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2021年11月7日説教「多くの証人に囲まれて」松本敏之牧師

ヘブライ人への手紙11章1~4節、12章1~6節

(1)永眠者記念日

11月第一日曜日は、日本キリスト教団では、聖徒の日あるいは永眠者記念日と呼ばれています。キリスト教会では、随分古くから(8世紀頃)、殉教者たちなど聖人を記念する日として、11月1日を諸聖徒の日(All Saints’ Day)と定めてきました。そしてその翌日の11月2日を諸霊の日あるいは万霊節(All Souls’ Day)と呼んで、特に歴史に名を残さずとも、信仰をもって死んだ人たちを記念する日と定めてきました。

ちなみにハロウィンというのは、この諸聖徒の日の前夜祭として、死者の霊がお墓から出てくるという世俗的なお祭りです。その意味でキリスト教と無関係ではありませんが、悪霊を追い払って収穫を願うという古代ケルト起源のお祭りで、聖書とは関係ありません。

鹿児島加治屋町教会では、この時期ではなく、8月の里帰りの時期にあわせて召天者記念礼拝をまもっています。この礼拝には、クリスマス以上の大勢の人々が集まるのですが、昨年、今年と2年続けて、コロナ対策として、それを中止しました。そういうことも踏まえて、今日は先に天に召された方々のことも心に留めてお話したいと思います。

ちなみにブラジルでも、11月2日はフィナードスの日(死者の日)として、国民の休日にもなっていますので、家族そろってお墓参りに行きます。私は、今からちょうど30年前、1991年の10月末にサンパウロに到着しましたので、教会の人に連れられての最初の外出がこのお墓参りでした。北半球と反対ですので、サンパウロあたりでは、ちょうど日本の5月初めのゴールデンウィークのような季節です。墓地全体が色とりどりの春の花で飾られます。お墓に供えられた花を盗んで、また墓地の入り口で売るという貧しい人たちもいると聞きました。不謹慎なようでもあり、リサイクルで合理的なようでもあります。「神をも恐れぬ不届きな行為」とも言えますが、貧しい人が生活のためにやっているならば、まあ神様もお許しになるかなと思います。なんともブラジルらしいことです。

(2)町田利子さんの納骨

鹿児島加治屋町教会では、召天者記念礼拝は先ほど述べたように8月ですが、永眠者記念日である11月第一日曜日に、平川町にある教会墓地において墓前礼拝を行っています。以前は春と秋に年に2回行っていましたが、ここ数年は年に一回にして、ご遺族が教会墓地に埋葬されていない方もお墓に集まりましょう、と呼びかけています。

本日は、その墓前礼拝の日でありますが、それにあわせて、先月10月12日に、94歳で召天された町田利子さんの納骨を行うことになっています。

町田利子さんについてご存じない方も多いと思いますので、少しだけお話しておきましょう。町田利子さんは、1927年に徳之島にてお生まれになり、鹿児島市の女学校を卒業された後。お母様が徳之島で学校の先生をしておられた関係で、一時、徳之島の学校で代用教員をなさいました。しかしその後、さらに勉強したいと思って、東京の洋裁専門学校で勉強をされました。その間かその後か、今で言うブティックのようなところでお仕事をされたそうです。その職場の上司にクリスチャンがおられて、その方のお誘いで、文京区の本郷中央教会に行かれ、5年間ほど通われた後、1958年4月6日イースターに洗礼を受けられました。洗礼の試問会の時に、他の人は受洗への篤い思いを話されたけれども、自分は聖書がまだよくわからなかったので、「正しく生きる自信はないが(尊敬する)上司のような生き方をしたい」と述べられたそうです。そうすると牧師から「何も心配はいらない」と言われて安心して受洗されたとのことでした。その後、鹿児島市に戻られて、薩摩屋という洋裁店にデザイナーとしてお勤めになりました。その後のご結婚のことや教会の転会のことなどは、省略いたします。

教会の月報「からしだね」418号(2019年12月22日発行)に、田尻徳子さんによる町田利子さんへのインタビュー記事(訪問記)が掲載されています(「パンの笛」)が、そこでこう述べられています。

「日々の生活の中で色々な試練や人を裁くような思いもありましたが、今は『いいよ、いいよ』とおっしゃってくださる神様をとても身近に感じ、神様の大きな愛の中にいられて感謝です」

(3)雲のような証人の群れ

さて鹿児島加治屋町教会の聖書日課では、今、ヘブライ人への手紙を読み進めています。ちょうど昨日と明日の聖書日課が、永眠者記念日にふさわしい箇所でありましたので、それを読んでいただきました。明日の聖書日課である12章の冒頭には、こういう言葉があります。

「こういうわけで、私たちもまた、このように多くの証人に雲のように囲まれているのですから、すべての重荷や絡みつく罪を捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか。」(ヘブライ12:1)

ここで触れられている「多くの証人」というのは、11章に登場する旧約聖書の証人たちです。しかし私たちは、それだけではなく、私たちの教会の信仰の先輩や先に天国へ行った家族のことも思い浮かべることができるのではないでしょうか。私たちは、地上にあってイエス・キリストの証人たちと、今共に礼拝をしています。ここにひとつの信仰共同体があります。しかしそれだけではありません。天を見上げると、そこには先に天に召された信仰の先輩たち、仲間たちが大勢、証人としていることを思い浮かべることができます。2021年だけをとってみても、先ほどの町田利子さんの他に、前田千恵さん、植松忠雄さんが天に召されました。他にも皆さんの親しい方で天に召された方々があると思います。

(4)雲のように取り囲まれて

「雲のように取り囲まれている」という表現は、空を見上げて天国を思い浮かべる、ヴィジュアルなイメージで、とてもよい訳だと思います。かつての口語訳聖書(1954年)も同じように「雲のように」という言葉がありました。ところが、1987年の新共同訳聖書では、「多くの証人の群れに囲まれている以上」と訳され、「雲のように」という言葉が無くなっていました。「あれ、雲が無くなっている」とがっかりしました。それこそ「雲のように」消えてしまった。しかしこの度の聖書協会共同訳では「雲のように」という言葉が、再び「雲のように」現れてきましたので、うれしく思いました。

私たちの今日の礼拝も、地上の私たちと天上の雲のような証人の群れがひとつとなって、天と地の両方から、共に主イエス・キリストを礼拝しているのだということを思い起こしたいと思います。

(5)試練や迫害を乗り越えて生きる

さて先週、ヘブライ人への手紙は、紀元80年から90年の間に、当時迫害の危機にあった、クリスチャンたちに向かって、「先立ちゆくキリストをしっかりと見つめて、望みと忍耐をもって前進するように」と励ますために書かれたと申し上げました。それが最もあらわれているのが、今日、読んでいただいた箇所です。12章1節からもう一度お読みします。

「こういうわけで、私たちもまた、このように多くの証人に雲のように囲まれているのですから、すべての重荷や絡みつく罪を捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか。信仰の導き手であり、完成者であるイエスを見つめながら、走りましょう。この方は、ご自分の前にある喜びのゆえに恥をもいとわないで、十字架を忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。」(ヘブライ12:1~2)

私たちは、初代のクリスチャンほどの迫害は受けていないかもしれませんが、別の形で、試練や誘惑の多い時代に生きています。そこではそれぞれに定められた道を忍耐強く走り抜くことが求められます。しかしこれは短距離走ではありませんので全速力で走ると疲れてしまいます。どちらかと言うとマラソンに近いのかもしれませんが、それよりももう少しゆったりとした気持ちで、時に歩きながら、時に立ち止まって休みながら進みゆくことが大事でしょう。そしてイエス・キリストと同じように「喜び」を胸に歩む旅路であります。この道は独りぼっちではありません。旅の仲間たちがいます。先に天に召された雲のような証人たちがいます。そして何よりも「信仰の導き手であり、完成者であるイエスを見つめながら」走るのです。そのイエス・キリストを見失わないために、そのお方が何をしてくださった方であるかが付け加えられます。「この方は、ご自分の前にある喜びのゆえに恥をもいとわないで、十字架を忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。」これが私たちの信仰の根拠であり、希望の根拠です。

(6)信仰とは何であるか

さて、順序が逆になりましたが、ヘブライ人への手紙の著者はそれに先立つ11章で、信仰とはどういうものであるか、定義のようなことを述べています。

「信仰とは、望んでいる事柄の実質であって、見えないものを確証するものです。」(ヘブライ11・1)

少し難しい言葉です。新共同訳聖書ではこういう言葉でした。

「信仰とは望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」

こちらのほうがわかりやすかったと思います。この訳はその前の口語訳聖書ともほぼ同じでした。

これまでの訳のほうがわかりやすかったのに、新しい聖書協会共同訳ではどうしてわざわざ分かりにくい訳にしてしまったのか。実は新しい訳のほうが元の言葉に近いのです。これまでの訳はかなりの意訳、それも少し誤解を招きかねないものを含んでいたからだと思います。

まず前半ですが、新共同訳では、「信仰とは望んでいる事柄を確信し」となっていました。これは間違いとは言えないのですが、誤解を招きかねない。なぜかと言えば、自分が望んでいることを確信することが信仰だというふうに読める。もしもそうだとすれば、何でもいいからそれぞれ望んでいることを疑わずに確信すること、それが信仰だということに受け止められかねないと思います。日本語にも「イワシの頭も信心から」という諺があります。しかしここで「望んでいる事柄」というのはそういうことではありません。これは、原文のギリシア語では受動態、受身形になっています。つまりこちら側が主体的に「望んでいる事柄」と言うのではなく、もっと客観的な事実に目を向けようとするのです。それは「私たちの罪がイエス・キリストによって担われ、私たちが天国へ迎え入れられる」というような内容です。それは確かに私たち自身が「望んでいる事柄」ではありますが、それ以前にイエス・キリストによって示されて確かなものとなった「望まれている事柄」なのです。さらに「確信する」という言葉も、下手をすれば「証拠はないのに思い込む」というふうにも理解されかねないのではないでしょうか。これもそうではなく、もっと確かなものだという。新しい訳では「実質」であると訳されました。

後半は、これまでの訳は「見えない事実を確認することです」でした。これもすごい言葉ですね。見えない事実をどうやって確認するなか、ということになりそうですが、「まだ目には見えないけれども、本当にそうなのだとわかること」という意味かと思います。ただ、やや煙(けむ)に巻かれた感じがしないでもありません。間違いではありませんが、意訳、「超訳」という気もします。新しい訳では「見えないものを確証することです」となりました。まとめますと、ヘブライ人への手紙の著者が言おうとしていることはこういうことでしょう。

「希望は決して私たちの主観的願望ではなく、客観的事実です。それはイエス・キリストが十字架の死によって確立してくれた事実なのです。いずれ与えられることになっている永遠の救済(救い)は、私たちにとってはまだ見ていない未来であるけれども、そのことが確かであるという「確証」はすでに決定的な事実として存在しているのです。それが信仰の実質です。」

これを一言で訳すのは確かにかなり難しいのでしょうが、新しい訳ももう少しわかりやすく何とかならなかったのかなという気もしています。

文学者の柳生直行氏の個人訳聖書では、原文のニュアンスも加味して、しかも文学者らしい日本語になっていますので、それを紹介しておきましょう。

「信仰とは、いま望んでいる事柄の実在性を確信し、目に見えないものを現実に存在するものとして受け止めることである。」

なかなかよい訳であると思います。

(7)旧約聖書の信仰の証人たち

ヘブライ人への手紙の著者は、「信仰とはどういうものか」という定義を踏まえつつ、「信仰賛歌」と呼ばれる、一連の詩のような文章を置いています。「信仰によって」という言葉が18回も繰り返されるのです。まずこういう言葉です。

「信仰によって、私たちは、この世界が神の言葉によって造られ、従って、見えるものは目に見えるものから造られたのではないことを悟ります。」(11:3)

そのように、天地創造に心を留めさせます。その後、旧約聖書に登場する信仰の証人たちを列挙しています。その中でとりわけ有名なのは8節のアブラハムについての言葉です。

「信仰によって、アブラハムは、自分が受け継ぐことになる土地に出て行くように召されたとき、これに従い、行く先を知らずに出て行きました。」(11:8)

これこそ「信仰の父」と呼ばれるアブラハムの「信仰」を象徴する決意、出来事でありました。

最後にもうひとつ、11章13節以下の言葉に注目したいと思います。

「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束のものは手にしませんでしたが、はるかにそれを見て、喜びの声を上げ、自分たちが地上ではよそ者であり、滞在者であることを告白したのです。彼らはこのように言うことで、自分の故郷を求めていることを表明しているのです。もし出てきた故郷のことを思っていたのなら、帰る機会はあったでしょう。ところが実際は、彼らはさらにまさった故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。」(11:13~16)

いかがでしょうか。これは旧約の時代の証人たちだけではなく、私たちが今日生きている、その信仰者の生き方ではないでしょうか。私たちも地上のふるさとにまさる天の故郷にあこがれを抱きつつ、それぞれに与えられた道を走ったり休んだりしながら、イエス様を見つめて歩んでいきたいと思います。

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