2022年1月16日説教「奇 跡」松本敏之牧師
出エジプト記14章15~25節
ローマの信徒への手紙6章1~4節
(1)旧約聖書最大の奇跡
前回(11月21日)、「雲の柱、火の柱が、エジプトを脱出したイスラエルの民を導き、それを守られた」という記事を読みました。今日の箇所でも、その雲の柱、火の柱が出てきます。今日の物語は、「追いかけてくるエジプト軍に迫られる中、神がイスラエルの民のために、海を二つにひらいて道をつくり、そこを通らせ、その後その水を元に戻すことによって、エジプト軍を海に投げ込まれた」という奇跡物語であります。
これは恐らく旧約聖書に記されている中の最大の奇跡として、イスラエルの人々の記憶に留まり、彼らを支え続けた物語であります。有名な1956年の映画「十戒」(チャールトン・ヘストンとユル・ブリンナーが主演)においても、この海が二つに分かれるシーンは、今ならCG(コンピューターグラフィック)で簡単にやってしまうのでしょうが、当時の映画としては、最大の特撮シーン、見せ場でありました。
今日は14章の後半をお読みいただきましたが、少し最初から物語を追ってみたいと思います。最初の4節までのところには、神がモーセを通じて、海の手前で宿営するように命じられたことが記されています。
5~9節はいわば第二場ですが、エジプトのファラオ側に目を転じます。ファラオは奴隷たちを去らせてしまったことを後悔し、それを追いかける決断をします。ファラオは戦車に馬をつなぎ、自ら軍隊を率い、えり抜きの戦車六百をはじめ、エジプトの戦車を動員し、それぞれに士官を乗り込ませました(6節)。そしてエジプト軍は、この海の手前に宿営しているイスラエルの一行に追いつきます。
10節のところで、視点が再びエジプト側からイスラエル側に変わります。
「ファラオが近づいて来た。イスラエルの人々が目を上げると、エジプト人が彼らの背後に迫っていた。イスラエルの人々は非常に恐れて主に向かって叫んだ。」(10節)
「主に向かって」とありますが、直接的にはモーセに向かって、こう叫ぶのです。
「エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるために私たちを連れ出したのですか。私たちをエジプトから導き出すとは、一体何ということをしてくれたのですか。荒れ野で死ぬよりはエジプト人に仕えるほうがましです。」(11~12節)
(2)モーセが語った「神の言葉」
そこでモーセは、民に対してこう言いました。
「恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。あなたがたは今エジプト人を見ているが、もはやとこしえに見ることはない。主があなたがたのために戦われる。あなたがたは静かにしていなさい。」(13~14節)
これはモーセが民に語った言葉ですが、ここに神様の神の民に対する意志が集約されています。少し言葉を拾ってみましょう。
第一は「恐れてはならない」という言葉です。この言葉は、聖書の最も大切なメッセージです。その後も何度も重要な場面で繰り返し出てきます。イザヤ書41章10節にはこういう言葉があります。
「恐れるな。私があなたと共にいる。たじろぐな、私があなたの神である。私はあなたを奮い立たせ、助け、私の勝利の右手で支える。」(イザヤ書41:10)
新約聖書でも、たとえば、マリアに向かって、天使ガブリエルは、「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい」(ルカ1:30)と告げました。
またイエス・キリスト自身も「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れることはない。あなたがたは、たくさんの雀よりも優れたものである」(ルカ12:7)と言われました。「恐れてはならない」という言葉が聖書全体に響いている、と言ってもよいでしょう。
第二は、「しっかり立(ちなさい)」という言葉です。これは、神様が自分たちを守り、救ってくれると、信頼しなければならない、ということを意味します。
第三は、「静かにしていなさい」という言葉です。これは、必ずしも「何も受け答えしてはならない」とか「受け身でいなさい」ということではないでしょう。むしろ神様への信頼のもとで、心を騒がせることなく、神様のなさることを静かに待ちなさい、ということだと思います。
第四は、「主の救いを見なさい」という言葉です。そのようにして静かにして、神様のなさる業を見届けなさい、ということ。つまり人間が、モーセが大きな奇跡を引き起こすのではなく、神様がそれをなされる。あなたがたはその証人として、それをしっかり見なさいということです。
第五は、「主があなたのために戦われる」ということです。人間が奇跡を引き起こすことはできません。それでも神様が戦われるその恩恵をあなたたちは受ける。これも力強い言葉です。
そのように、モーセが語ったこれら一連の言葉にはとても大きなメッセージが含まれているのです。
(3)モーセの微妙な心の揺れ
ですからこの言葉は真実です。モーセは神の言葉をそう取り次いだのです。その意味でモーセは広い意味での預言者としての職務をよく果たしていると思います。しかしモーセは、ここで再びジレンマ、板挟みの中に置かれているのです。モーセは、一方でイスラエルの民に向かっては、先ほどのような言葉を語りながら、もう一方で神様に向かっては、かのイスラエルの民の言葉に自分自身を重ね合わせて、神に訴えたのでしょう。神様はモーセに向かって「なぜ私に向かって叫ぶのか」(15節)と言われました。
このことは指導者の微妙な心の揺れを示していると思います。モーセは人前では決して弱さを見せません。見せてはならないのです。彼がうろたえると、民全体が動揺してしまいます。ところが、実は当のモーセ自身、弱さを抱え続けているのです。それは3章での召命の時以来、ずっとそうでありました。モーセは神の言葉を預かり、それを語りながら、自分が語る言葉を信頼しきれないでいる。言葉そのものは、モーセの弱さを超えて真実なのですが、その約束が一体どのようにして実現するのか、語っている者自身が受けとめ切れていない。
これは今日の説教者も同じではないかと思います。私などは説教者として「モーセでもそうであったのか」と、ちょっと安心したりいたします。
語っている言葉そのものは、説教者の疑いや不信仰を超えていきます(もちろん伝わらないこともありますが)。神ご自身がそこで語られるからです。ですから説教者自身が、自分が語っている言葉そのものに慰められ、励まされるということもしばしば起こります。
モーセも自分が語っている言葉そのものが、自分に向かって語られる神の言葉であることを経験したのではないでしょうか。
「恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。……あなたがたは静かにしていなさい。」モーセは民に向かってそう語りつつ、彼自身、この言葉に慰めと励ましを受けたことでしょう。
(4)海が二つにひらく
そこから先は、先ほど読んでいただいた部分です。神がモーセに言葉を告げられた後、一連の不思議なことが始まりました。最初に、これまでイスラエルの一行の先頭を進んでいた「神の使い」が移動して、彼らの後ろにまわりました。そして彼らの前にあった雲の柱も同時に、後ろにまわりました。つまり、この雲の柱がエジプト軍の前に立ちはだかり、彼らに足止めをさせ、その間にイスラエルの一行が次の行動に移ることができる猶予を与える働きをしたのです。時間稼ぎをしてくれたのです。
「雲と闇があって夜を照らしたので、一晩中、両軍が接近することはなかった。」(20節)
そしていよいよ大いなる出来事が起こります。
「モーセが海に向かって手を伸ばすと、主は夜通し強い東風で海を退かせ、乾いた地にした。水が分かれたので、イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行った。水は彼らのために右と左に壁となった。」(21~22節)
ここで、神の力は奇跡として、超自然現象として、人々の目の前にあらわれました。これは過越の直後のことですから、満月の直後ということになります。潮の満ち引きと何らかの関係があったのかも知れません。
神様は火と雲の柱から、その光景をご覧になっています。そしてエジプト軍をかき乱すのです。さらに戦車の車輪をはずして、進みにくくさせてしまいます。エジプト軍は、「もうお手上げだ。撤退しよう」と言うのですが、その瞬間に神様の指示に従ってモーセが手を高く挙げると、水がエジプト軍の上に押し寄せ、あっという間に彼らを飲み込んでしまいました。ファラオの全軍は滅んでしまいました。
この時にファラオ自身がどうなったかは記されていません。この戦いで死んだとは書いてありません。恐らくファラオはここまでは追いかけてこなかったのではないかと思われます。恐れを感じて、部下だけを行かせたのかも知れませんし、逆に、そこまで奴隷を追いかけては王の沽券にかかわると思ったのかも知れません。
この物語は、エジプトの記録には何も出てきません。王ファラオの記録を調べても、この出来事によって死んだファラオというのはいないようです。ですからこれが史実であったかどうかは議論のあるところです。
(5)イスラエルの民の信仰の基
しかしイスラエルの民にとっては、この奇跡がイスラエルの歴史の原点となっていきました。語りつがれて、それが信仰の基となるのです。
たとえば、イザヤ書43章15節以下には、こう記されています。
「私は主、あなたがたの聖なる者
イスラエルの創造者、あなたがたの王である。
主は、こう言われる。すなわち海の中に道を
荒れ狂う水の中に通り道を作られ
戦車と馬、大軍と兵を連れ出し
彼らを皆倒して起き上がらせず
灯心の火を消すように消滅させた方。
先にあったことを思い起こすな。
昔のことを考えるな。
見よ、私は新しいことを行う。
今や、それは起ころうとしている。」(イザヤ43:15~19)
この言葉は、紀元前6世紀にユダ王国の都がバビロニア軍によって滅ぼされ、主だった人々がバビロンに連れて行かれた後、それから先の歴史を預言して語られた言葉です。そのようにして沈む人々の心を鼓舞してきたのです。
(6)神の可能性が開くところ
さて物語は、大体以上のとおりでありますが、この物語のもつ意味について、少し考えてみましょう。この出来事は、先ほど申し上げましたように、文字通りイスラエル史上最大の奇跡であり、またイスラエルの民の間においても、そのようにして語り伝えられてきました。詩編に何度も何度もこのことがうたわれていますし、早速この直後の第15章にも、モーセの姉のミリアムが歌ったと伝えられる「海の歌」というのが出てきます。この出来事を通して、神様の栄光をたたえた歌です。
海でイスラエルを救った神の奇跡的な働きは、神がその民を神の民として存在させた出来事として記憶され続けることになります。さまざまな伝承があるのですが、そこに共通していることは、「これは偶然起こったのではない、神の介入によって起こったものだ、それ以外ではない」ということです。
八方ふさがり、文字通り四面楚歌の状況において、神ご自身が突破口を開いてくださった。道をつけてくださった。何の希望もなかった時、もはや絶望しかない時に、逃れの道を備えてくださったのは、この神に他ならなかった。そのように神をほめたたえ続けました。
少し別の見方をすれば、神様がその権能をあらわすために、考えられるありとあらゆる逃げ道を閉ざされた。そして神様御自身の手で、再びその道をあけられたということになるでしょう。それは神自身が働かれたということが、みんなにわかるために、あえてそうなさったのだということです。もう人間の力ではどうしようもないというところまで行った後、神の可能性が開くことを示されるのです。
(7)死と復活、洗礼を指し示す物語
さて先ほど、ローマの信徒への手紙6章の言葉をあわせて読んでいただきました。それは、新約聖書の著者たちがこの海の奇跡物語をどう見ていたのかを思い起こしていただくためです。それは死と復活を指し示すものとなります。パウロは、そこに、ある種の洗礼を見いだしていました。洗礼という言葉はギリシア語ではここにもルビが振ってあるように「バプテスマ」と言います。それは「沈められること」という意味です。それが、ここでパウロの言っていることにつながります。
「それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにあずかる洗礼を受けた私たちは皆、キリストの死にあずかる洗礼を受けたのです。私たちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかる者となりました。それは、キリストが父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためです。」(ローマ6:3~4)
水につかることによって古い自分に死ぬ。そしてその中から新しい命をいただいてあらわれてくる。その恵みの事実を、新約聖書の著者たちは、この出エジプトの海の奇跡の出来事と重ね合わせました。水は裁きを示すものであり、洗礼はその裁きから逃れの道を提供するものとして理解されました。そしてこれを私たち一人一人の中で起きる奇跡として受けとめたのです。その場合、敵というのは、私たちの魂を攻略しようとして襲ってくるむさぼりやおごり、怒りなどのすべての罪です。その敵を洗礼の水に溺れさせて、新しい道をひらかれたということに他なりません。
過去と現在、古い時代と新しい時代との間に、はっきりとした断絶があるのだということ、そしてそこから新しいものが生まれてくるのだということ、さらに洗礼によって私たちが新しく与えられる命というものは、あの出エジプトの出来事にたとえられる程に、こちら側からは理解不可能な次元の奇跡なのだ、それはただただ、神の力によってのみあらわれてくるのだ、と言おうとしているのです。
(8)倒れないように
一人一人の歩みにおいても、教会の歩みにおいても、私たちは、今なお葦の海(紅海)とその手前の砂漠を生きていると言えるかも知れません。さまざまな試練が私たちを襲ってまいります。そこでもう可能性が閉じてしまったように思えることもしばしばあります。だからこそ、前回も引用したパウロの言葉が心に響いてきます。その言葉にもう一度耳を傾けたいと思います。
「だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。あなたがたを襲った試練で、世の常でないものはありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(コリント一10:12~13)
この言葉を信じて、私たちも前に向かって進んでいきましょう。