2022年1月9日説教「扉を叩くキリスト」松本敏之牧師
ヨハネの黙示録3章14~22節
(1)理解が難しい黙示録
鹿児島加治屋町教会では、年度初めの4月1日から新約聖書の通読を勧めております。その通読計画も、いよいよ最後の文書、ヨハネの黙示録に入りました。1月28日にゴールする予定ですが、皆さんは各自で読みながら、ついてきてくださったでしょうか。今日は1月6日の日課であった、有名な黙示録第3章の中の言葉を読んでいただきました。
ヨハネの黙示録は、新約聖書の中で最も理解が難しい書物だと言われます。それだけに親しみの薄い書物であるかもしれませんが、鹿児島加治屋町教会では、3年ほど前に、聖書を学び祈る会で1回に1章ずつ、全体で20何回学んだことがあります。その時にも、難しい表現をどう理解すればよいか苦労したことを覚えています。
(2)ダニエル書との深い関係
たとえば、1章13節節以下にはこういう言葉が出てきます。
「私は語りかける声の主を見ようと振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見え、燭台の間には人の子のような方がおり、足元まで届く衣を着て、胸には金の帯を締めていた。その方の頭髪は白い羊毛に似て雪のように白く、目は燃え上がる炎、足は燃えている炉から注ぎ出される青銅のようであり、声は大水のとどろきのようであった。また、右手には七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が突き出て、顔は強く照り輝く太陽のようであった。」(黙示録1:12~16)
何だか謎かけのようです。これは、実は旧約聖書ダニエル書などの黙示文学の伝統に従って叙述されているのです。一つ一つの叙述には、意味があります。「七つの金の燭台」というのは、あとで申し上げる7つの教会のことです。そこに「人の子のような方」がおられる。その方の姿について、独特の描写が16節まで続きます。これはダニエル書の影響を受けているのです。ダニエル書7章13節以下には、こういう言葉があります。
「私は夜の幻を見ていた。
見よ、人の子のような者が
天の雲に乗って来て
日の老いたる者のところに着き
その前に導かれた。
この方に支配権、栄誉、王権が与えられ
諸民族、諸国民、諸言語のものたちすべては
この方に仕える。
その支配は永遠の支配で、過ぎ去ることなく
その統治は滅びることがない。」
(ダニエル書7:13~14)
黙示録の先ほどの言葉は、ダニエル書のこの言葉と深い関係があります。
(3)人の子
ここに「人の子」という言葉が出てきますが、これは来るべきメシアを指しています。ちなみに福音書の中でも、イエス・キリストがご自分のことを指して「人の子」と言われるのを御存じの方も多いかと思いますが、それはここから来ています。それと同じように、黙示録の「人の子」の姿も、天におられるイエス・キリスを指しています。これは復活して、天で生きておられるイエス・キリストの栄光と力の表現なのです。黙示録1章9節のところに付けられている「天上におられるキリストの姿」という小見出しのとおりです。
それ以外にも、たとえば先ほどのダニエル書の言葉の直前にある7章9節には、「その衣は雪のように白く、頭髪は羊毛に似て清らかである」というそっくりの描写がありますが、黙示録はこれを取り入れているのでしょう。
そういうふうに、ぱっと読んだだけではわからない言葉が、黙示録には次々と出てきます。そこには、当時ローマ帝国のもとで迫害を受けていたクリスチャンたちに向かって、分かる人にだけ分かる隠された言葉で伝えようとしたという事情もあります。
(4)黙示という言葉
ここで少しヨハネの黙示録について概説的なこともお話しておきましょう。
まず「黙示」という言葉ですが、これは神の言葉と業が人に示されることで、広い意味では啓示とか天啓と言われるのと同じことを指しています。しかし同じ啓示でも、はっきりと誰にでもわかる言葉で語られる「預言」に対して、象徴的な独特の表現、特殊な言葉で語られた啓示が「黙示」です。ギリシヤ語では「アポカリュプシス」と言いますが、それは「覆っているカバーを取り除ける」という意味だそうです(村上伸『ヨハネの黙示録を読もう』参照)。ですから「イエス・キリストの黙示」とは、隠されている真実がイエス・キリストによって明らかにされたということでしょう。時代や背景が全く違う者にはなかなかわからないものですが、これを聞いた当時の人、しかもわかる人には、ぴんと来たのでしょう。「ああ、これはローマ皇帝のことを指しているんだ」というふうに、はっきりと言えないことを象徴的に言っているのです。
日本語の「黙示」、つまり「黙って示す」という漢字は中国語から来ているのかなと思いますが、ある意味で、それをよく表していると言えるかもしれません。
(5)黙示文学
ちなみに黙示文学と呼ばれる一つの文学が形成されたのは比較的新しく、紀元前3世紀頃かと思われます。イスラエルの預言者の思想に、ペルシャの世界観、さらにヘレニズム時代(つまりギリシャ)の終末思想が入り混じって一種独特の黙示文学というのができていったようです。先ほどから紹介していますように、旧約聖書の中ではダニエル書が黙示文学として知られています。
新約聖書の中にも、マルコによる福音書13章やマタイによる福音書24章などは小黙示録と呼ばれて、世の終わりにはどういうことが起こるのかについて、独特の書き方がなされています。ただ文書全体がこのスタイルで書かれているのはヨハネの黙示録だけです。象徴的表現によって、終末における勝利の主を描き出しています。
(6)著者は誰なのか
著者は一体誰なのか。1章1節で、自ら「僕ヨハネ」と名乗っています。伝統的には、ヨハネ福音書の著者やヨハネの手紙の著者と同じ人物とされてきましたが、この理解もやはり無理があって、別の人物、別のヨハネであると考えたほうがよいと思います。1章9節には、こういう言葉があります。
「私は、あなたがたの兄弟であり、共にイエスの苦難と御国と忍耐にあずかっているヨハネである。私は、神の言葉とイエスの証しのゆえに、パトモスと呼ばれる島にいた。」(黙示録1:9)
岩波書店版の聖書(小河陽訳)では、言葉を補って、「神の言葉[を伝え]、またイエス・キリストについて証言[した]ために、パトモスと呼ばれる島にいた」と訳しています。つまり著者は信仰の故に、この島に流刑となり幽閉されていたのです。紀元95年頃のことと思われます。当時のローマ皇帝はドミティアヌスという人物で、この皇帝のもとでクリスチャンたちは厳しい迫害を受けました。
彼は、そのパトモス島で見た幻を小アジアの7つの教会に書き送ったとされます。ドミティアヌス皇帝の迫害の末に、「皇帝礼拝」が強制されるようになりました。信仰を純粋に守るために殉教の覚悟が求められるようになった緊迫した状況の中で、信仰者を励まし、この世に迎合することなく、新天新地(新しい天と新しい地)に希望をもって生き抜くように勧めるために書かれたと思われます。
(7)7つの教会に宛てた7つの手紙
先ほど少し述べましたように、1章において、著者が受けた啓示が、イエス・キリストによるものであることが明らかにされますが、2章以下でその啓示の内容が記されていきます。
2章から3章にかけては、アジア州にある7つの教会に宛てられた7つの手紙を通して、啓示の内容が示されます。その7つの教会というのは、2章の最初から順に言えば、まずエフェソにある教会、次がスミルナにある教会、そしてペルガモンにある教会、ティアティラにある教会と続きます。3章に入って、サルディスにある教会、次がフィラデルフィアにある教会、そして最後が今日のテキストにしました「ラオディキアにある教会に宛てた手紙」です。7つの手紙には共通する様式があるのですが。特に最後の「耳のある者は、霊が諸教会に告げることを聞くがよい」という結びの言葉は同じ言い方がなされています。
(8)冷たくもなく熱くもないラオディキアの人々
この7つの中で、最も有名で、最も重要なのが、このラオディキアにある教会への手紙であると言ってもよいと思います。15節でこう言われます。
「私はあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。熱くも冷たくもないので、私はあなたを口から吐き出そう。」(黙示録3:15~16)
これを聞くと、多くの人がどきっとするのではないでしょうか。自分の信仰は生ぬるいかと。確かに、この熱いというのを、信仰の熱心さと理解し、冷たいとは信仰のないこと、そしてその中間は生ぬるい信仰、と読むこともできるでしょう。そういう読み方も間違ってはいないでしょう。しかしこういう言葉が続きます。
「あなたは『私は裕福で、満ち足りており、何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。」(黙示録3:17)
村上伸牧師は、熱さ、冷たさというのを、信仰の内面的な熱さ、と捉えるよりも、むしろ、この17節と結び付けて読むほうがよいだろうと指摘しています。つまりたとえ本人が信仰に燃えて、いわば満足しているような状態であっても、そして他の人から見て「あの人は熱心ですね」と言われるような状態であったとしても、いわば「思い上がっている」ような信仰の状態もあるのです。
ラオディキアの教会は、経済的には確かに安定していたようです。しかし他者に無関心であったのではないかと思われます。それで、「自分はちゃんとできている。熱い信仰をもっている」と思いこんでしまう。その「思い上がり」から脱して、自分がどういう存在であるかを見詰め直して、他者と共に生きる道を見出していくことが求められると思うのです。そういう読み方のほうがピンとくるような気がします。
(9)ハントの宗教画「世の光」
そしてこう言われます。
「見よ、私は戸口に立って扉を叩いている。もし誰かが、私の声を聞いて扉を開くならば、私は中に入って、その人と共に食事をし、彼もまた私と共に食事をするであろう。」(ヨハネの黙示録3:20)
これも有名な言葉です。これに基づいた有名なハントという人の「世の光」(The Light of the World、1853)という宗教画があります。夜にキリストがランプをもって扉を叩いている絵です。ご覧になったことのある方もあるでしょう。この絵の扉には外ノブがありません。これは心の内側からしかドアが開かないことを象徴しています。そしてキリストが歩いている道は雑草でいっぱいなのですが、それは心の扉がまだ開かれていないことを象徴していると言われます。キリストが手に持っているランプは7面があるのですが、それは黙示録に書かれている7つの教会を意味しています。
(10)復活のキリストは扉を越えて入って来られた
このキリストの姿と対比的なのは、ヨハネ福音書20章19節以下に記されている復活のキリストの姿です。そこでは、弟子たちがユダヤ人たちを恐れて家に鍵をかけて閉じこもっているのですが、どういう形かわかりませんが、その鍵のかかった扉を通り越して、イエス・キリストが中に入って来られるのです。そして弟子たちの真ん中に立って、「平和があるように」と告げられました。
このふたつの情景は一見矛盾するようです。「中から鍵を開けてくれるのを辛抱強く待ってノックをし続ける姿」と「中から鍵をかけているにもかかわらず、ノックもせずに否応なく入ってこられる姿」。しかし私は、これは矛盾するのではないと思います。イエス・キリストは、たとえて言えば、すべての場所、すべての私たちの心のマスターキーを持っておられるような方だと言えるのではないでしょうか。しかしマスターキーを持っているからと言って、むやみやたらに入り込んでよいということにはなりません。マンションの管理人でも、下宿の大家さんでも、マスターキーを持ってはいますが、余程の時でなければ入ってはきませんし、入ってはいけないはずです。緊急事態の時だけです。
私は、あのイエス・キリストの復活後の弟子たちの状況というのは、そうした「余程の時」「緊急事態」であったのだと思うのです。中からしっかり鍵をかけて、誰も入ってこないようにしている。しかしその心の状況をよく知っておられるイエス・キリストが、自分で開けることすらできない、がちがちの弟子たちの気持ちを察して、扉を通り越して入ってこられたのです。
この黙示録の場合には、そういう緊急時ではありませんでした。むしろ悔い改めを促している。だからこそ辛抱強く、扉を叩きながら、外で待たれるのです。
私たちの場合にも、その両方の状態があるでしょう。私たちの心ががちがちに固まってしまって、誰も入れないようにしてしまっている緊急事態のような時もあります。それぞれにふさわしい形で訪ねてくださるイエス様に感謝しつて、今年も歩んでいきたいと思います。