2021年5月2日説教「神の知恵の深さ」松本敏之牧師
ローマの信徒への手紙11章25~36
最初にお知らせをいたします。
鹿児島加治屋町教会では、先週4月25日と本日5月2日の2回の礼拝を、集まる形式は中止し、動画での説教配信というふうにしておりましたが、先週コロナ対策チームで協議した結果、ゴールデンウイーク明けの5月9日の日曜日まで、本日と同様の形式にすることになりました。集まる形式での礼拝は中止となりますので、ご了解ください。
ただし、午前9時のこどもを中心とした家族礼拝のお話も動画配信することになりました。本日も早速9時からアップしていますので、どうぞご覧ください。私が「まいごのメーコ」という紙芝居を使ってお話しています。オリジナルの部分もあります。また最初に、「うたいましょう。うたいましょう。主イエスの大きな愛を」というこどもさんびかを、オリジナルのジェスチャー付きで歌っていますので、どうぞ皆さんも、お家でいっしょに歌って踊ってください。
(1)信仰による義人は生きる
さて鹿児島加治屋町教会では、4月から聖書日課に即して、聖書を通読しようと呼びかけています。今はローマの信徒への手紙であり、先週の日曜日にローマの信徒への手紙全体の構成について、簡単にこのようにお話しました。1~8章はキリスト教の教義、つまり教えである。12~16章はキリスト教の倫理である。教義とは「私たちは何を信じるのか」ということ、倫理とは、「私たちはいかに生きるべきか」ということです。そしてその間に挟まれた9~11章は、いわば壮大な間奏曲(インテルメッツォ)であり、テーマは「イスラエルの運命」ということであります。今日は主に、このイスラエルの運命についてお話したいと思っておりますが、その前に先週の平日の聖書日課であったローマの信徒への手紙の前半部分も少し振り返っておきましょう。
1~8章に記されていますキリスト教の教義のメインテーマは何か。いろんな方がいろんな言い方をしておられますが、土戸清先生が『現代新約聖書入門』という本の中で、一言で「信仰による義人は生きる」とまとめておられます。この本はなかなかよくできた本で、新約聖書の内容がわかりやすく述べられています。もともと1970年代に、(月刊)「教師の友」という教会学校の先生のために(つまり牧師ではなく、一般の信徒の方のために)、新約聖書の解説をしたものです。聖書も変わり、随分古い本でしたので絶版でしたが、今はオンデマンドで入手できます。この度、教会で聖書通読運動を始めるにあたり、教会図書にも入れました。皆さんもおうちで通読するためのハンドブックとして、先週紹介した『はじめて読む人のための聖書ガイド』と共に、手元に置いておかれるとよいかもしれません。こちらは、日本キリスト教団出版局の発行です。
さて、土戸先生は、そのようにローマの信徒への手紙前半の「教義」を「信仰による義人は生きる」という言葉でまとめられました。土戸先生は、それをさらに前半と後半にわけて、前半の1~4章は「信仰による義」というのがテーマ、後半の5~8章は、「(信仰による義人は)生きる」ということがテーマだと、述べておられます。
先週の説教を覚えておられる方は、「あれっ、先週は、私たちのイエス・キリストへの信仰が、私たちを義とするのではなくて、キリストの真実が私たちを義とするのだと語られたのではなかったか」と思われるかもしれません。ローマの信徒への手紙3章22節によればその通り、「キリストの真実が私たちを義とする」のですが、その続きである3章28節では、「私たちは信仰によって義とされる」ということが述べられています。
この二つは、実はあれかこれかのように対立・矛盾することではないのです。確かに、私たちはキリストの真実によって義とされる(救われる、神に認められる、よしとされる)。つまり自分で自分を義とするのではないのですが、それだけでは私の人生にはまだ関係をもってきません。それが意味をもってくるのは、私が信仰をもってそのこと受け止める時です。そうでなければ、「キリストの真実が私を義としてくださる」というありがたいことも、私の人生を素通りしてしまうでしょう。信仰をもって、それを受け入れる時にはじめて、私の人生とかかわってくる、私の人生に影響を及ぼしてくるのです。その意味で、「信仰によって義とされる」という言い方は、その通りなのです。それは土戸先生の「信仰による義人は生きる」という言い方で、より鮮明になります。
(2)解放の福音(ローマ書5~8章)
前半の1~4章のテーマが「信仰による義」であり、後半の5~8章のテーマが「(信仰による義人は)生きる」ということだと申し上げました。キリストの真実によって、あるいはキリストを信じる信仰によって、私たちはさまざまなものから解放されて生きることができる。土戸先生は、何から解放されるのかということを、1章ずつテーマに分けられます。
まず5章は「神の怒りからの解放」です。6章は「罪からの解放」です。7章は「律法からの解放」です。そして最後の8章は「死からの解放」です。なるほどと思います。もちろん語られているのはそれだけではないのですが、それが軸になっています。
6章の「罪からの解放」の部分では、洗礼について述べられます。今はペンテコステに洗礼を希望しておられる方がありますので、この部分について丁寧に触れたかったのですが、残念ながらその暇はありません。
(3)パウロの信仰
8章の終わりはローマの信徒への手紙のクライマックスであり、こう述べられます。
「私は確信しています。死も命も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:38~39)
この確信は、パウロが信仰によって得たものであり、パウロが信じなければ、パウロはまだ恐怖におびえたままであったということができるでしょう。
この言葉の少し前に、もうひとつ大事な有名な言葉があります。8章28節です。
「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者のためには、万事が共に働いて益となるということを、私たちは知っています。」(ローマ8:28)
私たちは、大きな試練に遭う時、なぜそういうことが起こるのか、神様はおられないのかと思ってしまいます。今のコロナ禍もそうでありましょう。しかし、今はわからなくても、信仰の目で見る時に、「神様にはきっと何かご計画があるのだろう。しかもそれはよき計画であり、いろいろなことが共に働いて、最後には益となるように、つまりよい結果になるように導いてくださる。なぜなら神様はよいお方だからだ」と信じることができるのです。それもローマの信徒への手紙のクライマックスの言葉だと言ってよいでしょう。
(4)ホロコーストに対するキリスト教会の責任
さて、そこからイスラエルの運命という重いテーマについて語り始めます。壮大な間奏曲、と言ったとおりです。これについて語る際には、先ほどの、「万事が共に働いて益となる」というパウロの信仰が根底にあります。いやここでこそ、それが最もよく生かされているということもできるでしょう。
パウロは、ローマの信徒への手紙9章で、「神の民であるはずのイスラエルが、どうしてイエス・キリストの福音を受け入れないのか」と語ります。これはパウロにとって大問題でありました。こう語り始めます。
「私はキリストにあって真実を語り、偽りは言いません。私の良心も聖霊によって証しているとおり、私には深い悲しみがあり、心には絶え間ない痛みがあります。私自身、きょうだいたち、つまり肉による同胞のためなら、キリストから離され、呪われた者となってもよいとさえ思っています。彼らはイスラエル人です。」(ローマ9:1~4a)
キリスト教会には、この2000年間、根深いユダヤ人嫌い、反ユダヤ主義、アンティ・セミティズムというものがありました。20世紀前半、第二次世界大戦中、ナチス・ドイツはユダヤ人大虐殺を行いました。ホロコーストです。あれは、たまたまヒトラーというどうしようもなく悪い独裁者によって、ヨーロッパの一角で起きたのではありません。アウシュビッツの悲劇は、キリスト教文明の中だからこそ起きたのであり、その意味でキリスト教会にこそ重い責任があると言っても過言ではありません。
このことは、戦後のヨーロッパ、キリスト教世界では大問題となっていきます。アウシュビッツ以降、これまでの神学の猛反省、再考察がなされてきたと言ってもよいでしょう。そして過去の話ではなく、今の時代を生きるユダヤ人(キリスト教視点で言うところの「旧約聖書」を唯一の聖書としているユダヤ人)との対話、エキュメニカルな活動が求められているのです。「キリスト教でいうところの旧約聖書」というまわりくどい言い方をしましたが、ユダヤ教の人たちは、いわゆる「旧約聖書だけを聖書としています。ですから「旧約」という言い方は、何か過去のものというような響きがありますので、最近では、「第一の契約の書」「第二の契約の書」という言い換えもなされるようになってきました。
このことは、ユダヤ人が身近にあまりいない日本のクリスチャンにとって遠い話のように聞こえるかもしれません。しかし逆に言えば、私はかえって危ない面もあると思います。なぜならユダヤ人というのが観念的になって、旧約聖書の時代に登場する人物のように思ってしまったり、イエス様に敵対し、イエス様を陥れ、殺した人たちと思ったりしてしまう傾向が、逆にあるかもしれません。だから聖書解釈も、ヨーロッパではどんどん深められているのに、日本では古いままで通用するように思ってしてしまうことがあります。さてこれまでの反ユダヤ主義的なキリスト教神学というのは、ざっと言えば、次のようなものです。
「ユダヤ人は神の子イエス・キリストを十字架につけて殺した故に、神の審きの下にあり、ユダヤ人は神に棄てられ、神の選びは、もはやユダヤ人にではなくキリスト教会にのみ妥当し、ユダヤ人との神の契約は廃棄されてしまった。今やキリスト教会こそが神の約束と契約の真の相続人であり、律法による〈古き肉のイスラエル〉なるユダヤ人とシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)は、今や福音による〈新しき霊のイスラエル〉なるキリスト教会によって永遠に代替えされてしまった」(武田武長『ただ一つの契約の弧のもとで ユダヤ人問題の神学的考察』15頁)。
「これまでのユダヤ人とシナゴーグが、クリスチャンとキリスト教会に取って代わった。」そういうふうに、2000年間、大雑把にいうと、言われてきたのです。それはルターもそうですし、もっとさかのぼれば、アウグスティヌスなど古代教父の時代から、そういう神学があったのです。それが反ユダヤ主義、アンティ・セミティズムを助長してきたというふうに言えると思います。
(5)1942年のカール・バルトの言葉
そういう反ユダヤ的神学のもとになった聖書箇所のひとつが、このローマ書9~11章なのでありますが、それは勝手な解釈であり、注意深く読んでみれば、パウロは決してそのようなことは言っていないことがわかります。
まず先ほどの続きで、9章4節以下で、パウロはこう述べます。
「彼らはイスラエル人です。子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。先祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られたのです。」(ローマ9:4)
いくらイエス・キリストが登場したからと言って、ユダヤ人からそれらが取り上げられて、クリスチャンに与えられたとは言っていません。
何よりも、イエス・キリストがユダヤ人であったということを思い起こさせるのです。
カール・バルトという神学者は、1942年というナチスが徹底的なユダヤ人迫害を行っていた時に、こういうことを述べました。
「もし異邦人キリスト者たち(つまりユダヤ人でないクリスチャンたち)がイエス・キリストの先祖や身内、すなわちユダヤ人を捨てるなら、そのことによって実は、イエス・キリストを『もう一度』捨てることになるのである。ユダヤ人は『神に愛されているもの』である。」
そしてバルトは、十字架につけられたキリスト以後のユダヤ民族イスラエルを、「復活したもうたイエス・キリストの民」と呼びました。これは、1942年という年を考えれば、命がけのすごい発言であったと思います。
(6)神の民、ユダヤ人への約束は今も有効
さて、ローマ書に戻りますが、パウロは、このことについて11章の冒頭でこう述べます。
「では尋ねよう。神はご自分の民を退けられたのであろうか。決してそうではない。……神はあらかじめ知っておられたご自分の民を退けられたりなさいませんでした。」(ローマ11:1~2)
そのように自問自答し、少しまとめて言えば、「ユダヤ人たちがつまずいた」こと(彼らの過ち)によって「異邦人に救いがもたらされる結果になり」、それは「彼らに妬みを起こさせるためだった」(同11節)と述べるのです。
さらにこう述べます。「彼らの過ちが世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう。」(ローマ11:12)
そしてこう続けます。
「福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で愛されています。神の賜物と招きは取り消されることがないからです。」(ローマ11:28)
クリスチャンは、ここを読み飛ばしたり、自分たちに都合のよいように解釈したりしていないでしょうか。イエス・キリストが現れたことによって、祝福の担い手がユダヤ人から自分たちに移ったのだと。しかし、神がアブラハムとその子孫に約束されたこと(創世記15章、17章参照)は今も有効であり、イエス・キリストが登場したからと言って変わるわけではありません。
(7)実例としてのヨセフ物語
ケンドール・ソウレンというキリスト教とユダヤ教の対話に関心をもつ神学者が、この点について興味深いことを述べています。それを私に教えてくださったのは聖書神学校の教授であった鈴木脩平先生です。ソウレンは、「イスラエルの神が……イスラエルの目を閉ざすことによって国々を祝福される、などということはあり得ることだろうか。」と問いながら、「実はあった」というのです。そしてこう述べます。
「イスラエルの神がかつて驚くほど同じような仕方で行動したこと、すなわち、あのヨセフと兄弟たちの歴史において行動したことに、人は気づくかもしれない。その場合にもまた、ヤコブの息子たちは、父に特別に愛された兄弟ヨセフを退け、彼を外国人たちに渡したのである。」(創世記37:28参照)。
ヨセフの兄弟たちがねたみによりヨセフを外国人に売り渡し、それによりエジプトに祝福がもたらされました。それは旧約聖書のこの物語を知っている人にはわかると思います。そのことと、イスラエルの民が同胞であるイエス・キリストを受け入れないことによって異邦人に救いがおよんだこと。これを結びつけるのです。私は、この二つを結び付けて考えたことがなかったので、はっとさせられました。ヨセフがエジプトへ送られたことには、神様の壮大な計画がありました。その究極の目的はエジプトの救いではなく、ヤコブの一族の救いでした。エジプトはそのために用いられ、いわばヤコブの祝福のお相伴にあずかったようなものです。
「このよく知られた物語が示しているように、準備段階として国々への祝福を行うという回り道をして、イスラエルにとっての究極的な善を追求するということは、決してあり得ないことではない。」というのです。
ヨセフ物語を通して、ローマの信徒への手紙を読んでみると、なるほどと思います。パウロは「異邦人への使徒」(ローマ11:13)として、異邦人(クリスチャン)に向かって語ります。
「きょうだいたち、あなたがたにこの秘儀をぜひ知っておいてほしい。あなたがたが自分を賢い者と思わないためです。すなわち、イスラエルの一部がかたくなになったのは、異邦人の満ちる時が来るまでのことであり、こうして全イスラエルが救われることになるのです。」(ローマ11:25~26)
(8)神の壮大な計画
神は全イスラエルの救いを考えておられ、そのために異邦人を先に救いへ導くというのです。だとすれば、異邦人クリスチャンはイスラエルの救いのお相伴にあずかっているようなものと言えるかもしれません。
ヨセフがエジプトに渡り、先にエジプトに救いが広まり、迂回するようにしてヤコブの家族が救われた。その千数百年後、イエス・キリストが退けられることにより、救いが異邦人世界におよび、やがて全イスラエルも救われるようになる。私たちの小さな考えを超える、神様の壮大な計画に圧倒される思いがいたします。それはパウロ自身が最後に語っている通りです。
「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。神の裁きのいかに究め難く、その道のいかにたどり難いことか……。すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。」(ローマ11:33~36)
最後は、ユダヤ人も異邦人もすべて神様の大きな御手の中に置かれている。決して捨てられることはない。パウロは自分でもまだよくわからないけれども、そこにおぼろげながら神様の秘められた計画を見て、神様を賛美し、神様に栄光を帰したのでした。そこにはあの8章クライマックスの信仰が生きているのです。
「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者のためには、万事が共に働いて益となるということを、私たちは知っています。」(ローマ8:28)
私たちも、この神様のよき意志を、自分の人生についても、世界の行く末についても、信じて歩んでいきたいと思います。