2022年1月30日説教「地の守り人」松本敏之牧師
創世記1章1~8節
マタイによる福音書28章18b~20節
(1)旧約聖書通読の旅
「地の守り人」と題して、説教いたします。本日は、信徒研修会を予定していましたが、オミクロン株拡大のために中止となりました。また主日礼拝は、その開会礼拝となる予定でしたが、研修会が中止となったために、私が代わりに別の説教をすることになりました。
昨年の4月1日から新約聖書の通読を呼び掛けてきましたが、一昨日の1月28日で、ヨハネの黙示録まですべて終わりました。皆さんは最後まで読み通せたでしょうか。途中で挫折した方も、ぜひ続きを読んでいただきたいと思います。読み終えた方もぜひ二巡目を読んでいただきたいと思います。聖書は、断片的に読んでももちろん意義のある書物ですが(神の言葉が聞こえてくる書物ですので)、全体を通して読むと、さまざまな新たな発見があると思います。今回もそのような経験をなさった方が多いのではないでしょうか。
さて新約聖書に続いて、2月1日より旧約聖書の通読を始めます。1日1章、日曜日を除く週に6日間、毎日読んで、約3年間の予定です。計算が間違っていなければ、2025年1月18日に読み終える予定です。
3年間の大体の予定表、いわゆるロードマップと、これから2か月間、3月末までの聖書日課表を〈公式鹿児島加治屋町教会ホームページ〉に置きましたので、どなたでもダウンロードして用いてください。教会の礼拝堂前のロビーにも置いてあります。3月末で創世記を読み終え、詩編を10編挟んで、新年度は出エジプト記から始まる。そういう感じです。
旧約全巻をどういう順序で読み進めたらよいか、いろいろな案を考えました。最初は、飽きないように、創世記、詩編、イザヤ書というふうに、歴史書、文学書、預言書を取り交ぜて読む案を作成しましたが、やめました。あちこち読むと、どこまで読んだかが分かりづらく、達成感も得にくいと思ったからです。最終案では、基本的に前から順に読みますが、一書を終えるごとに、間奏曲のように詩編を10編ずつ挟むことにしました。詩編の間に気持ちをリフレッシュすると共に、途中でドロップアウトしかけた人も、詩編の間奏曲の間に追いつくことができるかと思いました。遅れを取った場合には、詩編は抜かして後で読んでもよいと思います。
私は、皆さんが一人で読む時の参考になるように、また励ましなるように、月に1回程度、その前後のテキストで主日礼拝の説教をしようと思います。どこまでやれるかわからないという方もとにかく始めてみましょう。新約聖書とは違って、旧約聖書には物語の面白さもあると思います。
(2)創世記について
さて2月1日から読み始める創世記について、少しお話をしておきましょう。
創世記は、ご承知のように、旧新約聖書の最初に置かれている書物です。「創世記」という書名は、中国語訳(漢訳)聖書のタイトルをそのまま取り入れたものです。英語ではジェネシス(Genesis)と言いますが、それはギリシア語訳の旧約聖書のタイトル、「ゲネシス・コスムゥ」(世界の生成)から来ています。旧約聖書はもともとヘブライ語ですが、ヘブライ語の創世記のタイトルは、「ベレーシート」と言いますが、それは聖書本文の最初の単語であって「はじめに」という意味です。
創世記の内容は、大きく二つの部分に分けることができます。前半は11章までで、通常「原初の物語」と呼ばれます。天地創造、アダムとエヴァ、カインとアベル、ノアの洪水、そしてバベルの塔の物語と続きます。後半は12章から50章までで、通常「族長物語」と呼ばれます。アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフの物語です。
いつ、誰によって書かれたのかは難しい問題です。学問的には、とても興味深いものがありますが、煩雑になりますので今日はやめておきましょう。
(3)初めに神は天と地を創造された
さて今日は創世記の最初の部分をお読みしました。どの部分でお話をしようかと思いましたが、「はじめに神は天と地を創造された」という言葉を、改めて心に留めたいと思ったからです。天地創造物語について、私は、すでに『神の美しい世界』という説教集を出版しましたが、その時には思いつかなかったことを、後で気づかされました。その気づきを与えてくれたのは、高木仁三郎という原発および核兵器に反対し続けて、2000年に亡くなった学者です。彼自身は仏教徒でしたが、聖書の読みに深い洞察をしています。その内容は、後で述べたいと思います。
「初めに神は天と地を創造された。」
これは、創世記1章において、この後秩序的に語られる天地創造物語の序文のような言葉です。同時に、聖書全体の序文とも言える言葉です。ただし当たり前のことですけれども、誰もそれを見た人はいません。他のことはともかく、これについては絶対に証人はいません。人間そのものが、まだ誰もいないのですから。ですからこれは、一種の宣言であり、信仰告白の言葉と言った方がよいでしょう。「神は、この世界ができる以前から存在し、その神によってこの世界が造られたのだ」という高らかな宣言であります。
その天と地の具体的な創造については、少し後、6~8節の第二日目の出来事として記されています。
(4)古代の人の世界像
第一日目の光の創造に続き、第二日目に、神は「大空」を造り、それを「天」と呼ばれた、と記されています。「地」の部分の創造は、第三日目以降に語られますので、「地」よりもさきに、「天」が創造されたということです。
この「大空」という言葉(ヘブライ語で「ラーキーア」)は、ハンマーで打ち伸ばされたもの、延べ広げられたものを意味するそうです。ですから「蒼穹」(そうきゅう)とか「天蓋」というふうに訳すこともあります。その方がこの言葉のニュアンスをよく伝えているかも知れません。
古代の人々は、「大空」というのを、地をおおう固い半球状のもの、丸天井のように想像しておりました。そしてその丸天井の上には、巨大な貯水池のような部分があって、神様はそれを開閉することによって、雨や露、雪や雹を降らせたり、風を吹かせたり止めたりしているのだと考えておりました。太陽や月や星というのも、まさにプラネタリウムのように、丸天井にちりばめられていると考えていたのです。
この箇所も、そうした世界像を前提にして読むと、よくわかると思います。つまり大空という固い丸天井を造って、水をその上と下に分けたということです。それが開閉式になっているというのですから、東京ドーム、ヤフードームのようなものを想像していたのでしょうか。
(5)天とはどこか、天とは何か
今日の私たちは、世界が古代の人たちが想像したようなものではないということを知っております。それでは、ここに書かれている天地創造の記述は、世界がどのようになっているかを知らない古代人の記述、無知をさらけ出したような物語としてしか読めないのでしょうか。あるいは、せいぜいほほえましい古代人の幼稚な世界観を表したものなのでしょうか。私は、そうではないと思います。
聖書の中には、これ以降、終わりの「ヨハネの黙示録」に至るまで、何度も何度も「天」という言葉が現れてきます。「天」という言葉は、聖書の中でも最も大事な言葉のひとつなのです。「天」という言葉がどういう風に使われているかを見てみますと、それは必ずしも「空の上」、「雲の向こう」という意味ではありません。
それは神様がおられる場所です。私たちが決して到達することができない場所であり、天使たちがその神様に仕えている場所です。神の御座がある場所であり、神はそこで天自体と地を支配しておられる。カール・バルトという神学者は、この「天」のことを「神の職務席」と呼びました。神様は、そこから天と地を支配するという職務を果たされるのです。
確かに昔の人は、物理的、空間的にも上方、つまり雲の向こうにそういう世界があると考えていました。それはそれでよかったのだと思います。なぜなら、昔の人にとっては、雲の上の世界は決して到達することのできない領域であったからです。あの雲の上の、天という場所で、神様は天上世界と地上世界の両方を支配しておられると信じていました。
私たち人類は、今日、雲の向こうまで行くことができるようになりました。月まででしたら、すでに何回も行きました。そして行こうと思えば、月のもっと向こうまでも行く技術を人類はすでに持っています。しかし、そのようにしてどんどん宇宙の果てにまで行ったとしても、そこで神様に出会えるわけではありません。
それにもかかわらず、私たちは今もなお、神様は天におられて、私たちの世界を支配し、導いておられると信じているのです。そうでなければ、どうして私たちは「天におられる私たちの父よ」と祈ることができるでしょうか。
聖書が、「天」という時、それは私たちの住んでいるこの世界とは質的に違う世界のことを言っているのです。その意味では、この大空も宇宙もすべて、地に属する世界ということができるでしょう。私たちの住んでいる世界の延長線上にあり、いつかは到達できる世界であるからです。天とは、私たちの側からは決して到達できない、知ることのできない秘儀の世界、私たちの目の届かない世界であります。
(6)まず天の創造
創世記のこの天地創造物語を記した人は、彼ら自身の世界像を用いながらではありますが、「私たちの目に見えない世界、私たちのこの地上世界とは質的に異なる世界が存在するのだ。そして神は、まず天という世界を創造し、その次にこの地上世界を造られたのだ」という信仰を言い表しているのです。私は、この順序は正しいと思います。
天の世界は、私たちには秘儀として隠されていますからよくわからないわけですが、私たちの、この世界に優先します。この世界に優先する世界を、神は造られた。だからこそ私たちは、「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」と祈るのです。この祈りは、御心、すなわち神様の意志は、天においては一足早く実現しているということが前提になっています。天においてすでに実現している神の意志が、この地上においても実現しますように、と祈るのです。私たちの世界は、この「天」をあおぐ世界です。私たちの世界は天を持っているがゆえに、希望があるのです。逆に言えば、天を持たない世界には希望がありません。
復活したイエス・キリストは、「私は天と地の一切の権能を授かっている」(マタイ28:18)と言われました。こうしてイエス・キリストは教会だけではなく、また地上だけではなく、「天と地」を、一切の権能をもって支配されるのです。
(7)天は永遠のふるさと
私は、神様がこの地上世界を創造される前に、天の国を造られたということは何と幸いなことであろうかと思います。普通、天地創造というと、私たちは目に見えるこの世界のことしか考えないのではないでしょうか。しかしそうではないのです。神様は目に見えないもう一つの世界を、私たちの世界に優先する世界を造られた。そこは父なる神が直接支配する国です。イエス・キリストが父なる神の右に座す世界です。すでに御心が実現している世界です。
そしてそれは、私たちにとっては永遠のふるさと、やがて私たちが帰っていく世界でもあります。パウロは言いました。
「私たちの国籍は天にあります。」(フィリピ3:20)
またイエス・キリストは、こう言われました。
「私の父の家には住まいがたくさんある。……あなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを私のもとに迎える。こうして、私のいるところに、あなたがたもいることになる。」(ヨハネによる福音書14:2~3)
聖書が「天」という時には、まさにそういう国のことが考えられているのです。もっともこの天は、ただ単に私たちが死んでから行く世界、というだけではありません。今も神様はそこにおられ、そこから私たちの、この見える世界を導き、支配しておられる。その天はこの地上に向けて開かれているのです。向こうからこちらへとつながっているのです。イエス・キリストによって、道がつけられました。
神様は、今日もそこから私たちを見守り、導いてくださる。必要な糧を与えてくださる。弱い者の味方をし、孤児を見捨てず、必要な裁きをなしてくださる。そのお方のおられる天を仰ぎ見て、「天におられる私たちの父よ」と祈るのです。
(8)高木仁三郎氏の「天と地」理解
さて以上は、私が説教集の中でも述べた理解でありますが、高木仁三郎氏は、それとは全く違う視点で、反核、脱原発の視点から興味深いことを述べておられます。それは『エコロジーとキリスト教』という何人かによる論文集の中でのことです。高木氏は、「神は天と地を創造された」と、聖書の最初にそういう言葉があるにかかわらず、それ以降、「地上世界」、しかも「人間」のことに関心が集中してしまっているというのです。
「神は天と地を創造された」ということは、「天と地は別々の原理法則で動く世界として存在する。地上には地上の世界があり、天上には天上の世界がある」ということだと述べます。「両者は全く別の法則の下にある。そこには厳然たる区別がある。それは冒されてはならない」というのです。
「天上(星)の世界は、“光”を生み出している世界であり、核反応によって物質は常に消滅生成を繰り返し、物質がエネルギー(光)に変わっている。……それは激しい反応の世界であるが、私たちの生命は、物質の安定つまり核の安定の上にのみ成り立っている。(少し説明的に言い換えれば、天の世界は、核反応、核分裂と核融合をずっと繰り返している世界だけれども、私たちが住む世界はそうではないということです。)核の安定があるからこそ、そこに生命は育つのである。だから、私たちが『地の守り人』であろうとするならば、核の安定を守る必要がある。」
私たちは天を見上げ、星を見て、美しいと感じますが、実はそこは生物が生きることができない世界です。絶えず核反応を繰り返している。そこは地上(地球上)とは全く違う相いれない世界なのです。神様は、その二つの世界を、厳密に別の世界として創ったものを、侵してはならないということです。創世記は、最初にそのことを書きながら、つまり「はじめに神は天と地を創造された」と書きながら、その後は「地」の話になって、天のことを忘れていると指摘します。
「原子力というのは、本来の地上世界にとっての異物を導入して原子核の安定を破壊し、そのことによって非地上的な(天文学的な)までの力を得ようとする技術である。それは本質的に地上の生命世界の原理とは相いれず、その非和解的衝突を私たちは、広島、長崎、そしてチェルノブイリにおいて典型的に見ているのである。」
私たちは、今やここに「福島」を加えなければならないのではないでしょうか。
「このようにみれば、核(原子力)開発は、文字通りプロメテウスのごとく天の火を盗む行為であり、禁断の行為であったはずである」(以上、同21~24頁参照)。
私は、この言葉に、とても大きな衝撃を受けました。聖書の「天と地」というのを、そういう視点で読んだことはありませんでした。
(9)「地の守り人」として生きる
高木仁三郎さんは、先ほど「地の守り人」という言葉を使っておられました。
創世記1章26節のところに、こういう言葉があります。
「我々の姿に人を造ろう。そして、海の魚、空の鳥、家畜、地のあらゆるもの、地を這うあらゆるものを治めさせよう。」
この「治める」というのは「支配者となる」ということではなく、「管理者となる」ということです。ただ高木さんは、「管理者」というより、「守り人」と表現したいと言っています。それは別の言葉で言えば、「執事」ということだとも言っておられます。執事というのは、主人に対して主人の意向通りに忠実に働く人です。
高木さんは「人間が真に地の守り人であるとするならば、……地の健全性、安全性を守らなくてはいけないのではないだろうか」と言われます。これは仏教徒である高木さんからキリスト教徒である私たちに突き付けられた大きな課題ではないでしょうか。
それは、私が先に述べた「天」に対する理解とは別の読み方ですが、これは私たちの今日の生き方に問いを投げかけ、大いなる反省を迫るものであると思います。