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2021年7月25日説教「主イエスのユーモア」松本敏之牧師

マタイによる福音書17章24~27

(1)ユーモアとジョーク

鹿児島加治屋町教会の聖書日課、今は、マタイ福音書を読み進めています。本日は、昨日の聖書日課であった17章から24~27節の言葉を選びました。これは、マタイ福音書だけが記しているエピソードですが、私はイエス・キリストのユーモアというのを感じさせる話だと思います。思わず、くすっと笑いが出てきます。イエス・キリストに果たしてユーモアのセンスがあったのか。私はあったと思います。ユーモアとは、単なるジョークではありません。

そもそもユーモアとは何でしょうか。上智大学の名誉教授であり、イエズス会の司祭であったアルフォンス・デーケンさん(昨年9月に88で亡くなられました)は、ドイツには「ユーモアとは《にもかかわらず》笑うことである」という有名な定義がある」と紹介しています。自分はいま大変苦しくつらい状態だが、それにもかかわらず、相手を少しでも喜ばせようとほほえみかけるやさしい心づかいが、真のユーモア精神だという意味である。」

「この世の悩みや苦しみを直視したうえで『にもかかわらず』笑いを忘れぬことこそ、成熟した深いユーモアなのである。そのようなユーモアを身につけた人は、あらゆる不満や失望にもかかわらず、この世を愛し、人々を、人生を、そして自分自身を愛することが出来る」。

ユーモアとジョークは違うとして、ジョークというのは言葉の上手な使い方やタイミングの良さなど、頭から頭へのテクニックであり、ユーモアは心から心へ伝える具体的な愛の表現だとのことです。私はどちらも好きですが。「悩みや苦しみのさなかにあっても、それに溺れず、相手に笑顔を向けようと努めるやさしさと思いやりがユーモアの原点である」というのです。その意味で、イエス・キリストは、ジョークはあまり言われなかったようですが、深い意味でユーモアのセンスは持っておられたと言えると思います。

(2)神殿税を納めるかどうか

イエス・キリストは不思議な方です。人知を超えた知恵で、論争相手をあっと言わせるようなこともありましたが、ユーモアのセンスで、相手を立てて、譲歩することもありました。

マタイ福音書17章24~27節に記されているのは、まさにそういう出来事でありました。ある日、神殿税の集金人がペトロに、「あなたがたの先生(主イエス)は神殿税を納めないのか」と尋ねました。ペトロは、即座に「納めます」と答えました。

この問いかけの背景には、イエス・キリストが、「ユダヤ人にふさわしくない行動をしている」危険人物として、当局から目をつけられていたということがあったと思われます。しかも主イエス自身も、「人の子は人々の手に渡されようとしている。そして殺される」(22、23節)と語られたばかりでした。弟子たちは心を痛めていました。ペトロも当局の反感を買うことは絶対に避けなければならない、と思ったのでしょう。

ペトロがあわてて家に戻りますと、主イエスはすでに事態を悟っておられました。そしてイエス・キリストのほうから、こう切り出されます。

「シモン、あなたはどう思うか。地上の王は、税や貢ぎ物を誰から取り立てるのか。自分の子どもたちからか、それともほかの人々からか・」(25節)

ペトロが「ほかの人々からです」と答えると、主イエスは「では、子どもたちは納めなくてよいわけだ」と言われました。

王の子どもが、王に税金を納めないのと同様に、自分は、父の家である神殿の税金を納める必要はない。主イエスは、まず「納める必要はない」という原則を確認されました。

主イエスにとって、神殿は実家のようなものです。神の子なのですから。そこでは全く自由です。しかしペトロは「それはそうかもしれないけれど。そんなこと言ったって、あちらには通用しませんよ」と困ったことでしょう。

そこで主イエスが、そうした自由の中にあって、イエス・キリストは神殿税を支払うことを拒否するのではなく、支払うことを選ばれるのです。言いかえれば、ここで原則を押し通して開き直るのではなく、「彼らをつまずかせないように」という理由で、神殿税を納めることにされるのです。

イエス・キリストは、神の子でありましたが、一人の人間として、より具体的には一人のユダヤ人として、この世界にお生まれになりました(クリスマスの出来事)。このことは、本来制約を持たないはずのお方が、制約を持った世界の中へ入って来られたということです。そのように、制約を持つ一人の人間として生きるということなのです。

(3)魚の口から

しかもそのお金の用意の仕方が、とても愉快です。もちろん主イエスもペトロもそんなお金を持っていません。盗んで納めるわけにもいきません。さてどうしたものか。ここから先が愉快なのです。

「湖に行って釣り針を垂れなさい。そして最初に釣れた魚を取って口を開けると、銀貨が見つかるはずだ。それを取って、私とあなたの分として納めなさい」(27節)。

ペトロを湖へ釣りに行かせ、最初に釣れた魚の口から銀貨を取り出すというのです。二人分の神殿税というのは、ちょうど銀貨一枚分でした。出エジプト記30章11節以下には、次のように記されています。

「あなたがイスラエルの人々の数を数えて登録するとき、登録にあたり、彼らはそれぞれの命の贖い金を主に納めなければならない。登録することで彼らに災いが起きないためである。登録の済んだ者はすべて、聖所のシェケルで半シェケルを納める。」(出エジプト30:11)

(4)弟子たちも神の子ら

さらに、主イエスは、「では、子どもたちは納めなくてよいわけだ」と言われた時に、ご自分を「神の子」とされただけではなく、ご自分に連なる者も神の子として立てられました。「子どもたち」と複数形になっていることはそれを暗示しているようですし、実際、ペトロの納めるべき神殿税まで、魚から取り出して準備してくださいました。

ご自分の弟子をも「子どもたち」とされたということは。キリストの弟子たちも、神の子として、イエス・キリストと同じ自由を得るということを意味していると思います。

この手品みたいな仕方で、銀貨をご用意くださったことで、ペトロはほっとすると同時に、大喜びしたことでしょう。この解決方法には、自分の正しさや権利を貫いて対立するよりも、どちらでもいいことには喜んで譲歩される主イエスのゆとりとユーモアが感じられます。自由な判断で相手を立てられたのです。

(5)信仰者の自由

私たちは、イエス・キリストに連なる時、キリストと同じ、自由を手にします。使徒パウロも、この自由の精神から興味深いことを言っています。「偶像に供えられた肉を食べてもよいか」という議論でのことです。当時のユダヤ人たちは、「偶像に供えられた肉は汚れているから食べてはいけない」と言っていました。それに対して、パウロは、こう言うのです。

「食物が私たちを神のもとに導くのではありません。食べなくても不利にはならず、食べても有利にはなりません。」(コリント一8:8)

これが原則です。しかしパウロは、そこにとどまらず、

「ただ、あなたがたのこの強さがが、弱い人々のつまずきとならないように、気をつけなさい。」(同9節)
「このきょうだいのためにも、キリストは死んでくださったのです。」(同11節)
「それだから、食物が私のきょうだいをつまずかせるなら、きょうだいをつまずかせないために、私は今後決して肉を口にしません。」(同13節)

「いや、偶像に供えられた肉であっても、食べてもかまわない。クリスチャンというのは、そういう考えから自由にされている。ただし、もしもそのことでつまずく人がいるならば、食べない方がいい。私は、その人をつまずかせないために、決してそれを食べない」ということです。

(6)相手を立てる心のゆとり

ここには、イエス・キリストが「彼らをつまずかせないように」神殿税を納めることにした自由と同じ自由があります。パウロの余裕とすがすがしさを感じます。どちらでもよいことに対しては、原理原則を貫くことよりも、相手を立てることを選ぶ。それこそが何よりも優先すべきことだ。相手と張り合って、相手を打ち負かして、勝ち誇るのではない。

私たちは、そんなことのために召されたのではない。パウロは、ガラテヤの信徒への手紙でこのように言いました。

「きょうだいたち、あなたがたは自由へと召されたのです。ただ、この自由を、肉を満足させる機会とせず、愛をもって互いに仕えなさい。なぜなら律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句において全うされているからです。互いにかみ合ったり、食いあったりして、互いに滅ぼされないように気をつけなさい。」(ガラテヤ5:13~15)

どの世界においても、近い者ほど対立しあうということがあります。宗教界においてもそうでしょう。私たちが属する日本キリスト教団においても、そういうことがしばしばあります。一般のクリスチャンの人が、あるいはクリスチャン以外の人がお聞きになると、耳を疑いたくなるようなことがある。教団の中の「力」を持った人が、違った考えの人を立てて、そこから学ぼうとするのではなく、そうした相手を排除し、自分たちに同調してくれる仲間を増やし、その人たちで一つのグループを形成しようとする。政治の世界にあることがキリスト教会の中にもある。あるいはひとつの教会の中でも、そういうことが起こりえます。

(7)「黒い聖母像」事件

身近な話よりも、遠い話のほうが冷静に受け止められて、分かりやすい面もありますので、ブラジルの話をしましょう。ブラジルの宗教界でも、不幸な事件がありました。ブラジルのカトリックには、黒い聖母像を守護聖者とする民間信仰があり、これを祭るアパレシーダには、毎年10月12日に10万人以上の信者が巡礼に訪れます。そこには、「かつてある漁師が漁をしていたら、黒い聖母像が川から出てきた。それを丁寧に取り扱って安置したら、その次から大漁になった」という伝説があるのです。

私がブラジルにいた頃、1995年10月12日、こういう「偶像崇拝」を憂えたペンテコステ派の「神の国ユニバーサル教会」という教会の牧師が、深夜の宗教番組で、「この醜い人形を神に比べるなど、もっての他だ。これはそこらで500円程買ってきたものだ。こんなものには何の力もない。騙されるな。偶像崇拝してはいけない」と言って、その黒い聖母像を蹴ったり殴ったりする挑発的行為をテレビで放映してしまいました。当然のことながら、カトリック側から猛反発があり、さながら宗教戦争のようになってしまいました。

私もプロテスタントの牧師ですから、黒い聖母を拝むというのは、キリスト教とは言いがたいという意識は共有できます。それは偶像崇拝だというのもわかります。しかしそこで、人が大事にしているものを、土足で踏みにじることは間違っているでしょう。こういう場でこそ、キリスト者の自由をもって、主イエスの「人をつまずかせないための、心のゆとりとユーモア」が大事であると思うのです。

今日のように対立の激しい世界においては、やたら原理原則を主張することよりも、ユーモアとゆとりをもって相手を立てるような姿勢を、イエス・キリストから学びたいと思います。

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