2021年7月18日説教「家 族」松本敏之牧師
出エジプト記10章3~11節 使徒言行録16章25~34節
(1)「ばった」か「いなご」か
主がエジプトに下された災いの話を続けて読んでおります。今日は、第10章に記された8番目の災い、「ばったの災い」です。新共同訳聖書、口語訳聖書では「いなごの災い」となっていました。
「ばった」と「いなご」について、調べてみますと、まず「いなご」は「ばった」科の一種だそうです。詳しいことは抜きにしますが、「いなご」では、ここに記されているような「大群による災害」というのは起きないようです。しかし聖書以外でも、たとえば手塚治虫の『ブッダ』でも、「イナゴの大群が襲来して、すべてを食い尽くした」という表現が出てきます。これは中国語の「バッタ」である蝗(虫ヘンに皇帝の皇)という漢字に「イナゴ」という読みがながつけられたためのようです。
学問上はいなご種にはこのような蝗害(こうがい)はないのですが、日本ではそういう現象が見られないので、漢字からいなごととらえられてしまって現在に至っているようです(サイト「昆虫食のセミタマ」参照)。その意味で、今回の聖書協共同訳は、それを正しく訳し直したということができるでしょう。
(2)ばったの災い
「ばった」「いなご」というと、私たちには何かあまり大したことがないように思えます。先ほど申し上げましたように、日本にはそういう災害がないものですから。2番目が「かえるの災い」でしたが、それと同じレベルで、ただ気持ち悪く、困ったものだという程度に思えるのではないでしょうか。しかも、ばった、いなごは食べられるものでもありました。レビ記11章には、何を食べてよいか、何を食べてはいけないかということが記されているのですが、その中にこういうおもしろい食物規定があります。
「羽があって四本足で歩き、群がるものはすべて、あなたがたには忌むべきものである。ただし、羽があって、四本足で歩き、群がるものであっても、地を跳ねるための足のあるものは食べることができる。つまり、ばったの類、羽ながばったの類、大ばったの類、小ばったの類は食べることができる。」(レビ記11:20~22)
一口にばったと言っても、いろんな種類があったのですね。しかし、そのようなばったも大群になると、とても恐ろしいものになりました。預言書のひとつであるヨエル書1章4節には、こういう言葉があります。
「かみ食らうばったの残したものを
群がるばったが食らい、
群がるばったの残したものを
若いばったが食らい、
若いばったが残したものを
食い荒らすばったが食らった。」(ヨエル書1:4)
そのようなばったの大群が去った後には、本当に何も残らなかったでしょう。このエジプトの上に下った災いも、そのように、いやそれよりもはるかに恐ろしいものでありました。
「ばったは、エジプト全土を襲い、エジプトの領土全体にとどまった。このようにおびただしいばったの大群は前にも後にもなかった。地の全面を覆ったので、地は暗くなり、地のすべての草、雹を免れたすべての木の実を食い尽くした。エジプト全土には木も野の草も、緑のものは一つも残らなかった。」(10:14~15)
緑に潤った土地が、あっという間に、死の荒野に変わってしまいました。
ばったの災いがくだった後で、ファラオはモーセとアロンを呼び出して、「どうかもう一度だけ私の罪を赦し、私からこの死だけは取り除いてくれるよう、あなたがたの神、主に祈ってほしい」(10:17)と懇願しました。新共同訳聖書では、「こんな死に方だけはしないで済むように」と訳されていました。このファラオの言葉から、このばったの災いが一国の王ファラオを死に至らせるほどの力をもっていたということがわかります。ただしそのファラオの願いをモーセが聞き届け、ばったを去らせると、ファラオの心は再び頑なになっていきます(10:20)。これまでと同じ、お決まりのパターンです。
神様はばったのように、小さなものを用いて大きなことをなされる方であることを思います。これは災いの話ですが、神様はよいことにおいても、そのように小さなものを用いて大きな業をなされる方であります。
(3)主の祭りは私たち皆のもの
さて、このばったの災いがエジプトにくだされる前に、モーセはやはりいつものようにファラオに警告を与えていました。そしてそれを聞いていた家臣がファラオに進言をいたしました。
「いつまでこの男はわたしたちの罠となるのでしょうか。あの者たちを去らせ、彼らの神、主に仕えさせてください。エジプトが滅びかかっていることが、まだお分かりにならないのですか。」(10:7)
ファラオは、その進言を聞いて、一旦は心を開きかけるのですが、そう簡単にはいきません。彼はモーセとアロンに「行って、あなたがたの神、主に仕えなさい」(10:8)と言いました。ただしそれに続けて「誰と誰が行くのか」と聞いています。もともと全員を行かせる気はないのです。モーセはこう答えます。
「私たちは若い者も年寄りも一緒に参ります。息子も娘も、羊も牛も一緒に参ります。主の祭りは私たち皆のものです。」(10:9)
ファラオは、これにより開きかけていた心を再び閉じてしまいます。
「私があなたがたと家族を去らせるなら、主があなたがたと共にいるとでも言うのか。むしろ、あなたがたの前に災いがあるだろう。」(10:10)
これは皮肉かおどしのようです。「もしもお前たちが家族も家畜も全部連れ出すというのならば、せいぜいお前たちの神に祈るがよい。私がお前たちに災いをくだしてやる」。そういう感じでしょうか。
ですからそのように言った後、ファラオは、「そうはいかない。男だけで行って主に仕えるがよい」(10:11)と前言を撤回いたしました。ファラオは、「全員で行かせたら、もう帰ってこないかも知れない」と思ったのです。男だけであれば家族のもとへ帰ってくる、という思いがあったのでしょう。
それにしてもモーセの「主の祭りは私たち皆のものです」という言葉は毅然としていますし、まことに深い意味を持った言葉であると思います。ある種の信仰告白であると言えるかも知れません。
(4)牧師をしていてよかったこと
私は、東京の教会で働いていた頃、近所のクリスチャンスクールの中学生たちから「牧師をやっていて、よかったと思うことは何ですか」という質問を受けたことがあります。私は、少し考えて「すべての世代にかかわれることです」と答えました。
牧師も一応「先生」と呼ばれる職業の一つです。学校の先生の場合には、小学校の先生、中学高校の先生、大学の先生という風にわけられますが、牧師の場合には、すべての世代に関わります。
子どもには子ども向きの話をし、大人には大人向きの話をする。お年寄りにはお年寄り向きの配慮をし、訪問をしたりします。青年には青年への対応をします。いや生きた人だけではなく、死んだ後までおつきあいは続きます。文字通り、「ゆりかごから墓場まで」です。お葬式をし、あるいはご遺族との交わりがあるのです。それが牧師という仕事の大変な点でもありますが、同時に魅力でもあります。飽きることがない。それは本当に喜ばしい仕事であると思っています。
(5)ゆりかごから墓場まで
しかし考えてみますと、それは牧師だけではなく、教会に来ている人はみんな、それだけのチャンネルを持っている。それだけの交わりの幅を持っているということであります。教会は、そのように包括的な共同体です。
これは現代社会においては、珍しく、そして貴重な交わりではないかという気がいたします。かつては、家族も大家族で、赤ちゃんからおじいさんおばあさんまでが、一つ屋根の下に住んでいましたが、今は核家族のライフスタイルが多くなりました。あるいはかつては村や町の地域共同体が、それぞれの家と深くかかわっていましたが、今はそれも非常に希薄になっております。隣に誰が住んでいるのかもわからない。
そうした中で教会は、それぞれの家族を支え、育む大家族である、まさに神の家族であるということを、強く思います。教会には、幼児祝福があり、高齢者の祝福があります。結婚式があり、お葬式があります。
そして私たちの教会は、幼稚園と建物を一つにし、幼稚園と共に歩んでいます。家族礼拝は、幼稚園と教会を結ぶ場でもあります。また3月には、教会の主日礼拝に幼稚園児を迎えて卒園感謝礼拝を行っています。それは、教会には全世代的な交わりがあることを、感謝して思い起こす時です。
(6)柔軟な看守と頑ななファラオ
今日は、出エジプト記の物語と共に、使徒言行録の16章の言葉を読んでいただきました。これはイエス・キリストの使徒であったパウロとシラスがフィリピという町で、投獄されていた時の話です。真夜中頃に、牢屋の中で賛美歌を歌い、お祈りをしていました。そうすると突然、大地震が起きて、牢屋の扉が開いてしまって、囚人をつなぐ鎖もはずれてしまいました。牢屋の看守はびっくりして、恐ろしくなって自殺しようといたしました。後で責任を追及されて、どうせ死刑になるだろうと思ったのでしょう。その瞬間に囚人であったパウロが大声で叫びました。「自害してはいけない。私たちは皆ここにいる」(使徒16:28)。「待て。早まるな。」看守は驚きました。「逃げることができたのに、どうして逃げないのか。」その瞬間にこそ、彼は大地震が起きた時よりも、もっとはっきりと大きな神の力を感じたのです。そして自分の方から進んでパウロとシラスを外へ連れ出して、その前にひれ伏しました。
「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」(16:30)
パウロは言いました。
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」(10:31)
これは有名な言葉です。慰めに満ちた言葉であると思います。この話は今日の出エジプト記の話と合わせてみると、二つの意味で示唆的であると思いました。
ひとつは、この牢屋の看守のパウロに対する応対が、ファラオのモーセに対する応対と非常に対比的であるということです。もちろんこの看守は、ファラオとはけた違いに下っ端であります。上官のことをびくびく恐れている人間です。しかし一応、パウロの上に立ち、パウロを監視する立場にありました。彼はパウロと出会い、そこにあらわれた神の力を感じた時に、謙虚に自分を明け渡して、「一体、自分は何をすればよいのか」と尋ねました。そのところから彼の人生は変わっていくのです。ファラオがどんなにモーセを通して、神様の力が働いているのを目の当たりにしても、そこで心を閉じて頑なになっていったことと、非常に対比的です。私たちに何が求められているのかということは、この二人の応対から見えてくるのではないでしょうか。
(7)家族全体の救い
もう一つは、家族全体の救いということです。先程、「教会は神の家族である」というお話をいたしましたが、それを聞きながら、皆さんの中には、ご自分の実際の家族のことを思い浮かべられた方もあるかも知れません。「私はこの神の家族に連なっているけれども、私の夫はそうではない。子どもたちはそうではない。」「自分が救われても、私の家族は一体どうなるのだろうか。」そういう思いを持っておられる方もあるのではないでしょうか。そうした私たちに、この言葉が与えられているのは、何という喜びでしょうか。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」。家族の誰かが主イエスにつながる時、また主イエスの体である教会に連なる時、その一人を通して家族全体が神の家族に数えられるのです。その一人を通して、家族の中に突破口が開け、救いの風がすうっと入ってくるのです。
洗礼を躊躇する方の中に、先に亡くなった家族のことを思う方があります。「自分だけ救われても空しい。死んで夫と別々のところへ行くのであれば、天国でなくても一緒のところへ行きたい。」そのようにお考えの方が時々あります。しかし私はそういう心配は無用だと思います。確かに厳密に考えれば、わからないこともたくさんあります。「家族って、何親等までですか。二親等ですか。三親等ですか。」心配になるかもしれません。
私は、皆さんが家族と思われるところまでが家族なのだと思います。何親等かは関係ありません。血のつながりがなくてもよいでしょう。あちらの世界のことは、私たちには本当のところはよくわりません。しかし私は「最もよき意志をもったお方が、私たちに最もよいものを備えて待っていてくださる」という約束で十分なのではないかと思っています。
ファラオに向かって、モーセは「いつまで、あなたはわたしの前に身を低くするのを拒むのか」という神様の言葉を告げました(3節)。これは同時に、私たちに向けられています。私たちは、この言葉にどう答えるのか。今日は選びませんでしたが、『讃美歌21』の430番に、こういう歌があります。
「とびらの外に 立ち続けて
救いのイェスは 待っておられる
主イェスの愛の その高さよ、
われらの罪の その深さよ」
「かたく閉ざした 戸をたたいて
今なおイェスは 呼び続ける
主イェスの愛の その広さよ
人の心の その弱さよ」
「私のために 死んだイェスの
その憐れみを なぜ拒むか
かたく閉ざした 戸を開いて
心の中に 主を迎えよう」
主の問いかけに積極的な応答をし、イエス・キリストを受け入れる時に、イエス・キリストの祝福が私たちの家族全体を包み、神の家族に連ならせてくださることを心に留め、感謝したいと思います。