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2020年8月2日説教「平和を実現する人々」松本敏之牧師

平和を実現する人々

マタイによる福音書5章5節 ローマの信徒への手紙14章17~19節

(1)平和聖日

日本では、8月は平和を祈る時となっています。その8月の第一日曜日を日本基督教団では、平和聖日と定めて、特に平和のために心をあわせ、祈る日曜日としています。今年は、新型コロナウイルス感染症予防策として、毎年恒例の行事となっている鹿児島ユネスコ協会との共催行事である「平和の鐘を鳴らそう」も中止しました。また礼拝そのものも、短い形の礼拝となっています。しかしそうした特別な事態の中にあっても、平和のために祈ることはやめてはなりません。そうした特別な事態であるからこそ、「平和を脅かすもの」が立ち現れてくることもあるでしょう。それゆえに、私たちは一層心を込めて平和のために祈り、平和を脅かすものと向き合っていかなければならいない思います。新型コロナウイルスは、これまで全く経験したことのないような危機の中に、私たちを陥れました。昨年の今頃は、全く想像もできなかったことです。あまりにも突然のことで、私たちはうろたえています。そのような時、私たちは一致団結して歩んでいかなければならないのに、私たちの世界は必ずしもそのような方向に動いているようには思えません。大国に目を向けるならば、アメリカ合衆国と中国の非難の応酬、新型コロナウイルス感染症の拡大の責任のなすりあいがあります。特にアメリカのトランプ大統領の中国非難は目に余るものがあります。これは平和と反対方向へと突き進む道でしょう。また今、新型コロナウイルスに対するワクチンの開発、製造に力が注がれていますが、各国ともワクチンの予約確保に奔走しています。それはある程度は、仕方のないことでしょうが、そこでやはり力のある国とない国、お金のある国とない国の差が歴然としてきます。アフリカや南米、アジアの小国など、いわゆる第三世界の国々はほとんど確保できていないようです。これも平和とは反対方向へと突き進んでいっているように思えてなりません。第三世界で新型コロナウイルス感染症が止められなくならば、それはやがていわゆる第一世界にも跳ね返ってくるということを心しておかなければならないでしょう。
聖書が「平和」について語る時、それは単に戦争をしていない状態のことではありません。「平和」は、ヘブライ語ではシャロームという言葉です。新約聖書はギリシア語で書かれていますが、その背景には、やはりヘブライ語のシャロームの思想があります。シャロームというのは、何かが欠けたり、損なわれたりしていない状態です。人間の生のあらゆる領域において、望ましい満ち足りた状態、それがシャロームということの第一の特徴です。ですから「平和」の他に、「平安」「無事」「健康」「繁栄」「和解」などと訳すこともできます。ヨハン・ガルトゥングという人は、単に戦争がない状態を「消極的平和」、それに対してこのシャロームのような状態を「積極的平和」と呼びました。ですから、戦争をしていなくても、「シャローム」ではない状態はあるのです。

(2)2020年 日本基督教団・在日大韓基督教会 平和メッセージ

日本基督教団では、毎年平和聖日にあわせて、姉妹教会である在日大韓基督教会と合同で「平和メッセージ」を発表しています。今年も先日発表されましたので、それをプリントして、皆さんにもお配りいたしました。今日はそれを抜粋して、紹介したいと思います。

(以下、引用)
「2020年 日本基督教団・在日大韓基督教会 平和メッセージ
『実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し…十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。』(エフェソの信徒への手紙2章14、16節)日本基督教団と在日大韓基督教会は、1984年に宣教協約を締結してから36年の歴史を神に導かれて歩んできました。わたしたちを結びあわせる主イエス・キリストは、十字架を通して敵意という隔ての壁を取り壊し、二つのものを一つにしてくださいました。わたしたちは、主イエス・キリストこそ和解と平和の主であることを信じ、2020年の平和メッセージを表明いたします。<新型コロナウイルス感染拡大について>
新型コロナウイルス感染症が世界の脅威となり、日本においても事態が深刻化しています。今この時も、ウイルス感染による痛みや悲しみを覚えておられる方々、悩みと不安の中にある方々の上に、主なる神の慰めと平安をお祈りいたします。(少し飛ばします)

(3)外国人への差別と排斥

(平和メッセージの続きを読む)
<外国人ヘイト問題について>
新型コロナウイルスの感染リスクに社会が脅かされる中で、外国人に対するヘイトスピーチなどの人権侵害がもたらされています。この度、外国人とかかわりのある特定の事業所に対し、「日本キリスト教団」の名を不当に用いた外国人ヘイト文書が送られたことが判明しました。理不尽な憎悪をあらわにした文書によって、どれほど深い痛みと傷がもたらされたかを思うと心が痛みます。被害に遭われた方々に慰めと癒しを切に祈ります。わたしたちは、すべての人の命を贖うキリストへの信仰に基づき、「すべての人と平和に暮らしなさい。」(ローマの信徒への手紙12章18節)との御言葉に従って、差別のない社会が実現することを願い祈り、そのための愛による働きにあずかることを志しています。緊張と不安に満ちた今日の状況の中でこそ、社会の中で弱い立場に置かれた人々が守られ、支えられなければなりません。社会の動揺に乗じたあらゆるヘイトに反対し、この社会に生きるすべての人々の人権が守られるべきことを改めて表明します。」
~~~~(引用終わり)

ここに記されている事件ですが、今年5月に、先ほど述べたように、外国人とかかわりのある特定の事業所に対し、「日本キリスト教団」の名を勝手に用いて「早く日本から出ていけ!」などと記した文書が送られていたのです。これは、一例ですが、もっとひどい外国人ヘイトがあちこちで起きています。そして当の外国の人たちは、出て行って本国に帰ろうと思っても、新型コロナウイルスの持ち込みを恐れて、本国でも受け入れられないということがある。しかし日本の会社やお店も大変で解雇されて、生活が立ち行かなくなってしまった、という外国人も多くいます。これも「シャローム」ではない状態と言えるのではないでしょうか。私たちは、こうした危機の時にこそ、弱い立場に置かれている人に寄り添い(今は、実際には寄り添うことはよくないので、精神的に寄り添い)、励まし、助けていくことが求められているのだと思います。

(4)神の国はシャロームの世界

今日は、ローマの信徒への手紙14章17~19節をお読みいただきました。そこにこう記されています。「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」(17節)。「飲み食いではなく」とありますが、これは少し説明が必要かもしれません。当時は、「豚を食べない」とか「タコを食べない」とか、いろいろと厳しい食物規定があった。そしてそのことで言い争いがあったのです。しかし重要なことはそんなことではない、とパウロは言おうとしたのです。「神の国は、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。」これこそシャロームの世界と言えるでしょう。「このようにしてキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々に信頼されます。だから、平和や互いの向上に役に立つことを追い求めようではありませんか」(18~19節)と勧めるのです。

(5)ブラック・ライブズ・マター運動

もうひとつ、私が今年の平和聖日にあたり忘れてはならないと思うのは、5月にアメリカのミネアポリスで起きた、白人警官による黒人の暴力致死事件です。そこから、「黒人の命は大切だ」というブラック・ライブズ・マター運動が復活しました。そして、この運動はアメリカ全土におよび、さらに世界全体に広がっていきました。一部で暴徒化したところもありましたが、ほとんどはそうではありません。この抗議は真剣に聞かれなければならないし、私たちもむしろ連帯していかなければならないのだと思います。 教会の中には、単純に(超楽天的に)、「みんなが信仰をもてば、こうした差別もなくなっていくはず」という人がいますが、アメリカ社会では決してそうはならなかったのです。私は期せずして、この事件が起きた同じ時期に、ジェイムズ・コーンという黒人の神学者が書いた『誰にも言わないと言ったけれど』という本の書評を書くことになりました。ジェイムズ・コーンは、ほとんどの人がクリスチャンであるはずの国で、どうしてこんなにひどい差別があるのだ。ということを問い、「それは信仰のあり方(神学)が間違っているから」ということを、生涯をかけて告発しました。ブラック・ライブズ・マター運動は、一般的には、信仰とは関係のない運動として捉えられますが(特に日本ではそうでしょう)、コーンの著書を読んでいると、実はこれは、「信仰とかかわりがある」ということ、いや「私たちの信仰は、こうした運動を支え、そこへと押し出すか、少なくとも孤立させず、連帯するようなものでなければおかしいのではないか」ということを学ばされるのです。
先ほどの「平和メッセージ」にも次のような言葉がありました。

<人種差別問題について>
アメリカで白人警察官による黒人男性死亡事件が起きました。聖書には、「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。」(創世記1章27節)とあります。人種差別は、その人間の尊厳、霊的な部分を深く傷つける罪に他なりません。一日も早く、このような愚かな行為が世界から根絶されるよう、わたしたちは祈りと行動を共にして行きます。
(そしてこう結びます。)
わたしたちの教会は今、地球を席巻する過酷なグローバル経済の下で、激変していく社会にあって、この世に遣わされたキリストの体なる教会として、寄留者を歓待の精神で迎えながら、単にナショナルな教会ではなく、移民排斥・マイノリティ排除に抗して、寄留者が招き入れられる「神の家族」(エフェソの信徒への手紙2章19節)として改革されて行くことが求められています。それは同時に、教会自体が今から次の時代へと、頭なる主イエス・キリストによって生かされ、遣わされ、用いられる道であると考えます。」

(6)平和をつくり出す

イエス・キリストは、「平和を実現する人々は、幸いである」と言われました。以前の口語訳聖書では、「平和をつくり出す人たちは、さいわいである」と訳されていました。ちなみに新しい聖書協会共同訳では「平和を造る人々は幸いである」と、少し「口語訳」に近い言葉になりました。
私たちの誰もが平和を愛し、平和を願っています。しかし放っておいて平和が来るわけではありません。平和はつくり出されるものです。それは、波風が立たないようにして、問題をごまかすことではありません。同時に、力で押さえつけることでもありません。真剣に世界の諸問題を直視し、それが突き破られるように働くことです。イエス・キリストは、そのためにご自分が和解の基礎となって、十字架にかかられました。
二つのものを一つにし、ご自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊されました。これが神の子イエス・キリストの姿です。私たちもこのキリストの平和をつくり出す業へと引き入れられて、キリストと共に十字架を担っていく時に、「神の子」と呼ばれるのでしょう。

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