2022年4月3日説教「主イエスの右と左」松本敏之牧師
マルコによる福音書10章35~45節
(1)三度の「受難と復活予告」
今日は、日本基督教団の本日の聖書日課で説教をいたします。ただし日本基督教団の聖書日課では、先ほど読んでいただいた箇所の前の部分が加わって、マルコ福音書の10章32節からとなっています。イエス・キリストが三度目に受難予告をなさった記事です。受難節(レント)に読む箇所としては、そちらも視野に入れておくことが重要であると思いますので、そちらも読んでおきましょう。
「さて、一行はエルサレムへ上る途上にあった。イエスが先頭に立って行かれるので、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていること話し始められた。『今、私たちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を嘲り、唾をかけ、鞭打ち、殺す。そして、人の子は三日後に復活する。』」(マルコ10:32~34)
先ほど読んでいただいた35節以下のエピソード、会話は、このイエス・キリストの第3回目の「受難と復活の予告」を受けてのことです。第1回目の「受難と復活の予告」の時には、ペトロが反応しました。それは、「イエス・キリストをいさめ始める」という反応でした。「先生、そんなこと言うもんじゃありません。きっと大丈夫です」とか「考えすぎです」とか「しっかり気をもってください」とかいうようなことを言ったのでしょうか。イエス・キリストは、そのペトロに向かって、「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人のことを思っている」(マルコ8:33)と、厳しいことを言われました。
あの時、ペトロがイエス・キリストをいさめ始めたというのは、ペトロはイエス・キリストの話の前半、「受難」の話に気を取られて、「復活する」という喜ばしい予告のほうが耳に入らなかったのではないかと察します。
ちなみに、その後、9章30節のところでは、第2回目の「受難と復活の予告」をなさったことが記されています。それは、「人の子は人々の手に渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」(9:31)というものでした。そして弟子たちの反応はと言えば、こう書いてあります。
「弟子たちはその言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。」(9:32)
一度目の時に、ペトロが「サタンよ、引き下がれ」と言われたので、他の弟子たちもびっくりしたかもしれません。しかしその言葉の真意は、弟子たちにはまだ謎のままだったのです。
(2)ヤコブとヨハネの願い
そして三度目の予告です。この度は、ゼベタイのヤコブとヨハネが反応しました。その言葉の真の意味は、まだやはりよく分かっていなかったようです。
彼らは、主イエスの前に進み出て「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが」と言いました。イエス・キリストが「何をして欲しいのか」と言われると、二人はこう言いました。
「栄光をお受けになるとき、私どもの一人を先生の右に、一人を左に座らせてください。」(10:37)
このゼベダイの子ヤコブとヨハネは、ペトロ同様、漁師でした。シモン・ペトロと兄弟のアンデレがイエス・キリストの弟子として召された時に、同時に、あるいは直後に、弟子として召されたのでした。それは、マルコ福音書では1章16節以下に出てきます。そしてシモン・ペトロと並んで、とても重要な位置にいました。山の上で主イエスの姿が真っ白に輝いたとき、その場にいることが許されたのは、ペトロとヤコブとヨハネの3人でした。またこの後、最後の晩餐の後、ゲツセマネに祈りに行かれた時にも、同行を求められたのは、ペトロとヤコブとヨハネの3人でした。
ですから3人の筆頭弟子には入ってはいるのだけれども、トップではないということは自他ともに認めるところであったのでしょう。弟子の筆頭はやはりシモン・ペトロでした。
最後の最後には、ペトロを追い抜いて、この二人が主イエスの右と左で、共にその栄光に与れるように、と素直に(というか厚かましく)、そう思ったのでしょう。
この二人の反応は、最初の受難と復活予告の時のペトロの反応とは逆であったと思います。あの時は、ペトロは「受難」の話に気を取られて、「復活」のことが耳に入らなかったのではないかと言いましたが、ここで、ヤコブとヨハネは逆に「復活する」ということに気を取られて、「受難」のことが耳に入らなかったのではないでしょうか。イエス・キリストは、二人の願いに対して、こう言われました。
「あなたがたは、自分が何を願っているのか、わかっていない。この私が飲む杯を飲み、この私が受ける洗礼を受けることができるか。」(10:38)
イエス・キリストは、ヤコブとヨハネの無理解を指摘されました。「栄光を受けることと、苦難を受けることは切り離せない。苦難を受けることなしに、栄光を受けることもない」と言おうとされたのでしょう。
しかしペトロに向かって言われたように、「サタン、引き下がれ」とまでは言っておられない。またペトロに対しては、「あなたは神のことを思わず、人のことを思っている」と言われましたが、ペトロに対しては言われていない。この言葉は、むしろヤコブとヨハネに対してのほうが当てはまるように思えます。そうお思いになりませんか。しかしそういうふうにも言われませんでした。このことについては、あとでもう一度取り上げたいと思います。
(3)「できます」
ヤコブとヨハネは、主イエスの「この私が飲む杯を飲み、この私が受ける洗礼を受けることができるか」という言葉に対し、「できます」と答えました。その答え自体、彼らがまだ主イエスの言葉の真の意味を理解していない証拠であるように思います。
しかしそれでも主イエスは、彼らの応答を無下に退けられません。このように言われました。
「確かに、あなたがたは、私が飲む杯を飲み、私が受ける洗礼を受けることになる。」(10:39)。
これは、「この後すぐに」ということではなく、「ずっと先の将来」ということだったのです。使徒言行録12章1節以下には、こう記されています。
「その頃、ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。そして、それがユダヤ人に喜ばれるのを見て、さらにペトロをも捕らえようとした。」(使徒言行録12:1~3)
ヤコブはこの時、権力者にもてあそばれる如く犠牲となって殺されていくことになります。ペトロもやがて同じように殉教することになるのですが、この時は(使徒言行録12章の段階では)、まだ神様がお許しになりませんでした。ペトロも最後には十字架につけられて、しかも伝説によれば、自ら志願して「逆さはりつけ」になって死んでいったということです。もう一人のヨハネがどうなったかは、いろいろな説があって、よくわかりません。他の弟子たちと違い、長生きをしたという説が有力です。ただしこのヨハネも明らかに苦難の伝道者の道を歩みました。そうしたことすべてが、主イエスの頭の中にすでにあったのではないでしょうか。しかし今はまだその時ではありませんでした。主イエスはこう続けられます。
「しかし、私の右や左に座ることは私の決めることではない。定められた人々に許されるのだ。」(マルコ10:40)
実際、この直後のイエス・キリストの受難の時には、「できます」と勇ましいことを言ったにもかかわらず、ヤコブとヨハネの姿はありませんでした。イエス・キリストの十字架の右と左にいたのは、なんと二人の強盗でありました。
(4)一番になりたいという気持ち
この二人は、イエス・キリストの弟子の中でも、トップに立ちたいという願いを持っていました。イエス・キリストに従う決心をした後でも、人間的な競争社会の中に置かれ、それを意識しながら従っていたということがわかります。
今日でいえば、たとえば牧師になるということは、いわば主イエスの弟子として生きるということですから、似たような面があります。しかしその世界でも、人間的な思いが出てきます。
このテキストの先を読んでみると、ほかの十人の弟子たちの反応が記されています。
「ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた」(10:41)とあります。ということは、ほかの十人も口にこそ出さなかったけれども、心の中では同じようなことを考えていたということではないでしょうか。「ヤコブとヨハネの奴め。俺たちを出し抜こうとしたな。」最後には、自分が主イエスの右にいたい。左にいたい。主イエスが栄光をお受けになる時、自分たちも一緒に栄光を受けたい。彼らは単純に、主イエスがエルサレムで栄光を受けられると思っていたのでしょう。そう思ったから腹を立てたのです。一体、誰がその右に来るのかということは、弟子たちの間の最も大きな関心事であったのでしょう。ペトロなどは、一番に「俺を出し抜いて、なんということを言うのだ」と思ったことでしょう。実際に、口に出してそう言ったかも知れません。
(5)牧師も弱い人間
私は、2013年に『牧師とは何か』という共同執筆の書物を監修して出版しました。その本のために、「牧師という仕事は何なのだろう。一体、どういう面があるのだろう」ということを改めて考えさせられました。
牧師も普通の人間ですから、この世的な願いや欲望を持っています。持ったまま献身している。ちょうどこの時のヤコブとヨハネのようなものです。牧師とは、自己実現(自分のやりたいこと、願いを達成する)の思いとイエス・キリストの召しとのはざまで、悩み苦闘するものです。でもそれを自覚しつつ、それと闘っているような存在であると言うことができるかもしれません。
イエス・キリストご自身、「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ10:11)と言われました。これが大牧者なるイエス・キリストの姿です。そして牧師が見倣うべき模範でもあります。イエス・キリストは、これに続けてこう言われます。
「羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。(中略)彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。」(10:12~13)
随分、厳しいことを言われます。私たち牧師も、口先ではなんとでも言えるかもしれませんが、いざとなった時にどういう行動に出るかはわかりません。真っ先に逃げ出すかもしれない。ヤコブとヨハネも「できます」と言ったにもかかわらず、十字架の時にはいませんでした。ペトロも夜明けの鶏が鳴く前に、三度イエス・キリストを「知らない」と否定してしまいます。
(6)はざまで苦闘する
ヤコブとヨハネのそうした「一番になりたい」という自己中心的な思いは、ある種の弱さであると思います。ペトロもその弱さを持っていました。しかしそのような弱い、自己中心的な人間と知りつつ、召し出して、「私の羊の世話をしなさい」(ヨハネ21:16)と命じられるのだと思います。
ペトロは三度「イエス様を知らない」と言った時に、悔い改めをしました。泣きました(マタイ26:75)。その悔い改めは、彼の原体験とも言える大きな経験であったでしょうけれども、悔い改めは一度限りのことではなかっただろうと思うのです。その後も、何度も何度も人間的な思いが出て来てはそれを反省し、そのはざまで苦闘しながら従っていったのではないでしょうか。
(7)キング牧師の説教「めだちたがりや本能」
マーティン・ルーサー・キング牧師は、1968年2月、彼が暗殺されるちょうど2か月前に、この箇所で興味深い説教をしています。説教題は「めだちたがりや本能」というものです(『真夜中に戸をたたく』所収)。梶原壽氏による日本語訳の題名です。原文では、どういう題であったのかなと思って、調べてみると、ドラム・メジャー・インスティンクト(Drum Major Instinct)という題です。インスティンクトというのは「本能」ですが、興味深い説教をしています。ドラム・メジャーというのは、軍楽隊や鼓笛隊の隊長です。楽隊がパレードをする時に、真ん中で、「ピーッピ」と笛を吹いて、あるいはドラムを叩いて指揮をする人です。かっこいいですよね。「ドラム・メジャーになりたい」という気持ち、それを梶原壽先生は「めだちたがりや本能」と訳されたのです。キング牧師は、ヤコブもヨハネも「めだちたがりや本能」(一番になりたい。注目されたい)を持っていたと言うのです。
しかしながらキング牧師は、イエス・キリストが彼らの「めだちたがり」の願いをそのまま退けられはしなかったことに注目します。ペトロに対しては、第1回目の受難予告時に「サタン、引き下がれ」と言われましたし、「あなたは神のことを思わず、人のことを思っている」と言われました。しかしヤコブとヨハネに対して、やんわりとたしなめてはいますが、全否定はされなかった。ペトロに対するような厳しい言葉はかけられなかった。そのことに注目するのです。そのことで説教をするのです。面白いですね。
そしてキング牧師は、「めだちたがりや」もそのまま悪い訳ではない。正しく用いればよい本能である」と説きます。そして「愛において、道徳的卓越性において、寛容においてこそ、第一人者となって欲しい」と勧めるのです。「人よりも前に出たい」という思いそのものは悪いものではない。いかにそれを用いるかが問題だということです。私は、この説教を読みながら、恐らく、キング牧師自身、自分の中に「めだちたがりや本能」があることをよくわきまえていたのだろうと思いました。そしてそれを否定するのではなくて、いかに自分でそれを承知しながら、どうそれとつきあっていくか、いかにそれをコントロールするかということを大事にしていったのではないでしょうか。人間とはどういうものか、よく知っていたキング牧師ならではの、興味深い説教です。
そして期せずして2か月後に、キング自身もこのヤコブと同じように、いわば「主の差し出される杯を飲んで」、殉教の死を遂げることになるのです。この説教のちょうど2か月後の1968年4月4日のことでした。
私は、自分の中にも「めだちたがりや本能」があるなと思いました。多くの牧師がそうではないかと思います。(「私はそんなことはありません。めだつのは嫌いです」という牧師もあるかもしれませんが)。牧師も人間ですから、さまざまな人間的な思いをもっています。それをいつも自覚し、軌道修正しつつ、苦闘しながら、イエス・キリストに従っていく。牧師というのはそういう仕事かなと思います。
またそのことは、牧師に限らず、すべてのクリスチャンに多かれ少なかれあてはまる、イエス・キリストに従う者の姿でもあると思います。過ちを犯しながら悔い改め、自分中心の思いをうまくコントロールしながら、それを清めて用いていただくのです。イエス・キリストに仕える道において、それが神さまにも人にも喜ばれる形で、賜物として用いられていく。苦難も栄光も受けながら、そうした道を大胆に歩んで行きたいと思います。