2021年8月1日説教「隣人の中のイエス」松本敏之牧師
マタイ福音書25章31~40節
(1)平和聖日
8月は、日本では平和を祈る時です。日本基督教団では、8月第一日曜日を平和聖日と定めています。例年、この8月第一日曜日に、私たちは鹿児島ユネスコ協会との共催で、礼拝に続いて、「平和の鐘を鳴らそう」という催しをもっていますが、昨年に続いて、今年も、コロナ禍にあるので、中止となりました。しかし平和について祈ることは、今年も変わりません。いやむしろコロナ禍にあるからこそ、平和が脅かされるという事態も起きています。
平和とは、ただ単に戦争をしていないだけではないからです。特に、聖書の示す平和、ヘブライ語のシャロームは、もっと広い概念です。「生のあらゆる領域において、望ましい満ち足りた状態」を指しています。ですから、「平和」の他に、「平安」「和解」「無事」「健康」「繁栄」などと訳すこともできます。みんなが幸せな状態です。それはヴィジョンとして与えられている「神の国」の姿でもあります。主の祈りの第二の祈り「み国が来ますように」という祈りは、そういう神の国、みんなが幸せな状態、シャロームが実現しますようにと祈ることです。
さて今日は、この平和聖日にちなんだ資料を、2枚配布しました。まず「2021年日本基督教団・在日大韓基督教会平和メッセージ」というもの。その最後のページ(第4ページ)に「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」を付けました。鹿児島加治屋町教会では、年に一度、平和聖日には、これを皆さんと一緒に朗読していますが、昨年と今年は、コロナ禍にありますので、中止しています。これについて詳しく述べることはしませんが、日本基督教団が第二次世界大戦において「見張り」の役割を果たすことができなかった罪責の告白をし、平和への誓いを述べた大事な文書ですので、各自でよくお読みください。
また今年は、九州教区の平和メッセージもあわせて配布しました。これは教団の平和メッセージと共に大事にしたいと思います。特に九州教区では、沖縄との連帯を強調して表明していることが重要であります。
(2)日本基督教団・在日大韓基督教会の「平和メッセージ」
さて改めて、今年の日本基督教団と在日大韓基督教会の平和メッセージに耳を傾けたいと思います。本文は、このように始まります。
「新型コロナウイルス感染症のパンデミックは、世界中を揺るがし、経済的格差のみならず、命の格差までも浮き彫りにしました。日本国憲法は前文に『われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する』として、平和的生存権を謳っております。しかし今の日本は、平和的生存権が脅かされ、格差社会の増幅に歯止めを掛けることすら出来ておりません。
格差社会は『人権としての平和』を脅かしており、これに対し、私たち日本基督教団と在日大韓基督教会(以下、両教会)は、『平和を実現する』(マタイ5:9)使命を帯びて遣わされている教会として、日本をはじめ世界に生きる人々の命が守られ、安心して暮らすことのできる平和な社会の実現を祈り求めます。」
ここに「平和的生存権」「人権としての平和」という言葉が出てきますが、それは先ほど申し上げたように、「平和」というのが単に戦争をしていない状態のことではないことを示していると思います。「平和」とは、誰もが生活を脅かされず、差別なく、安心して生活できることでしょう。
両教会の「平和メッセージ」は、その後、6つの具体的な課題について述べています。すなわち「難民・在日外国人の人権について」、「ミャンマーの人権問題について」、「日本の原子力政策について」、「沖縄問題について」、「ヘイトスピーチ問題について」、「日韓関係問題について」であります。
(3)イエス・キリストの「最後の教え」
さて、鹿児島加治屋町教会独自の聖書日課、マタイ福音書の最後の週となりました。この前後のみ言葉から、平和に関係のある箇所を、皆さんと一緒に読みたいと思い、25章31節以下の言葉を選びました。明後日の8月3日の聖書日課の箇所です。
7月11日の説教で、「マタイ福音書の特徴のひとつは、『教え』が多いということです。その中でも特に重要なのは、5章から7章のいわゆる山上の説教です」と申し上げました。その「山上の説教」と並んで、もうひとつ重要なもの、ある意味ではそれよりも重要なのが、25章に記された「最後の教え」であります。マタイ福音書は、26章から受難物語に入っていきます。25章は、受難物語が始まる前の、いわばマタイ福音書における「イエス・キリストの遺言」のような教えです。ここには、「『十人のおとめ』のたとえ」、「『タラントン』のたとえ」、そして「すべての民族を裁く」と題された教えがあります。中心は、次の言葉です。
「この最も小さな者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのである。」(マタイ25:40)
そして、これとちょうど対になる、裏返しのような言葉が、45節に出てきます。
「この最も小さな者の一人にしなかったのは、すなわち、私にしなかったのである。」(マタイ25:45)
この言葉こそ、マタイ福音書のクライマックス、マタイが記す、イエス・キリストの最も重要な教えであると言ってもよいと、私は思っています。
この後、第26章よりいわば主イエスの受難物語が始まりますので、そういう意味では、この部分は、主イエスの教えの総括であると言ってもいいと思います。実にスケールの大きい話を、主イエスはここでされています。
「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えてくるとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。」(マタイ25:31~33)
そのようにして、人の子は、裁きを始められるのです。では一体その裁きの基準は何かということが、この箇所のひとつの中心点です。
マタイ福音書の中で、主イエスの教えがまとめられた箇所としては、5~7章の山上の説教の終わりの部分で、主イエスはこう語っておられました。
「私に向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。天におられる私の父の御心を行う者が入るのである。その日には、大勢の者が私に、『主よ、主よ、私たちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をたくさん行ったではありませんか』と言うであろう。その時、私は彼らにこう宣言しよう。『あなたがたのことは全然知らない。不法を働く者ども、私から離れ去れ。』」(マタイ7:21~23)
山上の説教の終わりにあるこの主イエスの言葉と、主イエスの教え全体の総括である今日の箇所とは、響き合うものがあると思います。偽書者が退けられて、本当に心から喜んで主の御心を行う人、あるいはそれさえも気づかないほど自然に主の喜ばれることをする人が御国へ入れられる。そこでは一種の逆転が起きる、というのです。これによってイエス・キリストは私たちを脅したり、脅迫したりしようとしておられるのではありません。未来のことを語りながら、「今」私たちがいかに生きるべきかということについて語っておられるのです。「今という時」を主の御心にふさわしく生きるために、この言葉を語られました。このみ言葉に聞きつつ、何が主に喜ばれることであるかを知り、「よし、わたしもそのように生きよう」と促される者となりたいと思います。
(4)世界の主キリスト
この言葉を読んで心に留めたいことのひとつは、私たちの主は、ただ単に数会の主、あるいはクリスチャンの主というだけではなく、世界全体の主であるということです。主イエスは、それを信じていようとなかろうと、知ろうと知るまいと、すべての人の主であられます。それを世間の人が認めようと認めまいと、すでに主はこの世界を隠れた形で支配しておられて、きたるべき日には、それが明らかになるということです。それが聖書の信仰です。私たちはふと、イエス・キリストをクリスチャンの神様と思い込んでいることがありますが、そんな枠にイエス・キリストを閉じ込めることは間違っています。確かに教会は主の宣教の拠点ではありますが、主の栄光は教会を超えて輝きますし、主は教会を超えてお働きになる方です。主イエス御自身、ヨハネ福音書10章では、こう言われました。
「私は羊のために命を捨てる。私には、この囲いに入っていないほかの羊がいる。」(ヨハネ10:15~16)
イエス・キリストは、クリスチャンのためだけに死なれたのではありません。この世界のすべての人のために命を捨てられた。そしてすべての人のことを心配し、心に留めておられる方です。それほど大きなスケールの主の働きを、かえって私たちクリスチャンが狭めてしまっていないかということをもう一度考えてみる必要があるかも知れません。主の支配は私たちの想像をはるかに超える世界にまで及び、主の恵みは私たちの想像を超えてはるかに遠くまで到達するのです。
「最も小さい者の一人にしたのは、私にしたのである。」深い味わいのある言葉です
(5)貧しい者と一体であるキリスト
「あなたがたは、私が飢えていたときに食べさせ、喉が渇いていたときに飲ませ、よそ者であったときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに世話をし、牢にいたときに訪ねてくれた。」(マタイ25:35~36)
このところについて、釜が崎で働く本田哲郎神父は、「ここで取り上げられているのは、『食』『住』『衣』『健康』『自由』という5つの基本的人権に関係している」と述べておられます。つまり、人が人として生きる最も基本的な事柄が脅かされるような人のところに主イエスがおられ、一体となっておられるということです。
このことは、今日の世界において、何を意味しいるのか。それは、イエス・キリストは私たちの助けを必要としているような隣人、兄弟姉妹として、生きておられるということです。「隣人」の中にキリストを見いだすこと。聖書がいう隣人とは、ただ「隣にいる人」ということではありません。有名なルカ福音書10章に記されている「よきサマリア人のたとえ」によれば、それは「私に向かって、助けを求めている人」のことであります。言い換えれば、今日、私たちはそうした私たちの助けを必要としているような隣人を通して、キリストと出会うということ、私たちがキリストと出会うのはまさにそうした人々を通してである、ということです。
(6)「その名はイエス・キリスト」
私はブラジルにいた頃、「その名はイエス・キリスト」という賛美歌に出あいました。この後で、私が訳した日本語歌詞で歌っていただくことになっています。私は、この賛美歌はブラジルの賛美歌だと思っていましたが、実は最近1970年代初め頃に、スペインで作られたものがオリジナルであると知りました。それがブラジルに渡って、メロディーも歌詞も少しずつ変化していったようです。
私の日本語訳で、1節と3節を紹介しましょう。
1 その名はイエス・キリスト 飢えのため叫んでいる
私たちはその前を 足早に通り過ぎる
その名はイエス・キリスト 道端で眠っている
私たちはかたわらを 教会へと急ぎ行く
私たちのすぐそばに おられるのに気づかない
私たちのただ中に おられるのにわからない
3 その名はイエス・キリスト 平和と愛を求めて
正義を説き始めると 捕らえられ、黙らされる
その名はイエス・キリスト 牢屋の中に入れられ
しいたげられる姿は 私たちには見えない」
私たちのすぐそばに おられるのに気づかない
私たちのただ中に おられるのにわからない」
この3節の言葉は、もとのポルトガル語を直訳すると、こういう内容です。
3 その名はイエス・キリスト
病気で、牢屋の檻の向こうに住んでいて
私たちはほとんど彼を見ることはなく
追いやられた人であることを知っている
その名はイエス・キリスト
愛と正義の世界に渇いて歩いている
しかし彼が平和を唱えるや否や
〈秩序〉は彼を争う人にしてしまう」
(7)ミャンマーの人権問題、入管施設での人権問題
先ほど紹介した日本基督教団と在日大韓基督教会の平和メッセージの最初に取り上げているのが、〈難民・在日外国人の人権について〉でありました。今年の3月、名古屋入管に収容されていたスリランカ人女性が、適切な医療、治療を受けられず、死亡するという痛ましい事件がありました。あのスリランカ女性の姿に、イエス・キリストが重ね合わせられるのです。
あるいは、この3節の後半は、先ほどの「平和メッセージ」が、その次に取り上げているミャンマーの問題と重なって見えてきます。「平和」を唱えているのに、当局は「秩序」をかざして、逆に「平和を脅かす人たち」というレッテルを貼って、牢屋に入れてしまう。そして黙らされてしまうのです。香港で、昨年来起きていることも、それに通じるものでしょう。
この「平和メッセージ」で訴えられていることを、私たちは政治問題としてとらえ、教会の中で、そういう政治問題を語るのはやめて欲しいと言われる方もあります。しかしこのマタイ福音書25章と重ね合わす時に、これは他ならぬ「信仰の問題である」、あるいは「信仰の質が問われているのだ」と思うのです。そういう人たちの姿の中に、キリストを見いだしていくことができるか。そういう信仰が問われているのだと思います。