2021年6月20日説教「畏 敬」松本敏之牧師
出エジプト記9章(13)22~35節 ヘブライ書4章12~13節
(1)雹の災い
これまで「血の災い」、「蛙の災い」、「ぶよの災い」、「あぶの災い」、「疫病の災い」、「腫れ物の災い」という6つの災いを見てきました。今日はその後の7つ目の災いから学びましょう。雹の災いと題されています(9:13~35)、ここに来て、災いはいよいよ人の命を奪うものに至ります。疫病の災いとはれ物の災いは短い記述でしたが、その二つと対照的に、この雹の災いの話は、一連の災いの中で最も長い記述となっています。主はモーセとアロンに、ファラオに対して、こう語らせます。
「私は明日の今頃、エジプト始まって以来、今までになかったような恐ろしく激しい雹を降らせる。それゆえ、人を遣わして、あなたの家畜と、野にいるあなたのすべてのものを避難させなさい。野にいて家に連れ戻さないものは、人も家畜もすべて、雹に打たれて死ぬであろう。」(9:18~19)
そしてモーセが天に向かって杖を差し伸べると、主は雷と雹を降されました。エジプト中に雹が降り、雹の間を炎が駆け巡りました。それはエジプトの国が始まって以来、かつてなかったほど激しいものでした。それはエジプト全土で野にいるすべてのもの、人間も家畜もありとあらゆるものを打ちます。もちろん人や家畜だけではなく、植物もです。「野のすべての草を打ち、野のすべての木を砕いた」(9:25)ということです。
しかし不思議なことに、イスラエルの人々の住むゴシェンの地域だけには雹が降りませんでした。疫病の災いの時と同様、神はイスラエルの人々を区別して守られたのでした。
(2)主の自由な選び
さてこのところから幾つか大事なメッセージを聞き取っていきたいと思います。
第一は、主の自由な選びということです。神様は一様に災いをくだされたわけではありませんでした。疫病の災いのところでは、神様はエジプト人の家畜とイスラエル人の家畜を区別して、イスラエル人の家畜には災いを加えられませんでしたが、雹の災いのところでも、イスラエルの人々の住むゴシェンの地には雹を降らせませんでした。神様はある者を選び分かち守られたのです。どのような者を選ばれたかと言いますと、単に「イスラエルの人々」ということもできるのですが、別の言い方をすれば、エジプト人の奴隷となって苦しんでいるイスラエルの人々を選ばれた。つまり神様は「虐げられている人々」「苦しみの中にある人々」を分かち、守られた、ということを見落としてはならないでしょう。そういうメッセージが込められていると、私は思います。
しかし神様の選びというのは、機械的なものではないということも、この話から聞き取りたいと思うのです。先ほどまで申し上げたことだけですと、神様は機械的にエジプト人とイスラエル人を分けられたように見えますが、もう少し注意深く読んでみますと、そうではない別の要素がここにあることがわかります。ここではエジプト人に対して前もって警告を発せられています。
「それゆえ、人を遣わして、あなたの家畜と、野にいるあなたのすべてのものを避難させなさい。野にいて家に連れ戻さないものは、人も家畜もすべて、雹に打たれて死ぬであろう。」(19節)
すると、その警告を聞いた者の中から、主の言葉を畏れる者が現れてくるのです。「ファラオの家臣のうち、主の言葉を畏れた者は、自分の僕と家畜を家に避難させた。しかし、主の言葉に心を留めなかった者は、その僕や家畜を野に放置した」(20節)とあります。そして主の言葉を無視した者の家畜のみが雹に打たれました。つまりここではあの疫病の時のように「エジプト人は全部だめ」というような十把一絡げの仕方ではありません。エジプト人の間にも、あの疫病の事件を通して、「これはイスラエルの神がかかわっているに違いない」と考え始めた者もきっとあったでしょう。魔術師の中にも「これは神の指によるものです」(8:15)と告白した者がいました。
確かに今やエジプト人の家臣の中にも、主の言葉を畏れる者が出始めたのです。そして主の言葉を畏れて、それを信じ、それに従う者は災いから免れさせてくださいました。これは、主の言葉を畏れる者には、民族を超えて、主の救いが入り込んできたことを示すものではないでしょうか。旧約聖書はイスラエルの民が選ばれた民という考え(選民思想)が中心にありますが、ここではそれを超えたメッセージ、新約聖書につながっていくメッセージが現れていると思いました。
(3)主を畏れることは知恵の初め
箴言9章10節に「主を畏れることは知恵の初め 聖なる方を知ることが分別」と記されています。「主を畏れることは知恵の初め。」この言葉は、詩編111編10節にも出てきます。あるいは箴言1章7節には、「主を畏れることは知識の初め」とあります。当時の人々は、このことをくり返し教えたのです。主を畏れることと主の言葉を畏れることは、内容的には一つのことです。「初め」というのは、最初ということと同時に、最も大切なことという意味でもあります。
私たちは人生を生きていく中で、さまざまな知恵と知識を学びます。しかしそのことがいかなる意味をもつかということ、そのような知識や知恵がどう役立つかということは、主を畏れるかどうかにかかっているのではないでしょうか。主を畏れることなく、私たち人間がさまざまな知識を身につけていくとき、それを知らない人間よりもかえって恐ろしい人間になっていくことがあります。あるいは主を畏れることなく、力を手にする人間は、それをもたない者よりも、より恐ろしい人間になっていく可能性があります。人間のすべての知識、知恵は、主を畏れ、その主をあがめる時に、初めて最も人間らしい、そして謙虚なものとして役立つのではないでしょうか。そして神様はそのような主を畏れる人間を心に留め、救いのうちに置いてくださるのです。
(4)神はすぐに結論を出さない
次に14~16節を見てみましょう。
「今度こそ私が、あなた自身とあなたの家臣と民に、あらゆる災害を送る。それによって、私のような者は地上のどこにもいないことをあなたは知るようになる。事実、私が今、手を伸ばしてあなたとその民を疫病で打ち、地から滅ぼすこともできる。しかし、私があなたを生かしておいたのは、私の力をあなたに示し、私の名を全地に知らせるためである。」
この言葉は、二つの大切な事柄を指し示しています。一つは、神様の徹底的な主権ということです。これはすでに少し触れましたが、神様が救いと裁きの決定権をもっておられるということです。
もう一つは、神様はある意図をもって裁きの時を引き延ばされるということです。私たちが読んでいる物語は、両者の力(つまりファラオの側とモーセの側の力)が伯仲していて、なかなか決着をつけることができないように見えます。ファラオのほうも魔術師に同じようなことをやらせて、「相手もなかなかやるなあ」というふうに見えるかも知れません。しかし実はそうではなかったというのです。
「事実、私が今、手を伸ばしてあなたとその民を疫病で打ち、地から滅ぼすこともできる。」神様は、それをやろうと思えばできたけれども、あえてそれをしなかったということです。イスラエルの民にしてみれば、こんなに時を延ばされれば、だんだんと不安になり、疑いも生じたことでしょう。モーセも、「どうして神様は早く自分たちを解放してくださらないのであろうか」と思ったことでしょう。しかし神様はすぐにそれをなさらなかった。どうしてでしょうか。そこには二つの理由がありました。一つは、「私の力をあなたに示すため」、もう一つは「私の名を全地に知らせるため」だというのです。このことのために、神様は時を引き延ばされたのです。
(5)神の歴史のメインテーマ
これは、このファラオと神様の関係を超えて、神様の計画、いや歴史全体の中で、とても大きな意味をもっています。神様は、どのように歴史を考え、どのように私たち人間をお造りになったのかということが、ここで示されているからです。神様が歴史を定められた大きな目的は、この世界に確かに神様がおられるということを人間が悟るということ、そして神様の名が全地に語り告げられ、神様に栄光が帰せられるということなのです。
しかし神様はそれを強制的に、力づくで、そうするのではない。有無を言わせず、ファラオを滅ぼしてしまって、それを悟らせるわけではない。人間が自分のほうからそれを悟るように、そして喜んでそうするようになることを求めて、時を引き延ばしながら待っておられるのです。ですからよく言われる表現ですが、神様は人間をロボットのように自分に従う者としてお造りになったのではありませんでした。そうしようと思えばできたでしょうが、それは御心ではありませんでした。
逆に神様は、自分に背く者を一瞬にして根絶やしにしようと思えば、それもできたでしょう。しかしそれもなさらなかった。一瞬にして根絶やしにする道でもなく、強制的に従わせる道でもない。ちょうどその間の道を取られるのです。
人間が自分のほうから、神様が生きて働いておられることを悟り、主の名を畏れ、神様をあがめるようになること、そのために神様は時を与えられるのです。
この時それでもファラオは一層かたくなになっていきますが、先ほど述べましたように、ファラオの家臣の中から、「主の名を畏れる」者がぽつりぽつり現れ始めます。そして神様は、彼らには災いをくださないように配慮なさったのです。人間があくまで自由な決断を持って、主を畏れ、主に立ち帰るように待っておられるのです。
神様の歴史というのは、むしろそれがメインテーマであって、そのテーマがその後の旧約の時代、そしてイエス・キリストの時代をずっと貫いて、今日に至っているのではないでしょうか。
(6)神はなぜ「中間時」を置かれたか
さらにこういうことが言えるかと思います。聖書は、歴史には、初めと終わりがあると告げます。この世界が、未来永劫にいたるまで続くのではない。終わりの日がある。そしてその日には、再びイエス・キリストが帰ってきて、その歴史を完成してくださる。神の国が完成する、と聖書は語ります。新約聖書の書かれた時代、つまりイエス・キリストが来られた直後の時代の人々は、「終わりの日がすぐにでも来る。すぐにイエス・キリストが帰ってきて、この世界を完成してくださる」と考えていました。ですから、新約聖書というのは、(最初の方に書かれたものと最後の方に書かれたものには100年以上の幅があるのですが、)古い時代に書かれたものほど、そうした終末を感じさせる色彩が濃いのです。ところが、紀元100年を過ぎて、150年位のものになってくると、「いやもしかすると、それはすぐには来ないかも知れないぞ」ということで、だんだんと教会を制度的に整えていく話が出てきます。最初のうちは、そんなことはほとんど興味がないのです。すぐに世の終わりが来ると考えられていたからです。
それから何と2000年が経ってしまいました。私たちは、イエス・キリストが来られた時と、世の終わりの時という二つの時の「中間時」を生きています。それにしても、神様はどうして、このような中間時を定められたのでしょうか。どうしてもっと早く終わりの日が来なかったのでしょうか。イエス・キリストがこの世界に遣わされた時、そのお方が十字架におかかりになった時、神様は悪い者を一掃し、一気に神の国を完成されてもよかったのではないでしょうか。いや神様にとっても、そのほうが手っ取り早く、楽であったかも知れません。しかし神様はそのような道を取られませんでした。強制的に自分に従わせる道、あるいは力ずくで悪い者を滅ぼされる道を取られなかった。さらにその後の時代を置いて、教会を立てられたのです。
そこには一体どういう意味があるのでしょうか。それは私たちが、ロボットのようにではなく、喜んで自ら悔い改めて、神様に従うようになるのを待つ。神の国もご自分で一気に完成してしまうのではなく、人間を巻き込んで、人間をご自分のパートナーとして、これを用いながら神の国を実現する。神様の側から言えば、実に忍耐深い道を取られたのだと思います。私たちが悔い改めて、主に立ち帰るのを待ち、パートナーとして共に働くのを喜ばれる神。それが聖書にあらわされている神様なのです。