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2020年4月12日「マスターキーを持つ方」松本敏之牧師

マスターキーを持つ方

エゼキエル書37章1~10節  ヨハネによる福音書20章19~23節

(1)弟子たちの恐れていたもの

イースター、おめでとうございます。

今日の箇所は、「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」(19節)と始まります。なぜ彼らはユダヤ人を恐れていたのでしょうか。自分たちの先生であるイエス・キリストが捕えられて殺された。勢いに乗っているところで、その一味一党も一網打尽にしてしまえ、となるのではないか。そうなると、自分たちもみんな助からないであろう。もしかすると十字架にかけられるかも知れない。そう思って、じーっと閉じこもって、鍵までかけて隠れていたのです。ただこの時の彼らの恐れというのは、それだけではなかったのではないかと思うのです。「主イエスに会った?そんなばかな。もしもそうだとしたら、ここにいる俺たちはどうなるのだろう。みんな主イエスを裏切って逃げてきたのだ。主イエスが現れて『お前たちはよくも、みんな私を裏切って逃げ出したな』とおっしゃるだろうか。ああ恐ろしい。」彼らが「家に閉じこもって、鍵をかけていた」というのは、彼らの心をもよくあらわしていると思います。この当時は、家に鍵をかけない方が多かったようです。彼らには大した財産もありませんでしたので、泥棒を恐れて鍵をかけたのではないでしょう。いろんなことが重なって、言いようのない恐れと不安を感じたのでしょう。

(2)平和があるように

そこへイエス・キリストが現れます。鍵までかけているのに、それを越えて入って来られるのです。弟子たちの恐れていたことが起きたのです。さてそこで主イエスが言われたことは、「うらめしや」ではなく、ただ一言、「あなたがたに平和があるように」ということでした。主イエスを見捨て、見殺しにした罪におののいている弟子たちに向かって、「それでもなお、神は共にいてくださる」ということを宣言してくださいました。「あなたがたに平和があるように」という短い言葉は、そういうことなのです。しかも主イエスは、それを弟子たちの真ん中に立って、言われました。私たちの教会、この交わり、この礼拝の中にも、その真ん中に主イエスが立っておられ、「あなたがたに平和があるように」と告げられるのです。私たちもこの弟子たちと同じように、何かを恐れているかも知れません。自分の生活に、自分の心に鍵をかけている。自分で自分を守ろうとする。主イエスでさえも入れようとしないこともあるかも知れません。

(3)扉をたたくキリスト

イエス・キリストは、普通ならば私たちが中から鍵を開けて入れてくれるように、と辛抱強く待っておられる方だと思います。「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」ヨハネ黙示録3章20節の有名な言葉です。扉の外で、扉を叩きながら、と待っておられる。それはそのとおりであると思います。しかし今日の物語は、それを超えています。待つのではなく、否応なく入ってこられるのです。この二つは、一見、矛盾するように見えます。イエス・キリストにとっては、ドアに鍵がかかっていようが、かかっていまいが、実は関係ない。もっとも、これは肉体をもたない、幽霊のような体であったという風に読むべきではないでしょう。このすぐあとに、「手とわき腹をお見せになった」とありますが、これはまさに「亡霊ではない」ということを言おうとしているのでしょう。ルカ福音書では、「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある」(ルカ24:39)と記されています。

(4)マスターキーを持つ方

しかしイエス・キリストがどのように入ってこられたかは、書いてありません。聖書は、それが一体物理現象であったかということは、興味をもたない。結局は、どういう風に説明したとしても、私たちの想像を超えたことです。私たちの想像を超えたことがここで起こった。それで十分ではないかと思います。鍵をかけているのに入ってこられたということはむしろ、主イエスは、すべての場所、すべての私たちの心のマスターキーを持っておられる、と言うことではないでしょうか。主イエスは、文字通り、私たちのマスター(主人)ですから、どこにでも自由に入ることができます。しかしマスターキーをもっておられるということは、むやみやたらに入り込んでこられるということではありません。マンションの管理人だって、下宿の大家さんだって、マスターキーをもっていても、余程の時でなければ入ってはきませんし、入ってはいけないはずです。緊急事態です。私は、この状況は、そうした「余程の時」であったのだと思います。中からしっかり鍵をかけている。誰も入ってこないようにしている。しかしその心の状況をよく知っておられるイエス・キリストが、弟子たちの表面的な気持ちを通り越して入ってこられた。だからこそ入ってくるなり、「あなたがたに平和があるように」と、一番大事なことを告げられたのです。イエス・キリストは、十字架におかかりになる前に、「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻ってくる」(ヨハネ14:18)と約束されました。今、その言葉のとおりに、戻ってこられたと言えるでしょう。

(5)主を見て喜んだ

「弟子たちは、主を見て喜んだ」(20節)。これもまた、別れの説教の中の次の言葉にさかのぼるものでありましょう。「ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」(ヨハネ16:22)。その約束が今ここに実現しているのです。この喜びは、彼ら自身が、自分を閉じ込めていた罪の支配、死の支配、悪魔の支配の中から解放されて、新しい生命に生き始めるようになった喜びでもあります。もはやユダヤ人を恐れて、隠れることもしない。このはじけるような喜びに重ね合わせるようにして、イエス・キリストは、再び同じことを言われます。「あなたがたに平和があるように」。リコンファーム(再確認)です。そして、喜びのうちに、弟子たちを使徒として派遣するのです。

(6)教会への委託

新しい命にあずかった人間は、じっとしていることができません。もはや鍵をかけて家に閉じこもっていることはできません。世へと押し出されていきます。「イエス・キリストは復活された。そして私たちに命の息を吹き入れられた。この命の主、イエス・キリストにつながろう。そして命の主、イエス・キリストが、望んでおられるような世界を築いていこう。」そのように押し出されていくのです。主イエスは弟子たちを祝福して送り出してくださったように、私たちも祝福して、この世へと送り出してくださいます。不安はあります。罪もあります。しかしその罪もイエス・キリストが担い、お赦しになられる。その恵みを私たち自身がしっかりと受けとめ、またそのことをイエス・キリストの権威で、告げて行かなければならない。大きな使命です。

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