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2021年2月14日説教「まっすぐに主を」松本敏之牧師

マタイによる福音書14章22~33節

(1)放り出されたように見える時

 先ほど、読んでいただいたマタイによる福音書14章22節から33節は、本日の日本基督教団の聖書日課です。今日は、この箇所からみ言葉を聞いていきましょう。
最初に、「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた」(22節)とあります。
弟子たちは夕方、舟に乗りこみ、主イエスが現われたのは夜明け頃であったということですから、弟子たちは一晩中逆風のために、波に悩まされていたことになります。
 外は嵐が吹き荒れています。彼らの乗っているのは、大きなびくともしない船ではなく、いつ沈むかわからない小さな舟です。それだけでなく、彼らの心のうちも穏やかでなかったに違いありません。「もとをただせば、イエス様が自分たちを強いて送り出されたからこうなったのではないか。イエス様の真意がわからない。」夜通し、悩み続けた弟子たちには、自分たちは主イエスに放り出された、忘れられてしまったかのように思えたかもしれません。
 彼らの様子を見ていると、たとえ信仰をもっている者であっても、不安になりびくびくすることがあるということを思い知らされます。信仰をもたない人と同じように、あるいは信仰をもたなかった頃と同じように、嵐に遭い、その度に恐れ、おじまどうのです。彼らは、イエス・キリストが現われても、まだそれを幽霊だと思ってしまいました。
 私たち信仰者の漕ぐ舟も、いつもこの世の波に飲み込まれそうになります。逆風が吹いています。大きな嵐のような経験をすると、それまでの経験も、知識も役に立たないということがあります。神学も信仰も無力に思えます。夜通し悩み続ける弟子たちの姿、これは私たちの姿そのものではないでしょうか。

(2)助けは一歩一歩近づいている

 しかしそうした中にあっても、確かに真の助けが、一歩一歩近づいて来ているということを信じたいと思います。イエス様が弟子たちのところへやってきて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」(27節)とおっしゃいました。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」
 この「わたしだ」という言葉は、特別な重みを持っています。「私はいる」とも訳せます。 “I am” 存在そのものが助けです。小さな子どもにとって、「お母さん」「お父さん」のようなものです。お母さん、お父さんが見えなくなって不安になったときに「お母さんはここにいるよ」と呼びかけられる。「お母さんがいた」「お父さんがいた」ということそのものが救いです。そういう安心感です。

(3)信仰の冒険

 そのときペトロは、イエス・キリストを見て、安心しました。「イエス様、あなたでしたか。」「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」(28節)と言いました。これは信仰の冒険です。主イエスと共にあることが、一体どういうことであるかを、ペトロは一応知っていました。しかしそれを本当に知るためには、一度手すりから手を離して、支えなしで、自分で歩き始めなければならないのです。彼は、このとき、イエス・キリストを試そうとしたのではないでしょう。外の厳しい環境、嵐にもかかわらず、これまで頼りにしていた舟の手すりではなく、主イエスそのものを信じて、新たに歩み出そうとするのです。
 イエス・キリストは、ペトロに向かって、「来なさい」と言われました。新たな信仰の冒険への招きです。それを信じて、ペトロは水の上で、手すりなしで一歩を踏み出します。ペトロはまっすぐに主イエスを見つめながら、歩き始めます。そうすると不思議なことに水の上であるにもかかわらず、歩くことができたというのです。

 (皆さん、水の上を歩くこつを知っていますか。まずそっと右足を出し、水の上に置きます。そしてその右足が沈む前に、左足をさっと出します。そしてその左足が沈む前に、もう一度右足をさっと出すのです。さっさっさっとすばやくすることが大切です。前の教会で教会学校の小学生にそれを教えると、みんな一応、やってみるのですね。「先生、やっぱりだめです。」ちょっと無理でしょうか)。いやそれよりも、まっすぐにイエス様を見ることがコツだと言うほうがよいのかもしれません。

(4)ペトロの手を引き寄せる主イエス

 しかしそのペトロも、もう一度嵐に怯えます。強い風が吹いてきた。大きな波がやってきた。ペトロは、それを見て怖くなりました。その瞬間、主イエスから目をそらしてしまいます。そうすると、とたんに沈みかけたというのです。これも示唆的な言葉ではないでしょうか。
 まっすぐに主イエスを見ているときは、こわくはないし、水の上でさえも歩くことができた。ところが、嵐のほうに気を取られると、沈みかける。もしかすると、「イエス様といえども、この嵐には勝てない」と、とっさに思ってしまったのかもしれません。
 ところがこのお話は、それで終わりではありません。ペトロは信仰が足りずに、残念ながらおぼれ死んでしまいました、という話ではないのです。そのとき、ペトロは「主よ、助けてください」と叫びます。「助けてください。」そうすると、主イエスが、さっと手を伸ばして、ペトロの手をぐっと引きよせてくださった。やはり救いはすぐ近くにあったのです。
 そして「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」(31節)と叱責されました。二人が舟に乗りこむと、とたんに嵐は静まりました。

(5)どんな力も引き離せない

 この嵐は、いろいろなことの象徴と見ることもできるでしょう。それは、新型コロナウイルスに自分が感染したり、身近な人が感染したりすることであるかもしれません。コロナ禍にあって、仕事が立ち行かなくなることであるかもしれません。また昨夜も東北地方で震度6強の大地震があったようですが、東日本大震災のような自然災害であるかもしれません。あるいは「頼りにしていた人が突然亡くなって、生活が成り立たなくなるようなこともそうかもしれません。それらはすべて、見方によれば、私たちの信仰を揺るがそうとする、あるいは壊そうとする悪魔的な力、あるいは悪魔の挑戦と見ることもできるかもしれません。弟子たちを主イエスから奪おうとしている。怯えさせ、自分に従わせようとする。しかし主イエスは、その力に打ち勝たれました。この時、舟の中にいた人は、「本当に、あなたは神の子です」(33節)と、告白しました。
 マーティン・ルーサー・キング牧師は、こう語ります。

「勇気のある人は、恐れに真正面から立ち向かうことによって、恐れに打ち勝つことができる。臆病な人は恐れを直視できないから、それにより、逆に恐れに打ち負かされてしまう。勇気ある人は、たとえ生命を失いかねない状況に置かれても、生きる意欲を失わない。一方、臆病な人は、命を失う不安に脅え、生きる気力をなくしてしまう。私たちは、押し寄せてくる恐れの洪水を阻止するだけの、勇気という名の堤防を絶えず築き続けていなければならない」(『キング牧師の言葉』31頁)。

(6)本日の洗礼式

 本日は、説教の後で、安田淑枝さんの洗礼式が執り行われます。今回もコロナ禍にあって歓迎の愛餐会を持つことができませんので、少し安田淑枝さんの紹介を兼ねてお話させていただきます。安田淑枝さんは、昨年(2020年)1月14日に召天された島本昌子さんのご次女です。淑枝さんは、お母様が天に召された半年後のペンテコステに洗礼を考えて、洗礼準備会にも出ておられました。それはお母様の昌子さんと同じようにしたいという思いがあったからでした。島本昌子さんはご主人の島本福雄さんを天に送られたのが1994年の1月であり、その半年後のペンテコステに洗礼を受けられたのでした。しかしこの度、コロナ禍にあって、礼拝も集まれる時と集まれない時がありましたので、「今あわててしなくてもよいだろう」ということで延期されたのでした。そして昨年末に「洗礼を受けたい」と申し出られましたが、クリスマスの洗礼式が終わったばかりでしたので、「イースターで、どうですか」と申し上げたのですが、「どうしても2月に受けたい」とのことでした。お母様の召天1年ということと、「この2月で区切りのよい年の誕生日を迎えるので、その機会に」ということでした(何歳かは申し上げませんが)。
 役員会でも承認されましたので、本日の洗礼式となった次第です。淑枝さんは、洗礼志願の文章に、こう書いておられます。

「私と教会との出会いは生まれた時からだと思います。父方の祖父母、父もクリスチャンでした。私の名前はヨハネによる福音書15章5節『わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である』から『淑い枝になるように』と父がつけてくれました。」

 淑枝さんは敬愛幼稚園へ入園されて、卒園後も、お父様に連れられて教会学校に通われたそうですが、その後、足が遠のいてしまったとのことです。そして、こう続けて書いておられます。

「そんな私が、再びイエス様の教えを思うようになったのは、子育てで大きな悩みを抱えた頃でした。父の召天後に受洗した母が、教会に誘ってくれました。『耐えられない試練はないのよ。』母は、コリントの信徒への手紙一10章13節が好きでした。たくさんの試練を乗り越えてきた母の言葉は重く、再び私も神様の教えを学んでみようと思いました。2020年1月にその母が召天しました。最愛の母の思い、そして祖父母、父の思いを継ぐべく、節目となる2021年2月の受洗を希望いたします。」

 そうお書きになりました。

(7)試練と逃れの道

 コリントの信徒の手紙一10章13節とは、こういう言葉です。

「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」

 多くの人たちが、この聖書の言葉に励まされてきました。淑枝さんのお母様の島本昌子さんもそうでした。島本昌子さんは、51歳の時にご主人を亡くされ、とても苦労をなさったようです。受洗の2年後、教会の機関紙「からしだね」(1996年7月号)に、このように記しておられます。

「聖書の中の私の好きな言葉の一つ『あなたがたをおそった試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に合わせることはなさらず、試練と共にそれに耐えられるよう、のがれる道をも、備えていて下さいます』(コリント一10章13節)。
 私はこの御言葉を信じ頑張るのですが、神様、私にはこの試練が多すぎるようです。助けてください。神様が嫌いになりそうです。神様ごめんなさい。これからも多くの喜びや、試練がありましょう。神様、私の進む道をお示しください」

 これは試練の真っただ中にある人の、率直な言葉であると思います。「神さま、それでも私は苦しいのです」という気持ちです。「助けてください。」この時のペトロと同じ気持ちです。
 そのような時に、どうすればよいのか。それで神様に見切りをつけて離れてしまっても何の解決にもなりません。私たちに求められることは何か。それはまっすぐにイエス様を見ることではないでしょうか。まわりは嵐が吹き荒れています。どうしてこんなことが起きるのか。心の中にも嵐が吹き荒れます。しかし嵐を見ると沈むのです。
 人につまずくこともあります。残念ながらクリスチャンにつまずくこともある。信仰の先輩に裏切られる。そこで沈みそうになります。そんな時は、人を見ないで、まっすぐイエス様を見ましょう。
神様は時折、愛する者に特別な経験をさせられます。弟子としてしっかりと立つために、よりはっきりと「あなたは本当に神の子です」という信仰の告白をするために、「主は私たちと共におられる」ということを確信させるために、特別に訓練させられるのです。
 このとき、主イエスは、しっかりとペトロの手を握ってくださいました。私たちもこのお方から目を離さずに、見失わないようにしっかりと見つめて、前を向いて歩んでいきましょう。

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