2021年12月12日説教「闇の中から光の中へ」松本敏之牧師
ヨハネによる福音書1章4~5節
ペトロの手紙一2章1~10節
(1)光の中へ招き入れられた者として
講壇のキャンドルに三つ火が灯りました。待降節第三主日です。鹿児島加治屋町教会では、今年のアドベントとクリスマス、「光は闇の中で輝いている」というテーマを掲げて歩んでいます。同時に、4月から始めた聖書日課に即した聖書箇所から御言葉を聞くことも続けています。聖書日課は今週の水曜日12月15日でヤコブの手紙を終えて、12月16日からペトロの手紙一に入ります。今日はペトロの手紙一の中から御言葉を聞いていきたいと思います。ペトロの手紙も、先週のヤコブの手紙同様、説教で取り上げられることの少ない箇所であろうかと思います。私がこの教会で取り上げるのも、今日が初めてです。クリスマスのテーマに即して、「光」という言葉が出て来る箇所を選んでみました。2章9節の言葉です。
「しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを闇の中から光の中へと招き入れてくださった方の力ある顕現を、あなたがたが広く伝えるためです。」(ペトロ一2:9))
「顕現」という言葉は、新共同訳聖書では「力ある業」と訳していました。そのほうがわかりやすいかもしれません。この文章は、内に「神は、あなたがたを闇の中から光の中へ招き入れてくださいました。」という言葉を含んでいます。
神様は、ご自身が「光」として闇の中で輝かれるだけではなくて、闇の中にいる私たちを光の中へと招き入れてくださるのです。そして、それは神様の顕現を、広く世に伝えるためであると述べるのです。言い換えれば、神様がそのように造り変えてくださったこと、そのように力ある業をお示しくださったことを、世に証しするためだということです。
さらに、光の中に招き入れられた状態が、旧約聖書の言葉で、こう表現されています。
「あなたがたは、選ばれた民、王の祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。」(ペトロ一2:9)
私たちクリスチャンの存在が、世において神様のことを証しする存在でなければならない。クリスチャンの存在そのものが、「光は闇の中に輝いている」ことのしるしとなるように、という勧めが語られていると言ってもよいでしょう。
(2)異教徒の間で証して生きる
ペトロの手紙一は、先週のヤコブの手紙と同じように、「クリスチャンらしくふるまいなさい」と「行い」を強調します。ヤコブの手紙の場合には、「信仰をもっていると言いながら、それに行いが伴っていなければ、その信仰は意味がないではないか」というようなメッセージでしたが、ペトロの手紙一の場合には、この世に対してクリスチャンとして、行いをもって証しをするということが中心です。
この文書が書かれた背景としては、異邦人世界の中でクリスチャンに対するさまざまな迫害、試練、誹謗中傷があったようです。そうした信仰者たちに対する慰め、励まし、そして希望が語られます。そしてそれにどう向き合うべきかが語られるのです。
このことは、現代の日本に生きる私たちクリスチャンにも通じるものがあります。現代の日本では、クリスチャンということで迫害を受けることはあまりないでしょうが、それでもほとんどの人がクリスチャンでない世界、クリスチャン人口が1パーセントに満たない日本の社会において、クリスチャンとして生きることはある意味で緊張を強いられることでしょう。しかしそこから世捨て人のようにこの世から離れて生きるのではない。もちろんそうすることもできない。この世の真っただ中で生きていくのです。ただしクリスチャンとなるということは、この世に属する者から、天に属する者とされるということ。国籍を天に移すということです。しかし地上に生き続ける。それは一旦、国籍を、この地上から、天に移した者として、地上では、よそ者として、寄留者として生きるということです。
今日読んでいただいた、すぐ後の2章11節にはこういう言葉が続いています。
「愛する人たち、あなたがたに勧めます。あなたがたはこの世では寄留者であり、滞在者なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。また異教徒の間で立派に振る舞いなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神を崇めるようになります。」(ペトロ一2:11~12)
「肉の欲」というのは、日本語のいわゆる「肉欲」、つまり「性的な欲望」ということではありません。「肉の」というのは、「この世的な」というような意味で、パウロがしばしばこういう言い方をします。この手紙はパウロの思想の影響を受けていると言われます。
また2章の冒頭では、このようにも語られていました。
「だから、一切の悪意、一切の偽り、偽善、妬み、一切の悪口(あっこう)を棄て去って、生まれたばかりの乳飲み子のように、理に適った、混じり気のない乳を慕い求めなさい。これによって救われるようになるためです。あなたがたは、主が恵み深い方であるということを味わったはずです。主のもとに来なさい。」(ペトロ一2:1~4)
そう勧められるのです。これもクリスチャンとしての生き方、言動にかかわるものでしょう。
(3)著者、執筆時期、執筆目的
さてペトロの手紙一について、今日も概説的なことを述べておきましょう。 まず著者ですが、聖書本文では、冒頭に「イエス・キリストの使徒ペトロから」(ペトロ一1:1)とあります。イエス・キリストの一番弟子であったペトロは、もと漁師でありました。使徒言行録4章13節には、使徒ペトロのことが「無学で普通の人」と紹介されています。ところが一方、このペトロの手紙は、新約聖書の中でも随一と言われるほどの洗練されたギリシア語で書かれている。著者は広い知識と豊富な文学的な用語を駆使できる教養人であったことがわかります。ですから、とても「無学で普通の人」であったペトロが書いたとは考えられない。いや聖書の世界のことですから、奇跡が起きて勉強しなくてもそれだけのギリシア語が駆使できるようになったということが万一あったとしても、時代的にもあわない。
先ほど少し申し上げたように、パウロの思想の影響を受けた人物であるようですから、パウロより後の人と考えるのがよいと思います。また手紙の結びの言葉で「共に、選ばれてバビロンにいる人々と、私の子マルコが、よろしくと言っています」(5:13)と記されています。このバビロンというのは、バビロニア帝国のバビロンのことではなく、ローマのことを指す隠語(秘密の言葉)であり、そういう使い方をするのは紀元70年以前にはなかったことだそうです。一方、使徒ペトロは紀元64年に殉教死したと伝えられています。ローマで逆さはりつけになったとされています。そうしたことから、これはやはりヤコブの手紙同様、使徒ペトロの名前で、後の教会の指導者によって書かれた文書であろうと思われます。書かれた年代は早くて70年頃、遅くて2世紀初頭、恐らく90年代頃であろうと言われます。
内容や執筆目的ですが、この文書は、先ほど少しお話したように、周囲の人々(異教徒)から様々な迫害を受けているクリスチャンたちを慰め、信仰に堅く立つように励ます目的で書かれています。
(4)「救い」についての美しい表現
あいさつの後、1章3節から今日読んでいただいた2章10節までは、キリスト教信仰の「救い」について述べて、その「救い」を読者に確信させようとします。
「神は、豊かな憐れみにより、死者の中からのイエス・キリストの復活を通して、私たちを新たに生まれさせ、生ける希望を与えてくださいました。またあなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、消えることのないものを受け継ぐ者としてくださいました。あなたがたは、終わりの時に現わされるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。」(ペトロ一1:3~5)
日本語からしても、美しい表現です。原文のギリシア語も美しい言葉であることが透けて見えます。そのような言葉で試練の中にある人々を励ますのです。
(5)証しの生活の具体的な勧め
その段落から続く2章11節から4章7節では、その「救い」を望みつつ、異教徒に囲まれたこの世の生活をどのように過ごすべきかが語られます。それも先ほど述べた通り、そこから逃げていくのではなく、その人たちに対して、クリスチャンとしてのよき行いを示すことによって、証しの生活をするのです。
(6)問題のある「妻と夫への勧め」
ただしその内容については、現代的視点からすれば、ちょっと肯定しかねる内容も含んでいることを指摘しておいたほうがよいでしょう。例えば、妻と夫の関係。まず妻には、こう勧められます。
「同じように、妻たちよ。自分の夫に従いなさい。」(ペトロ一3:1))
ここまで読んで「もうだめ。ついていけない」と思う方も多いのではないでしょうか。こう続きます。
「たとえ御言葉に従わない夫であっても、妻の無言の振る舞いによって、神のものとされるようになるためです。神を畏れ敬うあなたがたの清い振る舞いを見るからです。」(ペトロ一3:1~2)
これは、夫婦でどちらかがクリスチャンでどちらかがノンクリスチャンというケースは現代の日本でも多いので、それなりに意味のある言葉であると思います。ただし妻がクリスチャンで夫が未信者というパターンのほうが昔から多かったのでしょう。逆のパターンが想定されていないのは興味深いことではあります。
妻に対してはさらに、「あなたがたは髪を編んだり、金の飾りを身に着けたり、衣服を着飾ったりするような外面的なものではなく、柔和で穏やかな霊という朽ちないものを心の内に秘めた人でありなさい。これこそ、神の前でまことに価値があることです。」(ペトロ一3:2~4)
この言葉も、それなりに深い意味がある言葉であるとは思います。ただそれが妻のほうにだけに求められるということは、現代的視点で見れば、「ちょっといただけない」という感じがします。他方、夫に対しては、こう勧められます。3章7節。
「同じように、夫たちよ。妻を自分よりも弱い器だとわきまえて共に生活し、命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい。そうすれば、あなたがたの祈りが妨げられることはありません。」(ペトロ一3:7)
興味深い言葉でありますし、大切なことを語っています。妻たちに対しては「夫に従いなさい」でしたが、夫に対しては「妻を尊敬しなさい」という勧めです。いかがでしょうか。
妻が夫よりも「弱い器であるとわきまえる」というのは、皆さんはどう思われるでしょうか。これも一般論としては当たっている気もしますが、十把一絡げに、このように、上から勧められると抵抗があるのではないでしょうか。
以前は結婚式の時に、司式者によって勧めの言葉として読まれたりもしていましたが、最近ではあまり読まれなくなりました。
ちなみに、エフェソの信徒への手紙の夫婦への勧めは少し違った書き方です。「キリストに対する畏れをもって、互いに従いなさい」(エフェソ5:21)と大前提が述べられます。その上で、妻に対しては「妻たちよ、主に従うように、自分の夫に従いなさい。」(エフェソ5:22)と勧められ、夫に対しては、「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のためにご自分をお与えになったように、妻を愛しなさい」(エフェソ5:25)と勧められます。
今は、結婚式の際には、こちらが読まれることが多いと思います。これも現代的視点からすれば、全く対等ではないな、という気もします。私などは、従うことは仕えることであり、イエス・キリストにおいては、仕えることと愛することは一つのことであったとして、対等性を強調するようにしています。でもまだこじつけとまではいきませんが、やや無理のある解釈かなと思っています。
ペトロの手紙一に戻りますが、その直前の「召し使いたちへの勧め」(奴隷たちへの勧め)にしてもそうです。そのように、個々の勧めに対しては首をかしげざるを得ない部分もありますが、ペトロの手紙一の根本メッセージ、「あなた方は神に選ばれた器です。終わりの日までしっかりとそれを保ち、忍耐して試練に打ち勝ちなさい」ということと、「異教徒(ノンクリスチャン)の人々に対して、態度によって、行いによって、キリストを証しするものとなりなさい」ということは、現代の私たちにも通じるものがあるのではないでしょうか。
(7)愛はすべての罪を覆う
最後に、ペトロの手紙一後半から、心に響く言葉を二つ紹介したいと思います。
ひとつは「愛はすべての罪を覆う」という言葉です。
「万物の終わりが迫っています。それゆえ、思慮深く振る舞い、身を慎んで、よく祈りなさい。何よりもまず、互いに心から愛し合いなさい。愛はすべての罪を覆うからです。不平を言わずにもてなしあいなさい。」(ペトロ一4:7~9)
この「愛はすべての罪を覆う」というのは美しい言葉であると思います。そして美しいだけではなく、実際にそうであると思います。イエス・キリストが十字架で示してくださったことも、まさに「愛がすべての罪を覆う」ことであったのではないでしょうか。
(8)神の恵みの善い管理者
もう一つは、「神の恵みの善い管理者」という言葉です。
「神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を用いて互いに仕えなさい。」(ペトロ一4:10)
私たちは神様からさまざまな賜物をいただいています。しかしそれらは、私たちのもののようでありますが、実は神様から預かったものです。だから「よき所有者」ではなく、「よき管理者」であることが求められるのです。そこで傲慢にならずに、私たちに与えられている賜物を、神様のご用のために「管理者として」有効に用いて生きることが求められているのだと思います。
神様は、私たちを「闇の中から光の中へ」と招き入れてくださった方です。その恵みに応えて、それぞれの終わりの日まで、そして世の終わりの日まで、神様の業を証しして生きていきましょう。