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2020年12月13日説教「われらの救いのために」松本敏之牧師

われらの救いのために

ルカによる福音書2:1~7、フィリピの信徒への手紙2:6~8

(1)まぶねの中に眠るみ子

講壇のキャンドルに三つ火がともり、待降節第三主日を迎えました。本日は、この後、3人の方々の洗礼式がありますので、短めに説教をしたいと思います。
本日の説教題を「われらの救いのために」といたしました。これは、今年のクリスマス・テーマである「来たりたまえ、われらの主よ」という賛美歌(241番)の2節(先ほど歌いましたが)の途中の言葉です。もう少し続けて言えば、こういう言葉です。
「われらの救いのために しもべの姿をとりて まぶねの中 眠るみ子よ」(繰り返す)
この言葉は、少し順序を変えれば、こうなるでしょう。
「み子は、私たちの救いのために、しもべの姿をとって、まぶねの中に眠っておられる」
「まぶねの中に眠るみ子」、それは、無防備な姿です。自分では何もできない。しかし「その方が私たちの間におられる」というだけで、大きな慰めと励ましがあります。それは「神が私たちと共におられる」しるしだからです。
先週、榮さらさんのお父様、児玉憲雄さんが天に召されて、ご自宅で前夜式と葬送式を執り行いました。私は、この時期に行う葬儀には、しばしば「きよしこの夜」を歌うことにしています。
「きよしこの夜 星はひかり 救いのみ子は まぶねの中に 眠りたもう 安らかに」
クリスマスにはいつも歌う歌ですが、葬儀に際して歌うと、大きな慰めがあります。亡くなった方が眠っておられる、そのそばで、まぶねの中で眠るイエス・キリストも、横になって共にいてくださる。そう実感することができるからです。

(2)言は肉となって、わたしたちの間に宿られた

聖書によれば、「み子」は、実は、この地上に人間として生まれる前から、天におられた。いや天地創造の時から、父なる神と共におられた。神と等しい方だけれども、父なる神と共におられた。ヨハネ福音書では、人としてこの世に来られる前のキリストのことを「言」(ことば)と呼んでいます。もともとは〈ロゴス〉というギリシア語であります。
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った、成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」(ヨハネ1:1~3)と始まります。
「言は神と共にあった」という言い方と「言は神であった」という言い方からして、私たちの常識からすれば、すでに矛盾をはらんでいるように思える言い方です。「キリストは神なのか。それとも神の子ではあるけれども神ではないのか」。それが謎のまま詩のような形で含まれた形になっています。それを後の神学者たちは「三位一体」という言葉で言い表しました。「別のペルソナ(パーソン、人格、位格)を持っているけれども、一体だ」というふうに、その関係を表現しようといたしました。
そして「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハネ1:14)というのです。「肉となって」というのは「体をとって」ということです。これは、クリスマスを指し示しています。

(3)キリスト賛歌

フィリピの信徒への手紙は、また独特の表現でそのことを語っています。こういう言葉です。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」(6節)。
フィリピの信徒への手紙を書いたのは、使徒パウロでありますが、この部分は、他の箇所と少し文体が違っているそうです。恐らく、パウロはその時代にすでにあった「キリスト賛歌」と呼ばれる信仰告白の歌を、そこに入れたのであろうと言われます。
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。」これは、まさしくクリスマスの出来事を指し示しています。
またキリストは、人間は人間でも人の上に立つ存在ではなく、人の下に立つ存在である「僕」の姿をとられました。どうしてでしょうか。それはどんな人よりも下に立つことによって、すべての人を受け止めるためでありました。さらにこう続きます。
「人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(7~8節)。
さきほどの6節の言葉がクリスマスを指しているとすれば、こちらは受難の出来事を指していると言えるでしょう。「それも十字架の死に至るまで」というのは、元のキリスト賛歌にはなかった言葉であり、パウロが強調してこれを付け加えたのだろう、と言われます。流暢な韻文の流れが、ここで一旦途切れると言いますか、足をとどめてそれに耳を傾ける。パウロはそういうことを意識して、「それも十字架の死に至るまで」という言葉を入れたのであろうと言われます。
そこには「われらの救いのために」という神様の大きな計画がありました。それが必然的に十字架を指し示していたのです。

(4)3人の受洗志願の方々

今日はこれから3人の方の洗礼式がありますが、神様はこの方々の「救い」のためにも、それぞれに道を備えてくださっていたということを思います。今年のクリスマスは、歓迎の愛餐会を開くことができませんので、少しここでそれぞれが「洗礼を志願するにあたって」と題してお書きくださった文章の一部を読みながら、ご紹介させていただきます。
最初に洗礼を申し出られたのは、新内博之さんでした。新内さんは鹿児島YMCAが10年あまり前に設立された時からのメインスタッフです。まわりの人たちはみんな、新内さんが早く信仰を持ってくれるように、祈り願っていましたが、ご本人は躊躇があったようです。「仕事のために信仰心を持つことには違和感がある。自分自身納得いかない」ということで、それを先に延ばしてこられました。しかしこう書いておられます。
「信仰心を持つきっかけは突然やってきます。家族の大病は仕事のことも考えられないほど、心の負担が大きく、良くなってほしいと祈ることを始めました。その祈りに、イエス・キリストが心の中心にいたのです。仕事のために信仰心を持つのかと苦悩していた自分が、自然と、そして人のために祈りたいと思ったときに、キリスト教を信仰するということ受け入れている自分に気づいたのです。」またYMCAの研修に参加されて、「聖書に触れるたびに、聖句を唱和するたびに、祈りがとても身近にある、生活の一部になっていきました」とのことです。
あとのお二人の中村アイ子さんと坂口さわ子さんは親子です。お母様の中村アイ子さんはもう20年くらい前から、そしてお嬢様の坂口さわ子さんも、お母様に誘われて10年くらい前から、鹿児島加治屋町教会の12月24日のキャンドルサービスには、毎年出席しておられたそうです。
数年前のキャンドルサービスのメッセージに心打たれて、「いつか朝の礼拝にも参加してみたい」という気持ちを持たれ、お二人で勇気をふりしぼって、ある日曜日に教会の礼拝に参加されたとのことです。
坂口さわ子さんはこう記しておられます。「聖書のこともよく知らなかったので戸惑いもありましたが、皆さんにあたたかく迎えていただき、今に至ります。まさか毎週通うようになるとは思ってもみませんでした。無責任な言い方になるかもしれませんが、自然に足が向いてしまい、止まらなくなりました。母も私も行くのやめようかと思ったことは一度もないのです。
みんなで一緒に言葉を読んで祈る、一緒に歌う、お話を聞く。教会でしていることはとてもシンプルなこと。でもそこに大切な何かがあると感じます。上手く表現できませんが、老若男女、LGBT、様々な人たちが神さまのもとに集まっている、そして神さまはすべてよし、とおっしゃる。そのことがとてもうれしくてそこに私もつながっていたいなと思っています。」
また中村アイ子さんもこう述べられています。「礼拝に参加したり、聖書の会で勉強したりするうちに、何も知らなかった聖書の世界がすこ〜しずつ開き、遠い存在だった神様との距離が近づいてきた感じです。ただ親しくなった教会員の方々から、そっと洗礼を促されても、まだまだわからないこと、信じきれないところもたくさんあり、自分はもっと研鑽を積まねばと迷っていました。でも、聖書の会でヨハネ福音書を読んで、みなさんの話を聞いたり、『洗礼を受けるあなたに』という本を読んだりするうちに、心につかえてたものがストンと落ちた感じです。最近、とんとんと神様に心の扉を叩かれているような気がします。まだまだ未熟ですが、差しのべられられた神様の手に、自分も手を伸ばして、神様の御心に従おうという気になりました。人生の最後のコーナーで新たなスタート地点に立ち、一歩一歩信仰の道を歩いていければなと思っています。」
3人の方々は、もっと長く書いてくださいましたが、皆さんに、少しその気持ちを共有していただきたいと思って、その一部をご紹介いたしました。

(5)とんとんと神様が心の扉を叩いておられる

神様が、そしてイエス様が、それぞれの方に、それぞれの道を備えてくださっていたということを思いました。このことは、この3人の方々だけではありません。それはここにおられる方々もみな同様です。すでに洗礼を受けておられる方は、ご自分がどのように導かれたかと改めて思い起こして感謝していただきたいと思います。またまだ洗礼を受けておられない方も、ここにおられるということが、すでにその招きを受けていることのしるしです。いや動画配信でこのメッセージを聞いておられる方もそうです。中村アイ子さんのように、「とんとんと神様が心の扉を叩いておられる」ことに気づいていただきたいと思います。

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