2021年1月31日説教「真理とは何か」松本敏之牧師
ヨハネ福音書18章28~38節
(1)夜明けの出来事
ヨハネ福音書の受難物語を読み進めています。本日は、ピラトの裁判のところに入っていきます。
「人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった」(28節)。ヨハネ福音書は、ところどころに時刻のことを書いております。カイアファのところから、ピラトのところへ連れていったのは明け方であったというのです。これから最も苦しい経験をなさるイエス・キリストですが、神様の大きな計画の中では、それは夜明けである。大きな一歩を踏み出さんとしている。そういう意味が込められているように思います。
「しかし彼らは、自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである」(28節)。彼らというのは、祭司長たち、宗教勢力の人たちです。ピラトは異邦人ですから、そこへ行くと汚れるというのです。皮肉なことです。「汚れを身に負うまい」としている人たちが、ここで神様から遣わされた御子イエス・キリストを十字架の死へと追いやろうとしている。この矛盾、醜さ。清さを保とうとする中に、汚れが入り込んでいるということを思わざるを得ません。
彼らはピラトの官邸に入ろうとしないので、ピラトのほうが彼らのところへやってきます。「どういう罪でこの男を訴えるのか」(29節)。ピラトはそう問いかけました。しかし彼らはそれに直接には答えません。「この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう」(30節)。そういうふうに言うのです。「彼に罪があるかどうかは、我々がすでに判断したこと。あなたは下手に口出しをせず、それに基づいて黙って裁いてくださればよいのです」ということでしょうか。
(2)木にかけられる
ピラトは、「あなたたちが引き取って、自分たちの律法で裁け」(31節)と言います。「宗教的事柄の内輪もめみたいなことに、首を突っ込みたくない。」ピラトは、形の上では彼らの上に立っていますけれども、どうすることもできません。惨めな姿です。この後も、彼の方が官邸から出たり入ったりすることになります。
ピラトは、イエス・キリストを彼らに突き返そうとしましたが、彼らは「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」(31節)と、それを拒みました。実はユダヤ人たちは、「石打ちの刑」という死刑方法を持っていました。ですから、「私たちはローマの支配下にあります。勝手に死刑にすることはできません。生殺与奪の権限を持っているのはそっちのほうではないですか」と言って、都合よくローマを立てている。何とかしてピラトに裁かせたい。そこにもやはり、自分たちの手を汚したくない、という思いが入っているのでしょう。
ただしヨハネ福音書記者はこう付け加えています。「それは御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった」(32節)。神を冒涜した者に対するユダヤの死刑方法は石打ちの刑でしたが、ローマの仕方では、木にかけます。この後の十字架を指し示しています。これは呪われたしるしでありました。「ある人が死刑に当たる罪を犯して処刑され、あなたがその人を木にかけるならば、死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めねばならない。木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである」(申命記21章22、23節)。
木にかけられた死体は呪われたもの。ヨハネ福音書は、まさにイエス・キリストが「木にかけられた者」として、つまり「呪われた者」として死ななければならなかったということを、示そうとしている。ユダヤ人たちの意図を超えたところで、神様の意図がここにも表れているのです。
(3)一つ目の問い-お前がユダヤ人の王なのか
ピラトは総督官邸の中に入って、次々とイエス・キリストに尋ねます。イエス・キリストに対して尋ねた一つ目の問いは、「お前がユダヤ人の王なのか」(33節)という問いでした。ピラトにとって、「イエス・キリストが王である」というのは、やはり聞き捨てならないことでありました。ある地域に、王が、支配者が二人いてはならない。その場にいたユダヤ人たちも、あえてそこに焦点を絞って、「あなたと対立することを主張している男ですよ。そういう男を放置していていいのですか」と迫ったのでした。ピラトは王という言葉の前に「ユダヤ人の」という言葉をつけて、あくまで自分の外の問題として、投げかけようとしています。
それに対してイエス・キリストは、「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか」(34節)と、問い返します。ピラトは、かっときたのでしょう。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ」(35節)。
私は、イエス・キリストの「あなたは自分の考えで、そう言うのですか」という問いは、私たちにも投げかけられているように思います。私たちは『イエス・キリストが誰であるか』という問いに対しては、人がどう言っているかということではなく、最後のところでは、自分で向き合わなければならない。人の言うとおり、というわけにはいかないのです。
この時のピラトには、イエス・キリストの問いかけなど耳に入っていないようです。どうでもいい話のように思えたのでしょう。ただイエス・キリストの存在が、自分の権利、領域を侵すものであるかどうかということだけが、問題なのでした。
(4)二つ目の問い-いったい何をしたのか
そこでピラトは、二つ目の問いかけをします。「いったい何をしたのか」(35節)。イエス・キリストは、次のように答えられました。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属してはいない」(36節)。
イエス・キリストの国は、ローマ帝国のように、この世界に領土を持っているわけではありません。またイエス・キリストはローマ皇帝、あるいはピラトと並び立つような王ではありません。しかしそのことは、イエス・キリストの国はこの世を離れて、別のところにある、ということでもない。心の中にある、というのでもない。やはりこの世のことに関係がある。だから聖書は、あえて「王」という地上の国で用いる言葉を使うのです。この世を超えた方、つまり神のもとから遣わされた方が、この世にやってこられた。その方がこの世の真っ只中で、しかしこの世を超えた国の方として働いておられるのです。イエス・キリストが王だということには、そういう含みがあります。
(5)三つ目の問い-それでは、やはり王なのか
ピラトには、その言葉の深い意味がわかりません。「わたしの国」と言われたことをとらえて、「それでは、やはり王なのか」(37節)と狭めていきます。
「それでも、あなたは王なのか。この世のものでもない。領土もない。王座もない。王の民もいない。それで一体、どうして王と言えるのか。」ピラト自身の疑いと戸惑いを表しています。
それに対するイエス・キリストの答えは、新共同訳聖書では「わたしが王だとは、あなたが言っていることです」となっています。新しい聖書協会共同訳もほぼ同じです。以前の口語訳聖書では、「あなたの言うとおり、わたしは王である」と訳されていました。随分違います。口語訳では、イエスがそれを肯定したと理解している。新共同訳聖書では、ピラトに投げ返している。どちらも間違いではありません。そして、私はどちらの訳にも意味があると思います。
「そんなことで王と言えるのか」というピラトに向かって、「王だと言ったのはあなたです」とイエス・キリストは言われた。「イエス・キリストを王と認めるかどうか。」それは私たちにそれぞれに委ねられているということでしょう。
また口語訳聖書のように、「あなたの言うとおり、わたしは王である」と読むならば、イエス・キリストは御自分が王であることを宣言なさったということになります。「確かに私は王だ。しかしそれはあなたが考えているようなものではない。それを超えたものだ」というニュアンスになるでしょうか。
(6)四つ目の問い-真理とは何か
イエス・キリストは続けます。「わたしは真理について証しするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」(37節)。どんどんピラトの関心事から離れていくようです。ピラトは、それに対して「真理とは何か」と言いました。彼は、深い意味でこの言葉を語ったのではなく、嘲笑気味に、「真理だって?バカバカしい」と言い放ったのでしょう。「そんなものは、私には関係がない。もっと現実的なこと、いかに人を動かして、いかにうまく支配するか。そしていかに上の権威に取り入るか。それが問題だ。お前の話には付き合っていられない。」
ピラトの言葉には、そういう響きがあるように思います。しかしこれは、本当は深い問いです。「真理とは何か」。私たちの人生において、いつも繰り返し問われるものです。この問いに対して、イエス・キリストはここでは何も答えておられません。ただヨハネ福音書自体が、全体としてこの大きな問いへの答、道しるべを示していると思います。
8章31~32節には、こう記されています。
「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8:31~32)。
これはイエス・キリストが告げられた言葉でした。またもっと直接的に、
「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)
とも言われました。イエス・キリストご自身が「わたしは真理である」とおっしゃったのです。「わたしを通らなければ、誰も父のもとへ行くことはできない」(14:6)。ここでピラトは「真理とは何か」と問いましたが、「真理とは誰か」と言った方がよかったのかも知れません。イエス・キリストこそは、真理のしるしであり、神様が真実な方であることの証であったと思います。
(7)真理は武力で守られない
聖書は、あるいはヨハネ福音書は、何か客観的な中立的な「真理」というものが存在するというふうに考えているわけではありません。辞書的な説明をしようとしているのではないのです。ただ「真理とは、偽りのないもの、私たちを裏切らないもの」ということはできるでしょう。それは、まさにイエス・キリストという存在の中にある。そこにこそ、私たちを裏切らないものがある。神様のよき意志が表されているということです。その中に留まる時、私たちは深いところで自由にされるのです。それが、聖書の大きな、根本的なメッセージです。
私たちのところには、いつもそれ(真理)を脅かそうとする力が働いています。私は、力によって、私たちに「これを認めろ。これを受け入れろ」と迫ってくるところには、どうも真理はないと思います。それは、「自由にする」のとは反対のことです。力づくではなく、また押し付けではなく、私たちのほうから、それを「まことです。本当です」と受け入れられるところにこそ、真理があるのではないでしょうか。
それは、イエス・キリストが「わたしの国は、この世には属してはいない」とおっしゃったことと関係があります。「もし、わたしの国がこの世に属していたら、引き渡されないように、部下が戦ったことだろう」とありました。この世に属する「真理」(あるいは「真理もどき」)は、それを認めさせるために、武力、あるいは力を用いることもあるのではないでしょうか。しかし私は、武力で守られなければならないようなところには真理はないと思います。イエス・キリストはそうはなさらなかった。
イエス・キリストという真理に属する者(弟子たち)も、そういう仕方で武力で守られるのわけではありません。真理というのは、十字架を引き受けていくイエス・キリストの姿の中にこそ、如実に示されているのだと思います。そこに真理がある。弟子であろうとする者も、十字架を引き受けていくイエス・キリストに従う者として、はじめて真理に属する者となるのではないでしょうか。