2021年11月28日説教「天からの光が周りを照らした」松本敏之牧師
イザヤ書60章1~3節
使徒言行録22章6~16節
(1)ヘルンフートの星
講壇のキャンドルに一つ火が灯りました。本日からクリスマスを待ち望む季節アドベントが始まりました。同時に、教会暦の新しい1年が今日から始まります。鹿児島加治屋町教会では、アドベントに入ると、このキャンドルの他に、礼拝堂正面の上のほうに、イガイガの星が空中に浮かんでいるように飾られます。これは、ベツレヘムの星を象徴するものですが、この形の星は、ヘルンフート兄弟団という教派の教会から始まったことから、ヘルンフートの星と呼ばれます。ヘルンフート兄弟団というのは、毎年、ローズンゲン(日々の聖句)と呼ばれる短い聖書日課を発行していることでもよく知られています。
ドイツの町や教会では、アドベントに入ると、このヘルンフートの星がよく見かけられるようになるとのことです。ただドイツでは現在、新型コロナウイルスの感染が拡大し、残念ながら各地のクリスマス・マーケットが閉鎖されているようです。早く日常が戻り、安心してクリスマスを迎えられるように、と願っています。
日本では今は感染が減少傾向で落ち着いているようですが、いつ第6派が来るかわからない不安の中でアドベントを迎えることになりました。そのような中、今年は「光は闇の中で輝いている」というテーマを掲げて過ごすことになりました。ここ数年は、賛美歌の歌詞のワンフレーズをクリスマスのテーマとしてきました(例えば昨年は、やはりコロナ禍の中、「来たりたまえ、われらの主よ」という賛美歌の題名を掲げました。)
今年の「光は闇の中に輝いている」という言葉は、賛美歌ではなく、聖書の言葉、ヨハネ福音書1章5節の言葉です。この言葉をもとに、今年も梶原香央里さんがすてきなチラシのデザインを描いてくださいました。感謝いたします。皆さんにも今朝、お届けしたと思いますが、何枚でもお持ちいただいて、お知り合いに送るなど有効に利用して、クリスマスのメッセージを届けていただければと思います。
(2)今年のクリスマス・テーマ
今年のアドベント、クリスマスは、「光は闇の中に輝いている」というテーマを覚えながら、どういう聖書箇所でお話するか迷いましたが、4月から読み進めています鹿児島加治屋町教会独自の聖書日課に即してお話することにいたしました。使徒言行録、ヤコブの手紙、ペトロの手紙、ヨハネの手紙など、あまり説教で取り上げることのない箇所ですので、ぜひこの機会にお話ししたいと思いました。ただ一見クリスマスとはあまり関係がないように思えるところですし、「光は闇の中で輝いている」というテーマと結びつけるのも、牧師にとっては難題ですが、この難題にチャレンジしていきたいと思います。
現在は、使徒言行録を読み進めています。使徒言行録については一度、11月14日に、5章をテキストにして、「ガマリエルの知恵と信仰」という題でお話しました。使徒言行録前半の中心的登場人物はペトロでした。前半ではペトロを中心に、福音が広がり、教会が成長する様子が描かれます。その後、使徒言行録の中心的登場人物は次第にパウロに入れ替わっていきます。
パウロは3回にわたって、地中海世界を宣教旅行いたしますが、13章以降は、そのパウロの宣教旅行に即して物語が進展していきます。その道筋、路程は聖書巻末の地図に記されています。聖書協会共同訳では「11 パウロの第一次および第二次宣教旅行」、「12 パウロの第三次宣教旅行とローマへの旅」と題されています。新共同訳聖書では分け方が少し違いますが、同様の地図が置かれています。
(3)サウロ(パウロ)の回心以前
本日は、使徒言行録22章6~16節をお読みいただきましたが、この箇所は12月2日(今週の木曜日)の聖書日課の箇所です。
パウロは3回の宣教旅行の後、いよいよ生涯最後の旅、しかも帰りのない片道の旅となるローマ行きの旅に出発します。パウロはユダヤ教の中心地エルサレムでも力強くイエス・キリストの福音を宣べ伝えていましたが、それがユダヤ教の指導者たちの怒りにふれ、「神を冒涜している」ということでエルサレム神殿の境内で逮捕されてしまいました。彼らは群衆を扇動して、大騒ぎを起こさせ、群衆はパウロを殺そうとするのですが、軍隊によってその混乱状態は抑えられ、パウロに弁明の機会が与えられることになりました。22章3節でパウロはこう述べ始めました。
「私は、キリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人です。そしてこの都で育ち、ガマリエルのもとで厳しい教育を受け、今日(こんにち)の皆さんと同じように、熱心に神に仕えてきました。」(使徒22:3)
パウロは、前回紹介したガマリエルという律法学者の弟子であったのです。逆に言えば、(今の時代となってはパウロのほうが有名ですから、)ガマリエルという人は、パウロの律法の先生であったということがわかります。
「私はこの道を迫害し、男女を問わず縛り上げて牢に送り、殺すことさえしたのです。このことについては、大祭司も長老全体も、私のために証言してくれます。実は、この人たちからダマスコにいる同志に宛てた手紙までもらい、その地にいる者たちを縛り上げ、エルサレムへ連行して処罰するために出かけて行ったのです。」(使徒22:4~5)
パウロは、ここで「殺すことさえした」と書いてありますが、使徒言行録に、彼がクリスチャンたち(この頃はクリスチャンとは呼ばれていませんが)を殺したということは記されていません。
(4)ステファノの殉教
しかし見逃せない記述が一つあります。それは7章に記されている「ステファノの殉教」の場面です。ステファノという人はギリシア語を話すユダヤ人で、どちらかと言うと、ヘブライ語を話すユダヤ人の下で実際的なお世話をするリーダーの一人でした(使徒6:5参照)。しかし伝道者としてもめきめきと頭角を表していきました。6章8節では「さて、ステファノは恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていた」と記されています。そして7章では、人々の前で立派な説教をします。しかしそれを聞き捨てならないと感じたユダヤ人たちは、ステファノに石を投げつけて殺してしまうのです。ステファノはその死に際で、こう祈りました。
「主イエスよ、私の霊をお受けください。」(使徒7:59)
そしてこう付け加えるのです。
「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。」(使徒7:60)
この祈りは、イエス・キリストが十字架上で天の父なる神に祈った祈りにそっくりのお祈りでした。イエス・キリストもこう祈られたのでした。
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのかわからないのです。」(ルカ23:34)
実は、パウロはその場に立ち会っていたのです。この時、パウロはまだサウロという名前でした。こう記されています。
「人々は大声で叫びながら耳を覆い、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、都の外に引きずり出して石を投げつけた。証人たちは、自分の上着を脱いで、サウロと言う若者の足元に置いた。」(使徒7:57~58)
「サウロは、ステファノの殺害に賛成していた。」(使徒8:1)
ですから、直接石は投げなかったけれども「共犯だ。同罪だ」ということなのでしょう。パウロ自身が、自分でそのように「殺すことさえした」と述べているのです。ちなみにサウロというのは旧約聖書のサウル王にちなんだ名前ですが、パウロというのはそれをギリシア式にした名前です。サウロは回心してクリスチャンになった後、ギリシア式のパウロを名乗り始めることになるのです。
(5)サウロの回心の出来事(三つの記述)
先ほど司会者に読んでいただいた22章12節以下は、パウロは、自分の回心の出来事について、回想しながら証のよう形で語るのです。この回想のもとになった実際の出来事は使徒言行録9章に記されています。むしろそちらのほうが有名でしょう。ちなみに、パウロはこの後、26章12節以下で、もう1回自分の回心について述べることになります。述べられていることも微妙に違うのですが、意義も違います。今日のテキストの22章のほうは、主にユダヤ人に向かって、つまり彼がもともと育ったのと同じ環境にいる人々に向かって、自分がどう変わったのか、なぜ変わったのかを証ししようとするのです。つまり宗教的権威に対してです。一方26章のほうは、弁明の相手は、ローマの権威のもとにあり、ローマから遣わされた総督フェストゥスと、その支配下で王となっているアグリッパ王に向かって弁明する。つまり世俗的権威に向かって、そして異邦人世界に向けて証しをするのです。
そういうことを念頭に置きつつ、今日の箇所をもう一度見てみましょう。
(6)クリスマスの夜との対比
「旅を続けてダマスコに近づいたときのこと、真昼頃、突然、天から強い光が私の周りを照らしました。私は地面に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのか』と語りかける声を聞いたのです。」(使徒22:6~7)
「天から強い光が私の周りを照らした」という表現は、同じルカが書き記したクリスマスのある情景を思い起こさせます。
「さて、その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が現れ、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。」(ルカ2:8~9)
この「主の栄光が周りを照らした」というのと、使徒言行録の「天から強い光が私の周りを照らした」というのは同じ表現が使われています。
一方は真夜中で、一方は真昼でした。真夜中のクリスマスの出来事のほうは、光とは書いてありませんが、光り輝く情景であったのでしょう。真夜中に光が現れたので、羊飼いたちは非常に恐れました。それに対して、天使は「恐れるな」と告げました。一方、サウロのほうは真昼でありました。真昼であるにも関わらず、太陽の輝きを超える光がサウロを照らしたのです。
自然の光を超える強い光は、神様の私たちの世界への介入を意味しています。それは人に恐れをもたらします。その光によって、人は神様の存在を意識します。自分の小ささを実感し、悔い改めを起こさせ、あるいは羊飼いたちのように、恐れながらも大いに喜んで神様の栄光をほめたたえるようになります。
サウロに対しては「恐れるな」とは言われず、「サウル、サウル、なぜ私を迫害するのか」という声が聞こえてきました。
サウロは思わず、「主よ、あなたはどなたですか」と聞き返します。相手が誰であるかわからないまま、「主よ」と呼びかけているのです。神がかった力をもった方であることを察知したのです。サウロ自身は、イエス・キリストに従う人たちが神様を冒涜していると信じて、彼らを捕らえていたのです。まさか自分が神様の意志に反することをしているとは夢にも思わなかったでしょう。
サウロの問いに対する天からの答えはこういう言葉でした。
「私は、あなたが迫害しているナザレのイエスである。」(使徒9:5、22:8)
この言葉が示しているのは、クリスチャンに対する迫害は、イエス・キリスト自身に対する迫害と同じである、ということ。つまりクリスチャンたちが迫害されている時、イエス様も同時に苦しみ悲しんでおられるということです。一緒に苦しんでくださるということです。
(7)神の選びの不思議さ
サウロはびっくりしたことでしょう。そこでサウロの回心が始まるのです。
サウロは、その光の輝きのために目が見えなくなってしまいました。しかし逆に言えば、他のすべてのことから解き放たれて神様と自分だけのことを顧みる時間が与えられたのです。
同時に、アナニアという人物にもイエス・キリストは現れていました。彼は「律法に従って生活する信仰のあつい人でした。幻の中で、アナニアは、「サウロのところへ行け」という声を聞きます。アナニアは、こう答えました。
「主よ、私は、その男がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。ここでも、御名を呼び求める人をすべて縛り上げる権限を、祭司長から受けています。」(使徒9:13~14)
「あんな男のところへ行けと言われるのですか」ということです。すると、こう言われるのです。
「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らの前に私の名を運ぶために、私が選んだ器である。」(使徒9:15)
そしてこう付け加えられました。
「私の名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、彼に知らせよう。」(使徒9:16)
迫害する者がやがて迫害される者となると告げられるのです。それがサウロ、後のパウロの歩むべき道でありました。それ以前に迫害した側にいたことも、そのためのひとつの道備えになっていたことがわかります。神様はなんという器を選ばれるのでしょう。まさに人間の想像の真逆の人を選ばれたのです。神様の選びの不思議さを思います。
アナニアがサウロの上に手を置いて祝福したとたんに、「目からうろこのようなものが落ち、サウロは元通り見えるようにな」(使徒9:17)りました。
日本語にも「目からうろこ」という諺がありますが、それは聖書のこの箇所が元になったことわざです。ここには「元通り見えるようになった」とありますが、それは単に元通りではなく、全く新しい人間に生まれ変わっていました。その意味では日本語の諺が示しているように、「今まで見えなかったことがその瞬間から見えるようになった」と言えるでしょう。サウロの回心の出来事は、同時にサウロの召命の出来事でもありました。
(8)その人にだけわかること
この時の天からの光は、使徒言行録22章9節によれば、一緒にいた人たちにも光は見えたけれども、声は聞こえなかったとあります。9章7節には、声は聞こえても、誰の姿も見えなかったとあります。いずれにしろ、サウロにだけわかる何か特別な出来事であったのです。
神様の私たちの人生への介入はそのような出来事ではないかと思います。その光は、私たちの人生にも注がれます。他の人たちにはわからないかもしれない。自分にだけにわかる形で、神様の何か、声が、光が、言葉が入って来る。そこで恐れを覚える。そこで私たちが悔い改める時に、「恐れるな」という声を聞きつつ、神様に従って生きるようにと召されるのではないでしょうか。
このアドベントとクリスマス、「光は闇の中に輝いている」という言葉を聞きながら、神様の光を受け止めて、それがそれぞれの人生にあることを信じて、歩んでいきましょう。