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2021年4月18日説教「災 禍」松本敏之牧師

出エジプト記7:8~8:15  ルカによる福音書11:19~20

(1)東日本大震災10年、熊本地震5年

先週の4月16日は、熊本大分地震の本震から5年目の日でした。また今年の3月11日で、東日本大震災10年となりました。もうそんなになるのかという思いと、まだ10年にしかならないのかという思いの両方があります。東日本大震災の時、私は東京にいましたが、東京でもかなり揺れたので、記憶に鮮明に残っています。そしてその年の5月と6月と8月、三度にわたって、仙台・石巻方面の津波の被害のひどかった地域を、ボランティア・ワークを兼ねて訪ねましたが、その被害の大きさ、特に津波のあまりにもすさまじい破壊力に言葉を失いました。福島の原発事故被害の地には、もちろん入ることはできませんでした。数年後に、日本基督教団の社会委員会で、被災地にあった教会の跡を訪ねましたが、人気(ひとけ)はなく、2011年当時の教会学校の掲示板がそのままになっていました。

熊本大分地震は、鹿児島に赴任して1年後のことでした。やはり1か月後にYMCAの活動を視察させていただくことを兼ねて、益城町を訪ねました。やはり地震の恐ろしさを痛感しました。その後、エルピスくまもとのボランティアには何度か参加させていただきました。

私たちは、こうした自然災害に遭遇する時、信仰者として、それをどう受け止めればよいのか戸惑います。神様は、どうしてこのようなむごいことをなさるのか。いやそもそも神様はこのことにかかわっておられるのか。私たちはそこで安易な答えを出さないほうがよいと思います。少なくとも、そこで被害を受けられた方が神様の裁きを受けたということでは決してありません。

ただそのことを通して、神様は私たちに何かを訴えかけておられるのではないか、何かを警告しておられるのではないかということを聞き取ろうとすることは大切であると思います。しかしそのメッセージが何であるかを特定することもまた慎重にしなければならないでしょう。

単純な自然災害であったはずのものが、我々人類の文明や科学技術の進歩によって、かえって大きな被害となってしまった。いわば人災となってしまったということは、しばしばあることです。今日、私たちに与えられた出エジプト記の物語、ナイル川の水が血に変わってしまったとか、蛙が大発生したとかいう物語は、そうしたことに関係があるように思います。

(2)大蛇(タンニン)

出エジプト記7章の冒頭で、主なる神さまはモーセに対して、「アロンと一緒にエジプトの王ファラオのもとに行くように」と命じられました。その後の、7章8節から11章10節までは一続きになっております。主なる神様がエジプトからイスラエルの民を導き出すために、次々とエジプトに災いをくだされるという話です。それが、これでもかこれでもかと延々と続いて、全部で10もあります。丁寧に全部読んでいきますと、正直に言ってちょっとうんざりする程です。ですから聖書朗読では、その一部を読んで説教の中で手短にそのストーリーの流れを紹介することになろうかと思います。今日は7章8節から8章15節までのお話をします。

最初の部分(7章8~13節)は、新共同訳聖書では「アロンの杖」という題が付けられていましたが、協会共同訳ではその前の部分からの続きとなっています。主なる神の言われた通り、アロンがファラオの前で、杖を投げるとそれが大蛇になりました。しかしファラオはまだこの程度では驚きません。エジプトの賢者、呪術師を召し出して、その中の魔術師に同じことをやらせるのです。しかしアロンの杖の大蛇は、エジプトの魔術師の杖の大蛇を飲み込んでしまいました。これはその後、起こってくる出来事のプロローグのようです。つまり同じようなことをやってみせても、モーセとアロンの方が上であることを示しております。

ちなみに新共同訳聖書では「蛇」と訳されていたのが、協会共同訳では「大蛇」になりました。この言葉はもともと「タンニン」というヘブライ語ですが、実は4章3節や、この後7章13節で訳されている「蛇」と訳されている言葉(ナハシュ)とは別の言葉です。それを丁寧に訳し分けたのです。タンニンというのは、たとえば創世記1章21節で、「神は大きな海の怪獣を創造された」とありますが、その「海の怪獣」が「タンニン」という言葉です。新共同訳聖書では「水に群がるもの、すなわち大きな怪獣」と訳されていました。聖書の中に「怪獣」という言葉が出てくるのは意外な感じがするかもしれませんが、「タンニン」という言葉は、とても大きな力を持ったものというニュアンスがあったようです。カオスの勢力を指し示したり、エジプト王ファラオのシンボルとしても用いられたりしています(エゼキエル29:3~5、32:2)。つまり神様はここでアロンの杖を「大蛇」にして、エジプトのシンボルである「大蛇」を呑み込ませるという形を見せている、というふうにも読めるでしょう。それは、やがてイスラエルの民が二つに分かれた水の中を通り抜けた後、エジプトの軍隊を吞み込んでしまったということを、予見させるものであるのかもしれません。

(3)血の災い

そこから十の災いが始まります。最初は、「血の災い」です。モーセとアロンは、翌朝、主なる神の言葉を受けて、再びファラオの前に立ちます。舞台は、ナイル川の岸辺です。

「ヘブライ人の神、主が、私をあなたのもとに遣わして『私の民を去らせ、荒れ野で私に仕えさせよ』と命じられた。しかし、あなたはこれまで聞き入れようとはしなかった。それで、主はこう言われる。『次のことによって、私が主であることを知るようになる。』(7:16~17)。

そしてアロンが杖でナイル川の水を打つと、水は血に変わります。川の魚は死に、川は悪臭を放ちました。ナイル川の水だけではなく、エジプト中の水という水の上にアロンが杖を置くと、すべてが血に変わっていきました。このようにしてエジプト中が血に染まったということです。

ところがエジプトの魔術師もまた同じようなことをやって見せたというのです。それでファラオは心をかたくなにいたします。そんなことはヘブライ人の神でなくてもできる、ということでありましょう。

この時にファラオのやったことを考えてみますと、ファラオはエジプトの為政者として、魔術師を使ってではありますが、自分の持てる力を、自分の立場や自分の権威を見せつけるために用いたのであり、そのために自分の民を守るためには用いませんでした。むしろそれにより、エジプトの人たちはとても困ったわけですが、ファラオは意に介さなかったのです。

このことも何か私たちの現代の世界に通じるものがあります。現代においても、為政者たちが自分の持てる力を自分の民を守るためではなく、しばしば自分の民を苦しめるために用いることがあることを思わされます。特に今は、ミャンマーの情勢を見ていると、そのことを強く思うのです。

(4)蛙の災い

その次が蛙です。エジプト中に蛙を大発生させるという災いです。エジプト中が蛙だらけになるのです。王宮を襲い、寝室にも侵入し、ファラオの寝台の上にまで、蛙がのぼってきました。それだけではなく、一般の民家の台所にまで入り、かまどやこね鉢にも入り込みました。これは少しユーモラスな感じがいたします。しかし気持ち悪いし、さぞかし不快な出来事であったでしょう。これもまたエジプトの魔術師が同じことをやってみせます。

神はアロンに命じて、さらにエジプト中の流れ、水路、沼地にまで、蛙を大発生させます。エジプトの魔術師たちも秘術を使って、同様のことをやって見せました。

蛙はどんどん、どんどん増えていきました。しかしここでちょっとした変化が起きました。これまではずっとモーセとアロンがファラオの方へ押しかけていたのですが、ここで初めてファラオがモーセとアロンを呼び出すのです。そしてこのように頼みました。

「私と私の民のもとから蛙を追い払うように主に祈って欲しい。そうすれば、民を去らせ、主にいけにえを献げられるようにしよう」(8:4)。

これは何を意味するのでしょうか。それは、エジプトの魔術師たちは蛙を大発生させることはできたけれども、それを終息させることはできなかった、ということです。もしも魔術師たちにそれができたのであれば、ファラオは彼らを呼んで、それをさせたことでしょう。しかし彼らにはそれができなかったので、仕方なくモーセとアロンを呼び寄せたのです。

これは、今日の私たちの文明にとっても示唆的ではないでしょうか。人間は、神の業の領域にまで入りこみ、神にしかできないと思われていたさまざまなことを、人間もできるようになってきました。しかし調子にのって、といいますか、有頂天になってそれをやっているうちに、自分でそれをコントロールできなくなってしまいまった。終息させることができなくなってしまった。特に原発というのはその最たるものではないでしょうか。広げるだけ広げておきながら、核燃料廃棄物の処理方法すら思いつかない。終息させることができないのです。また公害による水質汚染や大気汚染もそうではないでしょうか。人間の驕り、傲慢さの先にあるものはそういうものかと思わされます。

(5)ファラオが頼んでくる

モーセ・アロンのチームとファラオと魔術師のチームの対決はば、ここが形勢逆転していく、とも言えるでしょう。

もとを正せば、モーセの側にはずっとひとつの要求がありました。それは、「どうか、私たちに三日の道のりをかけて荒野を行かせ、私たちの神、主にいけにえを献げさせてください」というものでありました(5:3)。ここで思いがけず、ファラオが「それを許す」と言ったのです。モーセは驚いて、「それはいつですか。私の方はいつでも蛙を去らせることができます」と言うと、ファラオは「明日」と答えました。モーセはその通り約束を果たすのですが、蛙がいなくなったり死んでしまったりすると、ファラオは再びかたくなになってしまいます。エジプト中には、蛙の死骸があふれ、悪臭を放つようになりますが、それも人間の傲慢さの後遺症のようなものかもしれません。

(6)ぶよの災い

血の災い、蛙の災いの後の、三つ目の災いは、ぶよの災いです。アロンが「土の塵」を、例の杖で打つと、土の塵はすべてぶよに変わっていきました。そしてエジプト全土の人と家畜を襲いました。今度は、もう魔術では追いつけない。これまでの対決では、必ず魔術師も同じようなことをやって見せましたが、今度ばかりはそうはいきません。そして、魔術師はこう言うのです。

「これは神の指によるものです」(8:15)。

これまでエジプトの魔術師はモーセとアロンについてくることができた。つまり神様抜きでもやってみせることができたのです。その限りにおいて、ファラオもモーセとアロンに対して、威勢を張っていることができました。しかしここに来て、魔術師自身が降参宣言をするのです。彼らはファラオよりもいち早く、自分たちが闘っているのが一体誰であるかを悟ったのでありましょう。「これは神の指の指によるものです」。

(7)神の領域と科学の領域

今日では、魔術というよりも科学がこれに近いことをやっているのではないかと思いました。これまでは、まさに神様の領域と考えていたところへ、次々と人間の科学が挑戦して、それは人間の技術でもできるということを実証して見せている。その領域は宇宙科学に及び、生命科学に及んでおります。

しかしながら不思議なことに、そこからいつも同時に、両極端の二つの声が聞こえてくるのです。ひとつは、「やはり神などいないのだ。人間はそのうちに何でもできるようになるであろう」という声であり、もう一つは「やはり神のなさる業は神秘的で、偉大だ」という声です。

意外なことに、本当に優れた科学者の中に敬虔な信仰をもった人が多いものです。それは深く科学について学べば学ぶほど、「これは神の指によるものです」と認めざるを得ない領域に気づくからではないかと思います。人間の到達できる領域はどんどん広がり、深まっていくでありましょうが、決して神様に追いつくことはないでしょう。遺伝子をすべて解明したとしても、神様はさらに深い神秘を用意しておられたということに、科学者は気づくのではないでしょうか。

この時の魔術師もちょうどそのような心境であったかも知れません。エジプトでいち早く、神の働きを認めたのは魔術師でありました。

(8)主イエスも「神の指」について語られた

この「神の指」という言葉は、実は新約聖書にも出てきます。先ほど読んでいただいたルカによる福音書11章20節です。私は2月28日の礼拝で、この物語のマタイによる福音書の並行箇所、マタイ12:22~30で説教しましたので、覚えておられる方もあろうかと思います。マタイ福音書では「しかし、私が神の霊で悪霊を追い出しているのなら、神の国はあなたがたのところに来たのだ」となっているのを、ルカ福音書では、こうなっています。

「しかし、私が神の指で悪霊を追い出しているのなら、神の国はあなたがたのところに来たのだ」(ルカ11:20)。

内容的には、同じことを指し示しているのでしょうが、ルカは神の直接的な働きを「神の指」と表現しました。イエス・キリストは神の指を持っておられた、というか、イエス・キリストの存在そのものが神の指のようなものであった言ってもよいかもしれません。

その「神の霊」そのものである「神の指」は、私たちにも働いており、現代の私たちの世界にも働いていると信じます。コロナ禍にある私たちは、どうしたら、この八方ふさがりのような状況から抜け出すことができるか。きっと神の指の働きによって導かれることを信じたいと思います。そして私たち自身も、神の指の働きに突き動かされて働く者となりたいと思います。

(9)サクラメンタルなアロンの杖

この時、神様には「神の民をエジプトから去らせる」という大きな目的がありました。それを神様は、直接、自分一人でやってしまうこともできたでしょう。そのほうが楽であったかもしれません。しかしモーセを用い、アロンを用いて事を勧められる。しかも杖を用いてことを進められる。この時、アロンが魔術師に勝ったのではありません。モーセが魔術師に勝ったのでもありません。神がその杖を用いられた。

その杖にはサクラメンタルな意味があったと言ってもよいでしょう。サクラメントというのは、プロテスタントでは通常「聖礼典」と訳されます。プロテスタントでは洗礼と聖餐がサクラメント(聖礼典)です。洗礼には水が用いられます。聖餐には、パンとぶどう酒(ぶどうジュース)が用いられます。それは普通の水であり、普通のパンとぶどうジュースでありながら、神がそれを用いられる時にはそれを超えた意味をもち、それを超えた働きをするのです。そういうことがサクラメンタルということです。水が神様の水になる。サクラメントになる。パンとぶどう酒が神様のパンとぶどう酒になる。イエスの体と血になる。そのような意味で、このアロンの杖にはサクラメンタルであったといえるでしょう。

ファラオは、この時魔術師の「これは神の指によるものです」という言葉を聞きながら、謙虚に「そうか。わかった」と神の働きを認めることはありませんでした。それどころか一層、かたくなになっていきました。そのために、これから神様はモーセとアロンを用いて、次の業へと進んでいかれるのです。

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