2021年6月27日説教「土の器」松本敏之牧師
コリントの信徒への手紙二4章5~10、16~18節
(1)コリントの信徒への手紙二
鹿児島加治屋町教会の聖書日課、先週の月曜日からコリントの信徒の手紙二に入りました。皆さん、読み続けておられますか。途中からでも、どの時点からでも読み始めることができますので、ぜひご一緒に聖書を通読していきましょう。
このコリントの信徒への手紙二をもとにして説教をするのは本日だけですので、どの箇所を選ぶか迷いましたが、4章の「土の器」という言葉が出てくる箇所にいたしました。
4章7節で、パウロはこう語っています。
「私たちは、このような宝を土の器に納めています。計り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかになるためです。」(コリント二4:7)
(2)三浦綾子『この土の器をも』
「土の器」というのは印象的な言葉です。多くの方は、三浦綾子さんの『この土の器をも』という本の題名を思い起こされるのではないでしょうか。三浦綾子さんは、自伝的小説三部作を発表しておられます。三部作、いずれのタイトルも、聖書から取られています。その中で最も有名なのは、自分の青春時代のことを書いた『道ありき』でありましょう。これは、「教員生活の挫折、そして脊髄カリエスという重い病気により、絶望の底へ突き落とされた著者が、13年の闘病生活の中で自己の青春の愛と信仰を赤裸々に告白した心の歴史」の書物本です。
そしてそれに続くのが、『この土の器をも』です。これは、三浦綾子さんのその後の歩みについて書かれています。この本、出版社の本の紹介では次のように書かれています。
「長い闘病生活に耐えた著者が、37歳で結婚し夫とふたり、一間だけの小さな家で生活をはじめてから、新聞社の一千万円懸賞小説に『氷点』で入選するまでの愛と信仰の日々を綴る自伝――結婚生活とは何か、家庭を築くとはどういうことか、夫婦はどうあるべきかを語りかけ、日常生活の中で、愛し信じることが、いかに大切なことかを痛感させる。」
ちなみに三部作の三作目は『光あるうちに』という題名ですが、これは自伝というよりは、「神とは、愛とは、罪とは、死とは何なのか?人間として、かけがえのない命を生きて行くために大切な事は何かを問う愛と信仰の書」となっています。
三浦綾子さんの本は、読みやすく、キリスト教の信仰がどういうものであるかを誰にでもわかる易しい言葉で、しかも彼女の人生の証の書物として訴えかけてきます。
まだお読みになったことのない方は、ぜひお読みください。どんどん引き込まれますので多くの本は1日かあるいは数日で読み切ることができると思います。『この土の器をも』は教会図書にも古い本ですが2冊置いてあります。
ただ今改めて読みますと、当時の通説として、LGBT(Q)に対する誤解、偏見があることがわかります。それを踏まえてと言いますかいうか、割り引いてお読みくださるとよいかと思います。
さて『この土の器をも』に戻りますが、三浦綾子さんは、この本の扉のところに、このコリントの信徒への手紙二4章7節の言葉を、当時の口語訳聖書で記しておられます。
「わたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである」
三浦さんは「土の器」ということでご自分のことを言っておられるのでしょう。肉体的にも病気にむしばまれてとても弱い。さらに肉体的な弱さだけではなく、その病魔から逃れようと自死しようとしてしまうような精神的な弱さも持っている。しかしそのような弱くもろい土の器の中に、輝き出るような宝を持っている。それが力を持っている。それは何か。「福音」と言ってもよいでしょう。あるいはもっと端的に「イエス・キリスト」という宝と言ってもよいかもしれません。だからこそ、それは私たちから出たものではないことがわかる。私たちの外から来た力でありつつ、内側から私たちを生かしてくれるのです。
三浦綾子さんは、この言葉が真実であることを、ご自分のそれまでの歩みを通して、証ししておられるのです。
(3)パウロが負った「棘」
この4章7節の言葉が、コリントの信徒への手紙二を貫いて出てくると言ってもよいでしょう。
パウロは自分の肉体がとげを持っていること、自分の体にはとげがささっているということを告白しています。
12章7節でこう語ります。
「私の体に一つの棘が与えられました。それは、思い上がらないように、私を打つために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れさせてくださるように、私は三度主に願いました。」(コリント二12:7~8)
この「棘」が具体的にいったい何であったのか、パウロは明らかにしていません。しかし、使徒として、伝道者として活動するために明らかにマイナスに思えることであったのでしょう。さまざまな想像がなされます。
目が悪かったのではないかという説があります。使徒言行録9章では、クリスチャンを捕まえに行く活動をしていた時、ダマスコへ向かう途上で、突然、天からの光が差し込んで気が付くと目が見えなくなっていたということが記されています。その後、アナニアという人物にいやしてもらうのですが、完全に元通りにはならなかったのではないかという説です、パウロは、聖書に収められている手紙を実は自分では書かずに、筆記者に書かせています。ですからガラテヤの信徒への手紙の終わりには「ご覧のとおり、私はこんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています」(ガラテヤ6:11)とわざわざ書いています。パウロは大きな字でサインするのがやっとで、実は小さな字を書けなかったのではないか。
パウロは何らかの精神的な病をかかえていたのではないか。恐らくてんかんだったのではないか、という説もあります。ドストエフスキーもてんかんでしたが、気質的に似ているところがあるようにも思えます。
あるいは最近の説では、彼自身が同性愛者であり、そのことで苦しんでいたのではないかという説もあります。彼が男色という言葉で、それを思い起こさせる行為を否定的に述べている部分がありますが、かえってそのことを示しているというのであろうということです。
いずれにしろ、その棘が何であったのかは想像の域を出ないのですが、それはパウロ自身がそれをネガティブに思っていたことには違いありません。
(4)弱いときにこそ強い
しかしこう続くのです。
「ところが主は、『私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で完全に現れるのだ』と言われました。だから、キリストの力が私に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、私は、弱さ、侮辱、困窮、迫害、行き詰まりの中にあっても、キリストのために喜んでいます。なぜなら、私は、弱いときにこそ強いからです。」(コリント二12:9~10)
この信仰が、この手紙を貫いていると言ってもよいのではないでしょうか。コリントの信徒への手紙一を貫いているのは「愛」ということだと、前回6月13日に申し上げましたが、こちらの手紙二の主題は「信仰」、あるいはこの「弱いときにこそ強い」という逆説的信仰であると言えるかと思います。
だからこそ、先ほどの「土の器」の箇所の直後、4章8節には、こういう言葉が続くのです。
「私たちは四方から苦難を受けても行き詰らず、途方に暮れても失望せず、迫害されても見捨てられず、倒されても滅びません。」(コリント二4:8)
なぜならば、私たちの希望の根拠は私たち自身にあるのではなく、その弱さの中に現れ出てくるキリストの力、神の力にこそあるからです。
(5)土の塵でつくられた人間
私たちは、自分が「土の器」であることを認識するのは大事であると思います。それがかえって希望となります。創世記2章7節を見ると、こう書いてあります。
「神である主は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き込まれた。人はこうして生きる者となった。」
おとぎ話のような記述ですが、現代科学を知らない古代人の非科学的な言葉だと退けることはできません。少なくとも三つの大事なメッセージが込められています。ひとつは神が人間をつくったのであって、人間が神をつくったのではないということです。多くの人は「神なんていうのは、弱い人間が安心して暮らせるように、人間が考え出したものだよ。宗教は確かに意味があるけれども、それは人間の想像の産物だ」(こちらは別の「そうぞう」)。しかし聖書はそうではない。逆だ、神が人間をつくったのだと宣言するのです。
二つ目は、「人間は土の塵でできているものに過ぎない。やがてまた土に帰って行く。おごるなかれ。」これも人間がどういうものであるかをよく示しています。
三つめは、「命の息を吹き入れるのは神である。命の主は神である」ということです。科学が進歩して人間にはさまざまなことができるようになりました。しかし命の創造はできないのではないでしょうか。クローン技術が進歩してきましたが、あれは命の創造とは言えないでしょう、命の模倣です。神がなさったことを、人間が隣で真似をしているのです。
しかしだからこそ私たちには希望があるのです。「土の器」に過ぎないものに、神が命の息を吹きかけて、生かしてくださっているのです。
(6)逆説的信仰
パウロは、こう述べています。4章16節。
「だから、私たちは落胆しません。私たちの外なる人が朽ちるとしても、私たちの内なる人は日々、新たにされていきます。このしばらくの軽い苦難は、私たちのうちに働いて、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。私たちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に存続するからです。」(コリント二4:16~18)
この最後の言葉にも、パウロの「逆説的信仰」がよく表れていると思います。
しかしこの土の器が内に、「宝を持っている」ということを認識するのは信仰的な視点です。そうでなければ、私たちは「土の器」に過ぎないものとして悲観主義になるか、根拠のないから元気的な楽観主義になるかのどちらかしかないでしょう。しかし信仰を持つ者は「弱いときにこそ強い」のです。人間的可能性がすべて終わっても、いや終わるところでこそ、神の測り知れない力が現れるからです。
この信仰の力については、「土の器」という言葉の直前の6節にも現れています。
「なぜなら『闇から光が照り出でよ』と言われた神は、私たちの心の中を照らし、イエス・キリストの御顔にある神の栄光を悟る光を与えてくださったからです」と記されています。信仰というのは、まさに、この「キリストの御顔にある神の栄光を悟る光」のことである、と言い換えることができるのではないでしょうか。
この「土の器」は、実は私たちのことを言っているだけではありません。イエス・キリストもまた「土の器」としての肉体をまとってくださったということも知っておきたいと思います。だからこそ、10節に記されているように「私たちは、死にゆくイエスをいつもこの身に負っています。イエスの命がこの身に現れるためです」ということが意味をもってくるのです。
(7)キリストの香り、キリストの手紙
さて、このコリントの信徒への手紙二は、実は、構成や背景になっている事情が少し複雑です。先週の聖書日課のところまではよいのですが、今週の聖書日課の箇所あたりから、突然、話が飛躍したりします。これはもともと二つないし三つの手紙が組み合わされているのだと言われます。
ただそうした難しい、ややこしい事情はともかくとして、先ほどの「土の器」の他にも、この手紙には、私たちの心に残る印象的な言葉、大事な言葉がたくさん出てきます。たとえば、2章15節にはこういう言葉があります。
「救われる人の中でも、滅びる人の中でも、私たちは神に献げられたキリストのかぐわしい香りだからです」
クリスチャンというのは、「キリストの香り」を放つ存在であるというのです。また3章3節には、こういう言葉が出てきます。
「あなたがたは、私たちが描いたキリストの手紙であって、墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人間の心の板に記されたものであることは、あきらかです。」
モーセの十戒と対比。クリスチャンとして生きるということはキリストの手紙となるということだということです。クリスチャンは、何を語らずとも、その生き方そのものがキリストのメッセージを運ぶ「キリストの手紙」であること、またクリスチャンという存在は、「キリストの香り」を放つ存在であること、そのことを私たちは感謝して聴きたいと思います。また、そのことをよくわきまえ、心して聴き、それにふさわしいものでありたいと思います。