2020年12月27日説教「うたえ、つくられしものは」松本敏之牧師
うたえ、つくられしものは
ルカによる福音書2:22~32
(1)ルカ福音書の4つの賛歌
今年は、「来たりたまえ、われらの主よ」というクリスマスのテーマで連続のる説教をしてきました。キャンドルサービスまで含めると、今日で6回目です。一つの賛美歌で6回も説教をするというのは、私も初めてのことでしたけれども、ようやく最後までたどりついて、ほっとしています。今日は3節の後半の「うたえ、つくられし者は」という言葉をタイトルにいたしました。
先週の日曜日には、3節の前半
「響けよ、天に、あまねく地に
喜びあふれる知らせ。
天使の賛美にこたえ」
という言葉を心にとめてお話をしました。今日は
「天使の賛美にこたえ
うたえ、つくられし者は、
主をたたえる祝いの歌」
という歌詞を心に留めてお話をします。
「天使の賛美」というのは、「グローリア・イン・エクセルシス・デオ」で始まる歌。
日本語では「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」という賛美です。
実は、ルカ福音書のアドベント、クリスマスの物語には、「主をたたえる歌」「賛歌」が、この「天使の賛美」を含めると、4つ記されています。最初に登場するのは、1章46節から56節の「マリアの賛歌」です。ラテン語でマグニフィカート、あるいはマニフィカートと呼ばれます。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」(47節)と始まります。
二つ目は、1章68節から79節の「ザカリアの賛歌」です。「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を」(68節)と始まります。ラテン語では、ベネディクトゥスと呼ばれます。「ほめたたえられよ」という意味です。
三つ目が、先ほどの2章14節の「天使たちの賛歌」です。
(2)シメオンの賛歌、ヌンク・ディミティス
そして四つ目は、2章29節から32節に記されている「シメオンの賛歌」と呼ばれるものです。今日は、「天使の賛美にこたえ」というのが、テーマの中にありますので、天使の賛美よりもうしろに記されている、このシメオンの賛歌を取り上げて、私たちも、そこに心をあわせたいと思いました。
シメオンの賛歌の部分だけをもう一度、読んでみましょう。2章29節以下です。
「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり
この僕を安らかに去らせてくださいます。
わたしはこの目で
あなたの救いを見たからです。
これは万民のために整えてくださった救いで、
異邦人を照らす啓示の光、
あなたの民イスラエルの誉れです。」
(29~32節)
このシメオンの賛歌は、ヌンク・ディミティス(Nunc Dimittis)と呼ばれて、やはりひとつの賛美歌となっています。「今こそ去らせてください」という意味です。『讃美歌21』にも、180番、181番に、「ヌンク・ディミティス」の賛美歌が収められています。
教会暦を厳格にまもる教会(教団)においては、大晦日にこの聖書の箇所を読んで、このヌンク・ディミティスを歌うそうです。確かに「今こそ去らせてください」という言葉は、一年を終わる時にふさわしいものでしょう。
私たちもこのシメオンの賛歌の心を私たちの心とすることによって、この年の瀬の礼拝をまもりましょう。そして私たちは、その年に限らず、まさに終わりに向かって生きている存在であります(それぞれの人生には終わりがある)ので、そのことを改めて覚える機会にしたいと思います。
(3)老シメオン
22節には、イエス・キリストが両親に抱かれてエルサレムの神殿に連れて来られたことが記されていますが、その幼子イエスに一人の人物が出会いました。それがシメオンであります。このシメオンが一体何歳位であったのかは記されていませんが、昔から老人として見られてきました。老シメオンとよく言われます。シメオンの物語に続いて出てくるもう一人の人物、アンナという女性がいますが、こちらははっきり84歳であったと記されています(37節)。
現代の日本では、84歳はいかがでしょうか。「老人一年生」程度かも知れませんが、この当時としては、かなり長生きの方であったのでしょう。その84歳のアンナと並んで登場するシメオンも、恐らく老人であったのであろうというわけです。
またシメオンは、「主が遣わすメシアに会うまでは決して死ぬことがない」とのお告げを聖霊から受けていたというのです(26節)。あるいはシメオン自身も、「今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます」(29節)と言っています。「神様、私はもう死んでもいいのです。私の人生の目的を達しましたから、もう死なせてください」と言っている。こんなことは言うのは老人に違いないということなのでしょう。
(4)シメオンの祈り
シメオンとは一体どういう人であったのでしょうか。彼がどんな仕事をしていたのかというようなことは何も書いてありません。ただ「この人は信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた」(25節)と記されています。そして今申し上げましたが、「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた」(26節)ということです。
興味深いことは、この後の27節も含めて、3回も続けて「聖霊」について語られていることです。このシメオンに、聖霊が宿っていた。聖霊が彼をとらえていた。聖霊が導いていた。それは言い換えれば、神が彼と共にあったということです。
彼は、自分が慰められることよりも、神の民と呼ばれるイスラエルが慰められなければならない、そうでなければ自分は死ぬわけにはいかないという祈りを持っていました。ただし彼はイスラエルだけのために祈っていたのではないでしょう。賛歌の中で「これは万民のために整えてくださった救い」(30節)と言い、さらに「異邦人を照らす啓示の光」(31節)とも言っています。イスラエルの救いだけではなく、万民の救い、異邦人の救いも視野に入っている。それを抜きにして、イスラエルの慰めもありえないということを悟っていたのかも知れません。
イスラエルの民だけではなく、世界中の人々、現代の世界で言えば、日本人も中国人も朝鮮人も、そしてイスラエル人も、他の中東の人々も、みんなが、これはわれわれの救いだと見ることができるような救いを整えてくださったと、歌うのです。
(5)この目で救いを見た
彼はここで「わたしはこの目であなたの救いを見た」(30節)と言っています。これは不思議な言葉です。彼は実際には、まだ幼子イエス・キリストを見ただけです。その幼子がやがて成長し、救いの御業をなすようになるわけですが、それはまだまだ先のことです。それにもかかわらず、彼はすでに救いを見たというのです。これはシメオンの信仰の幻と言ってもいいでしょう。彼にとって「救い主を見る」ということは「救いを見る」ということと同じことでありました。この幼子を見ながら、そこに神様がかかわっておられるならば、将来に何が起こるかということを、いわば透視することができたのです。彼の目の前にあるイスラエルの現実は、恐らくまだ同じような状態が続いていたに違いありません。しかし神様はこのイスラエルをお見捨てになっていない。その証拠として救い主をお遣わしになった。それが彼にとっては「救いを見た」ということでありました。
こういうのを、終末論的視点と言います。将来、歴史の終わりのところから、今の私たちの現実を振り返り見る視点です。私たちは普通、今自分がいるところ、「今」という視点でしかものを見ることができないものですが、聖霊が注がれ、神様の約束を知っていることによって、もうひとつの視点が与えられる。ヘブライ人への手紙11章1節に「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」と記されています。まさにシメオンもこの時、信仰の目でもって「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認」して、「救いを見た」のでありましょう。
(6)啓示の光
シメオンはさらに、「(これは)異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです」と言っています。「啓示の光」というのは、ただの光ではありません。神様から出ている光です。神様が私たちに向かって、ご自分の方から顕された光です。これは先程申し上げた終末論的視点というのと関係があります。この光(啓示の光)によって、私たちは自分の目の前にある現実を、違った仕方で見ることができるようになる。今までとは何も変わっていないように思える現実、実際に何も変わっていない現実をを、神様の約束を知っている者として、将来の視点から振り返り見ることが許されるのです。それが啓示の光、終末論的視点というものです。神が共におられる。シメオンが救いを見たというのも、まさにこの「啓示の光」によって見たのだということができるでしょう。
(7)信仰は、いつも新しい驚き
「父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた」(33節)とあります。この「驚いていた」というのは、18節に出てきた「聞いたものたちは皆、羊飼いたちの話を不思議に思った」という箇所の「不思議に思った」というのと同じ言葉が使われています。
父と母というのは、マリアとヨセフです。マリアもヨセフもそれぞれに天使ガブリエルの言葉を聞いて、自分たちの腕に抱かれている幼子が、一体誰であるか、どういう存在であるかを、それなりに知っていたはずです。それにもかかわらず、シメオンの歌を聞いて、驚いたのです。知っているはずのことに驚く。私は信仰とはそういうものであろうと思うのです。いつも驚きをもたらす。神がこの世界にかかわられる時、一体何が起きるかということを、聖書を通して、あるいは説教を通して知っているはずなのに、それでも驚かされるのです。神のおっしゃったこと、聖書に書いてあることは本当であった、と驚くのです。神が生きて働いておられる現実に触れる時、私たちは自分が揺り動かされる経験をいたします。いつも新しい。既成事実になっていまわない。何らかの原則になってしまわないのです。
今年はコロナ禍にあって、世界全体でかつてない程大変な年でありました。そして問題はまだまだ解決していません。さまざまな課題、悩みを抱えたまま新しい年へ進みゆこうとしています。そういう方はこの中にもおられることでしょう。しかしそうした厳しい現実の中で、将来から、歴史の終わりから、私たちの人生の終わりから今の現実を振り返り見る視点を与えられているのです。そしてそれをすでに得た者として、喜びの歌を歌うことができるのです。そうした思いを新たにし、シメオンのように心を安らかにして、天使の賛美にこたえて、賛美の歌を歌いつつ、新しい年へと向かっていきましょう。