に、幻の中で主は、エゼキエルに言われます。「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主のみ言葉を聞け」。5節に「見よ、私はお前たちの中に霊を吹き込む。するとお前たちは生き返る」。主のみ言葉は働いて、枯れた骨を生き返らせてくださるというのです。神のみ言葉と神の霊が、枯れた骨を生き返らせるというのです。幻ですから、ここには根拠を求めてもどうしようもないと思います。なんでそうなると言われても、明快な答えはありません。

ちょうどペテロが最初にイエス様に出会った時に、ガリラヤア湖では昼に魚は取れないと十二分に知っているペテロが、イエス様にルカ伝5章5節に「網をおろしてみなさい」と言われて「お言葉ですから網をおろしてみましょう」とそうしたことが重なります。エゼキエルは、骨がどうなるのか委ねるのです。しかし神様に言われた通りに預言してみたのです。私たちは、ここにもイスラエルを支えてきた根底の信仰を見ていいのだと思います。イスラエルは、中近東の小さい民族です。イスラエルの前に、エジプトがありアッシリアがあります。イスラエルは後発の小国です。しかし、イスラエルはなぜか、神に選ばれ用いられ、イエス様を出す民族となりました。それは、選ばれたけれども失敗し、恵みを与えられるけれども神様に反抗するのです。しかしなお神の言葉を求めてやまない民族でありました。イスラエルはアモス8章11節にあるように「パンに飢えることでなく、水に渇くことでなく、主のみ言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きを」一番恐れた民だったのです。まさに「人はパンのみ生きるのではなく、神の言葉によって生きる」申命記8章3節を生きた民でありました。

 

私達は、現代においても全く先が見えない中にあります。コロナ感染の疫病は、もしかしたらこの7波で終わるのか、また8波がくるのか。これでおしまいと言う人もいますが、また流行ると言う人もいます。ロシアとウクライナの戦闘は、ロシアが予備役の徴収を終了したとされて、ますますどちらも負けられない戦いになっています。停戦してくれと祈り願いますが、どうなるのか今のところさっぱりです。アメリカはちゃんとシナリオをもって戦っているはずと言う人もいますがどうでしょうか。そして、さっぱり日本では報道されませんが、ミャンマーのクーデターも先週は、国軍によるカチン州の空爆で60人ほどの方が亡くなったと一昨日のミャンマーの金曜祈祷会で言われています。こんなに混迷するのはどうにもなりません。

 

しかし、エゼキエルは7節に「私は命じられた通りに預言した」のです。骨に預言してどうなると思いますが、しかし、やってみたのです。すると書いている通りです。幻だからなんとでも言えるとなるかもしれません。しかし、骨と骨が近寄り、骨の上に筋が、筋の上に肉が、そして皮膚が覆ったのです。8節には体ができましたが、最後に霊がなかったとされ、創世記2章6節のように、もう一度霊を吹き入れられて、この体は、生きたものになりました。

私達は本当に先の見えない混迷の時代に生きています。しかし、これはまさにエゼキエルが、バビロン捕囚されてバビロンに連行され、拉致されたエゼキエルたちと同じ境遇というか、私たちはまだましであります。しかし、エゼキエルは詩編16編10節の信仰を持ちました。「あなたは私の魂を陰府に渡すことなく、あなたの慈しみに生きる者に墓穴をみさせず」に生きています。答えはないのですが、しかし「主は私の命を陰府に渡さない」ことだけ確信しています。どうなるかわからないけれども、イエス様を十字架に送ってくださった父なる神様は、絶対自分達を、悪いようにされないと言う信仰です。

 

この前バプテストの南九州地方連合のズーム青年会で、小さな中公新書で『聖書考古学』と言う本を読みました。参加者は少なく、書いてあることもそんなに珍しいことがあるわけでありませんでした。しかし、この著者はイスラエルの歴史にとって一番大切だったのは、天地創造でも、出エジプトでもなく、バビロン捕囚でしたと書いておられました。そんな馬鹿なことがあるか、と思いました。エルサレム神殿が破壊され、国が亡くなり、しかしそこからエレミヤ、エゼキエルによってエルサレム帰還の信仰を整えられたイスラエルが、イエス様を準備する民になったと書かれていました。この先生によるとバビロン捕囚の苦難と苦しみが、イスラエルをイスラエルにした。聖書信仰を造りあげたのですと言われるのです。

こうなってくると私たちは、何というべきでしょうか。悪戦苦闘で、ちっとも晴れない。教会に来て、自分の重荷を下ろしに来たのに、返って祈りの課題を与えられる。しかし、それでも十字架の主の神様の取り扱いを信じて前進する。父なる神様は絶対に悪いことをされない。神を信じる人に墓穴を見させられない、父なる神、主は良きことを絶対される。この世の観点からは、信仰とも言えないような十字架の信仰です。しかし、この信仰をもって、エゼキエルの後に歩む時に、主は導かれる。そういうことを示されています。

 

祈ります。

「天の父よ、み名をあがめます。本日は、交換講壇で加治屋町教会の皆さまと共に礼拝できたことを感謝です。今、私たちは、混迷の世界にあります。コロナの疫病があります。ロシアとウクライナの戦争がありあす。ミャンマーのクーデターがあります。しかしこれはある意味で、エゼキエルが立っていた時代、バビロン捕囚時代の混迷に似ております。その中にあってエゼキエルは、主を信じ、み言葉を信じ、十字架の主、父なる神を、あなたを信じました。枯れた骨に預言しました。私たちはイエス様の十字架と復活を与えられていますので、エゼキエルの時代よりも、もっと確信をもって信仰において、前進できます。どうか、私達教会も混迷の中にありますが、守り導き支えてください。あなたは支えてくださることを信じます。求道の方、ご高齢の方、また病気療養の方を支えてください。加治屋町教会の幼稚園の働きもまた支え導きください。1週間の教会員や関係者の支えを守ってください。信仰と健康と魂を守ってください。み名によって祈ります。アーメン」

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