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2021年2月7日説教「食い下がる信仰」松本敏之牧師

マタイによる福音書15章21~28節

(1)ファリサイ派、律法学者から逃れるため

先ほどお読みいただきましたマタイ福音書15章21節から28節は、本日の日本基督教団の聖書日課です。今日は、この箇所から、一人の信仰者の姿に、心を留めてみたいと思います。一人の信仰者の姿、と言っても小さなエピソード、イエス・キリストとの出会い、会話のエピソードであります。新共同訳聖書では、このところに「カナンの女の信仰」という題が付けられています。少し、聖書に沿って、物語をみてまいりましょう。
 「イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた」(21節)。「そこをたち」の「そこ」とは、どこであるのか。その前の箇所を見てみますと、15章1節に「エルサレムから来たファリサイ派の人々と律法学者が、イエス・キリストを訪問した」とあります。ガリラヤ地方のどこかに、エルサレムからの訪問客があったのです。
 ティルスとシドンというのは、新約聖書巻末にある地図を見ていただくとわかりますが(6 新約時代のパレスチナ、地中海沿岸の北部都市)、ユダヤ人たちからすれば、辺境の地です。エルサレムからすれば、ガリラヤをはるかに超えて、世界の果てのような場所です。ティルスとシドンというのは、悪名高い異教徒の地、ユダヤ人たちは誰も行きたがらない場所でした。イエス・キリストの一行は、なぜこんなところへ行かれたのか。
 それは、この後の24節のイエス・キリストの言葉からもわかるように、異邦人伝道のためではなかったようです。
それでは何のために行かれたのか。一つには、追っ手を逃れるということが、きっとあったでしょう。ファリサイ派の人々が怒っているのを知っておられた。
 もう一つは、それをも含めて、恐らくイエス・キリストは将来に備えて、「雑音なしに」弟子たちを訓練すべく、エルサレムから遠く、遠く、ガリラヤからも退くようにして、この地に来られたのではないでしょうか。この「汚れた地」までは、決してユダヤ人たちは追いかけてこないし、熱狂的な群衆もいないからです。

(2)意外な人がついてきた

 ところが、意外な人が追いかけてきました。それは、この地方、ティルスとシドンの地方に生まれたカナンの女でありました。カナンというのは、イスラエルの地方一帯を指す地名でもありましたが、イスラエルとの対比で言えば、異邦人の汚れた、うっとうしい、あまり交わりたくないという思いのこもった言葉です。
彼女は、こう言いました。「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」(22節)。彼女は、叫びながらついてきたようです。きっとイエス・キリストの評判、不思議な力でもって病気をいやしてくださるという評判を聞きつけてきたのでしょう。
 ここで彼女はイエス・キリストのことを、「ダビデの子」と呼んでいます。これは、イスラエル(ユダヤ人)に対する救いを約束する言葉でした。非常にユダヤ的な表現です。それを異教徒である彼女が、あえて使ったということは、「それでも私はあなたに叫ばざるを得ないのです」という切実な気持ちが表れているのではないでしょうか。ちなみに、「主よ、わたしを憐れんでください」というのは、ミサの最初に歌われる「キリエ・エレイソン」という言葉に通じるものです。「キリエ・エレイソン」とは、「主よ、あわれみたまえ」という意味です。

(3)弟子たちのいやがる態度と第一の拒否

 ここから、彼女とイエス・キリストの一行とのかかわりが始まります。最初、弟子たちは、「いやな奴がついてきた。困ったものだ」と思ったことでしょう。「あまり来て欲しくない人がついてきたなあ」という思い。教会の伝道でも時々、そういうことがありますが、そういうことに巻き込まれながら、教会自身が変わっていくということもあるでしょう。
最初は、イエス・キリストも、彼女の叫びに対して、何もお答えになりませんでした。無視です。それがイエス・キリストの第一の応答でありました。拒否、と言ってもいいでしょう。それでも彼女はついてきます。「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています。」
 とうとう弟子たちが、イエス・キリストに訴えかけました。「イエス様、まだついてきますよ。どうしましょう。イエス様が追い払ってくださいよ。うっとうしくてしょうがありません」(23節参照)。「あれじゃあ、カナンの女というよりは、カナワン女です。」(そういうふうに言ったかどうかわかりませんが)。
 この弟子たちの対応には、異教徒に対する軽蔑と冷たさ、また彼ら自身、主イエスに汚らわしいところへ連れてこられたという非難が感じられます。「だからこんなところへ来たくなかったのです。」 

(4)第二の拒否

そこでとうとう、イエス・キリストは、彼女に向かって口を開かれました。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」(24節)。これは、一見、異邦人伝道を否定した言葉のように聞こえます。事実、目的としてはそういうことはなかったと思います。しかし聖書の大きな流れとしては、その後、異邦人伝道へと向かっていきます。使徒言行録はまさに、そうした記録ですし、同じマタイ福音書でも、復活後のイエス・キリストは、弟子たちに向かって、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、(すべての民〉(つまりすべての民族)をわたしの弟子にしなさい」(マタイ28:18~19)と言っておられます。ですから、この時のイエス・キリストの言葉は、「今はまだその時ではない」というニュアンスがあると思います。順序がある。あるいは、今なすべきことに集中することによって、次のステップへと行けるということが暗示されていると思いました。まだ異邦人伝道の時ではないということ。ここでその原則を確認されたのだと思います。弟子たちの手前、ということもあったかも知れません。
「さあ、これでもうどこかで行ってくれる」と思われかも知れません。弟子たちもきっとそうでしょう。イエス・キリストが彼女の訴えを無視されたことが、第一の拒否であったとすれば、この言葉は、第二の拒否でした。しかし彼女は、まだついてきます。彼女としても、これ位のこと、少々突き放された位で、引き下がるわけにはいきません。娘の命、少なくとも将来がかかっています。否定的な言葉であったとしても、イエス・キリストが口を開いてくださったことは一歩前進、と受けとめたかも知れません。彼女のひたすらな思いがここに表れています。彼女は、それでもついてきて、イエス・キリストの前にひれ伏して、言いました。「主よ、どうかお助けください」(25節)。絶対に引き下がらないという思いがよく表れています。

(5)第三の拒否

そこで、とうとうイエス・キリストは、決定的な言葉をかけられました。「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」(26節)。いわば、第三の拒否です。ユダヤ人を子どもにたとえ、異教徒を犬にたとえられた。これはある意味で、侮辱でしょう。少なくとも普通のセンスであれば、そう聞こえたに違いないと思います。彼女が侮辱されただけではなく、彼女の民族全体、人種全体が侮辱されたような言葉です。
イエス・キリストは、ここであえて彼女を怒らせたようにも見えます。ここまで言われると、憎まれ口を叩いて、去って行ってもおかしくはないのではないでしょうか。「何とひどいことをおっしゃるのですか。もうあなたなんかに頼みません」。しかし、ここでかーっとなったら、もうおしまいです。何のために、ここまで来たかわからない。驚くべきことに、彼女は冷静に、イエス・キリストの一枚上を行くのです。「主よ、ごもっともです。」あなたのおっしゃるとおりです。
「しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」(27節)。
彼女は、イエス・キリスト、自分を、あるいは自分の民族を犬と同一視したことに怒る代わりに、その言葉を用いながら、上手に軌道修正して、自分の主張に結び付けました。そして、三たび「主よ」とイエスに訴えかけるのです。彼女は、この言葉で、異邦人(犬)とユダヤ人(子ども)の両方が、同じ権威の下にあると論じることで、自分の主張を述べる。それによって、その信仰を示していると言えるでしょう。

(6)主イエスの負け

 ここで、主イエスは、ついにこう答えられるのです。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」(28節)。そしてその同じ瞬間に、遠くはなれたところで、娘の病気が癒された。そういうエピソードであります。
さて、私はこのマタイ福音書の記事を読みながら、「これはイエス・キリストが論争に負けた珍しい話だ」と思います。イエス・キリストは論争の名手でありました。この直前のところでも、ファリサイ派の人々をやりこめられました。有名なものとしては、マタイ福音書21章、22章のところで、さまざまな問答が出てきます。「洗礼者ヨハネの権威はどこから来るのか」という権威問答。「税金を納めるべきかどうか」という納税問答。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返せ」という誰もが驚くような、神の知恵としか思えないような言葉でもって、その論争に勝たれました。そして復活問答。「たくさんの兄弟と再婚したその女は、復活の後に誰の妻になるのか」という問いに答えられた。イエス・キリストは次々に吹っかけられる難題に対して、すぱっ、すぱっと答えられる論争の名手でありました。決して負けない。そのイエス・キリストが、今日のところでは、負けておられる。しかも何か喜んで負けておられるイエス・キリストの姿がここに現れていると思うのです。「これは一本、取られました。まいりました。私の負けです。」何かイエス様の苦笑いというか、温かい笑いが見えるように思うのです。このところで、私は、背後で負けたがっているイエス様の姿が透けて見えるように思うのです。
食らいついて来るような求め。それに対して、神様は一見退けるように見えながら、それを受け入れたいと、願っておられるのではないでしょうか。祝福を与えようと待っておられるのではないか、と思うのです。

(7)求めなさい。そうすれば与えられる

主イエスは、こう言われました。

「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門を叩きなさい。そうすれば、開かれる」(マタイ7:7)。

 私たちの目の前の現実は、そうではないように見える。求めても与えられない。探しても見つからない。門を叩いても開かれない。しかしそういう現実の前に、実はもっと求めよ。もっと探せ。もっと叩け、と待っておられるのではないでしょうか。そしてその言葉が真実であることを、このカナンの女に対して示してくださった。
それは私たちに対しても、変わらない愛と恵みをもって接してくださる神様です。真実な思いには、真実をもって答えてくださる神様。それがイエス・キリストを通して示されている聖書の神様です。
一見、神様から見放されたように見える時、突き放されたように思える時、八方ふさがりに見える時、今の私たちの状況もそうかもしれません。コロナウイルスのために、私たちのほうが打ちのめされそうになることがある。しかし実はそこでも、私たちがそれでも食い下がってくるような信仰を待っておられるのではないか。そこで、実は私たちの信仰が試されているのかもしれません。イエス・キリストは、この時、彼女を指して、「あなたの信仰は立派だ」とおっしゃいました。それは、弟子たちの「薄い信仰」(マタイ14:31)と対比させられているように思うのです。私たちは、この女性の信仰に、学びつつ、どんなことがあっても、食い下がっていく信仰を貫いて行きたいと思います。

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